掲載:2020年9月号(※年齢および内容は本誌掲載当時のものです)
漫才師B&Bとして80年代の漫才ブームを駆け抜け、幼少期の祖母との「明るい貧乏」な思い出をつづったベストセラー『佐賀のがばいばあちゃん』を経て執筆した書籍は40冊以上を数える島田洋七さん。
独演会のように1人で1時間ほどをしゃべり倒す講演会で全国を飛び回った回数は累計4800回を超えました。そんなパワフルな洋七さんはいま、奥さまの律子さんと佐賀に暮らしています。
本誌2020年9月号掲載のインタビューを、前編・後編にわたってご紹介します!
コロナ禍のいま、歩数計を使って減量に挑戦中
「周りはぜ〜んぶ田んぼで、真っ平らやねんこのへん。佐賀平野やから」
畳みかけるネタを猛烈なスピードで展開し、渾身のギャグ「もみじまんじゅう!」の破壊力で観客を啞然とさせた漫才師・B&Bとして80年代の漫才ブームを牽引した島田洋七さん(70歳)。現在は〝がばいばあちゃん〞との思い出の地である佐賀に、50年連れ添う妻の律子さん(69歳)と暮らす。
黒柴のチャドくん(♂9歳)と、ラブラドールレトリバーのさっちゃん(♀2歳)も大切な家族の一員。コロナ禍の現在、年間120~130本もこなしていた講演会の仕事はほぼキャンセルになり、朝はゆっくりと10時ごろに起床。1日1万歩を目標に、朝の散歩が日課となっている。
「コロナに負けてられへんがな、なあ? 健康なほうがええからね。もし東京でマンションに住んでいて、あっちにもこっちにも行ったらあかん!となったらキツイなー。田舎で家におると〝水やっとき〜〞と言われて撒きに行ったりして自然と歩くけど」
炭水化物を少なめにして1日ご飯を軽く2杯まで、大好きだったお酒もほとんど飲まなくなり、体重は81.5kgから74kgまで減量。目標体重68kgまであと少し。
「まだまだやるよー」と、スマホの歩数計とにらめっこする日々を楽しむ。
義母の介護のため51歳で移住を決断
振り返ると、洋七さんの人生はまるで、ジェットコースターのよう。2歳のときに父親を原爆症で亡くし、女手一つで息子2人を育てる母親から佐賀の祖母に預けられて8年間を過ごし、野球の名門である広島・広陵高校へ進学。ケガで野球を断念して地元の大学へ進学するも、20歳で律子さんと出会って東京へ駆け落ち。「たまたま漫才を見て、こんなんやってみようかな?と思ってやったら売れた、っちゅうヤツで」。やがてブームの終焉、コンビ解散。ビートたけしさんの家に居候し、7年ほど(!)たけし軍団にご飯をつくっていた時期もあった。
そして1987年、のちにベストセラーとなる『佐賀のがばいばあちゃん』を自費出版。講演会で全国を飛び回るように。そんなころ佐賀に暮らす律子さんの母親が病に倒れ、当時自宅のあった埼玉との遠距離介護が始まる。
「奥さんは月の半分は介護に佐賀まで行ってた。なんぼ自分の親だって疲れますよ。これはもう、俺が帰ればええなと」
妻に黙って移住を決め、300坪の土地に平屋の日本家屋を建築。2001年に移住した。
「やっぱり佐賀に越してよかった。お義母さんにも毎日会いに行けるし。2〜3週間しか持たんと言われたけど14年生きたからな。人間の生命力ってわからんなぁ。そもそも俺も、いつかは佐賀に帰りたいという思いがあって。51歳で思い切ったわけだけど、70歳になって帰るのも大変やんか、田舎の暮らしは体力使うから」
田んぼに囲まれていて近くに川があること、そして講演会の仕事で全国を飛び回る洋七さんにとって、交通の便のよさが移住先を決める大きな決め手に。自宅から車で10分以内に量販店やスーパー、総合病院があり、佐賀空港や佐賀駅へも15〜20分。新鳥栖駅で新幹線に乗り換えられるし、高速道路も利用しやすい。
「佐賀ってほら、ネームバリューがないやんか。でも海も山も近いし、むっちゃ便利よ。ここだけ見たら田舎や〜と思うけど、来た人はみんな、なんでもありますね!って言うね」
(後編につづく)
しまだ・ようしち●1950年2月10日生まれ、広島県出身。漫才コンビB&Bとして、80年代漫才ブームの牽引者に。著書『佐賀のがばいばあちゃん』はシリーズ累計1000万部を超えるベストセラーを記録、祖母との生活をもとに語る講演会は累計4800回を超えた。『島田洋七の朝から言わせろ!』(KBCラジオ)にレギュラー出演中。
文/浅見祥子 写真/樋渡新一
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