元日に発生し、甚大な被害をもたらした能登半島地震。奥能登にある珠洲市はいまだ復興がままならない状況だが、同地で被災したにもかかわらず、地域の未来のために奮闘する移住者がいた。なぜ珠洲を選び、そして居続けるのか。その思いを伺った。
掲載:2024年8月号
石川県珠洲市 すずし
石川県・能登半島の最先端に位置する、人口約1万2000人の本州で最も人口の少ない市。里山里海の原風景や伝統文化が色濃く残る一方、「奥能登国際芸術祭」に代表される先進的な取り組みでも知られる。羽田からのと里山空港まで約1時間、のと里山空港から乗合タクシーで約45分。または金沢から特急バスで約3時間。写真/「道の駅 すずなり」は市の中心部にあり、観光案内所も併設されているため市内をめぐる拠点に便利。取材当日は救援物資の配給が行われていた。
移住の数日後に能登半島地震が発生
畠山 陸さん(27歳)
1997年生まれ、札幌市出身。能登半島珠洲市在住。合同会社惚惚代表、能登半島地震支援団体「惚惚倶楽部」主催、horebore店主、hotel notonowa支配人、石川県地域おこし協力隊。最果ての地、珠洲への移住者。能登半島地震後、支援活動を行いながら復興のための事業を行う。写真/自宅前に広がる海辺が畠山さんのお気に入り。「釣りをしたりキャンプをしたり、最高のぜいたくです」。天気がよければ遠くに立山連峰も望める。
「地震が発生した当時は自宅にいました。津波警報が出て、慌てて山のほうへ逃げて。津波は玄関まで到達していたようです」
上がり框(かまち)を指さしながら、畠山 陸さんは元日に襲った災禍を淡々と振り返った。
日本海に突き出した能登半島。その先端に位置する珠洲市に畠山さんが移り住んだのは震災のわずか数日前。富山湾に面した古い空き家を紹介され、一目で気に入ったのだという。
「都会でもてはやされているエコやSDGsが、能登には当たり前にあるんです」と畠山さん。知人の誘いで訪れた珠洲は望外に心地よかった。「ここで生きてみたい」。くしくも2023年5月に能登で発生した地震が、新しい生き方を模索する畠山さんを後押しした。
学生時代からホテルベンチャーの仕事に携わるなど、挑戦心に富んでいた畠山さん。好きが高じてのめり込むうちに、デザインやイベントプロデュースなど、面白い仕事がいつしか舞い込むようになったという。
その1つが珠洲市内にある廃モーテルの再生事業だ。ホテル1階をカフェにして、地域に開かれた場所にしようと考えた。開業予定は今年の3月。その準備のさなかに地震が襲った。
無我夢中だった。二次避難者を車で金沢へ届け、物資を積み込んで再び珠洲へ。個人の活動を発展させる形で、1月中旬には支援団体「惚惚(ほれぼれ)倶楽部」を設立し、ボランティアの受け入れや炊き出し、チャリティー活動を継続できる体制を構築。ボランティアの宿泊先不足に対応すべく、自宅も無償で開放した。
6月に開業を迎えたhotel notonowa。畠山さんは支配人を務めるほか、1階のカフェ「horebore」のオーナー兼店主でもある。カフェは宿泊客以外も利用可能で、食事メニューも充実させる予定だ。
客室は全7室。部屋ごとにテーマが異なる内装デザインも畠山さん自ら手がけた。市中心部から車で10分ほどの立地にあり、オーシャンビューの部屋もある。
カフェのカウンターはケヤキの一枚板。ホテルオーナーの知人宅に眠っていたテーブルを再利用した。ほかにも知己の作家たちに依頼した作品が空間を彩る予定。
horebore(ほれぼれ)
住所/石川県珠洲市上戸町 南方井部121-5 hotel notonowa 1F
営業時間/11: 30〜21: 00( カフェタイム休憩あり) 定休日/月・火曜 Instagram/@hb_horebore
プレオープンにて、地域の方へ振る舞う料理を出している様子。カウンターテーブルやテーブルライトは、地域の方からいただいたもの。
不便だけど、不幸ではない
震災は、移住間もない畠山さんに役割と居場所を与え、一方で珠洲にいる意味を問うた。現在も復興は道半ば。それでも「不便だけど、不幸ではない」と、畠山さんは前を向く。
「明日を生きるために、みなが助け合い、僕自身も理屈ではない使命感で動いていた。そんな経験ができたことは、逆に幸せだったとすら思えるんです」
能登の風土が育んだ共助の心。畠山さんの考える、人のあるべき生き方がそこにあった。
被災したホテルは耐震工事を終えており、幸い躯体は無事。畠山さんはオーナーと話し合い、開業準備を進め、当面は工事関係者などの受け入れに比重を置くことを決めた。
加えて4月には合同会社惚惚を設立し、法人として事業や支援活動に力を注ぐことに。飲食のほか、物販やアパレル、プロデュース業など今後の仕事はさらに多岐にわたっていく。
「農家が水道工事をしたり、電気もいじれたり。こっちの人は職業が先にあるのではなく、生きるために必要な結果、それが生業(なりわい)になっている。僕もその気質と似ているように思います」
拠点はもちろん珠洲のまま。法人化は地域に根付く決意の表れでもある。
課題山積の地震の支援活動。その1つがボランティアの宿泊先の不足だった。畠山さんは貸主の許可を得て自宅を無償開放。寝具は輪島市のふとん店から提供を受けた。
能登特有の大きくて立派な造りの家屋と、縁側の先に広がる海景にひかれて即決した畠山さんの借家。2023年7月に東京から隣の能登町に移住し、同年末に珠洲へ居を移した。
多くの倒壊した家屋が地震発生当時のまま放置されている珠洲。畠山さんの自宅も応急危険度判定は「要注意」。室内外のあちこちに震災の傷跡が生々しく残る。
能登を食から復興することを目指して仲間と始めたフードトラック「NOTO NOMAD」。名前の由来「能登×窓×ノマド(遊牧民)」のように、旅しながら能登の姿を窓のように見せる存在に。
「新しい暮らし」へのアドバイス
復興が進めば娯楽的なものも必要になる。「惚惚」が珠洲の日常にちょっとした特別感を創出できればよいと考えています。特に新規事業のチャンスは多いので、アイデアがある人は二番煎じになる前にすぐ行動すべき。ただ現在は住居も被災者が優先されるため移住のハードルは高め。ならばまず関係人口になりましょう。定期的に足を運べば顔見知りになれますし、移住後も動きやすいでしょう。
「一緒に珠洲を盛り上げましょう!」
珠洲市の移住支援制度
復旧・復興に向けてかかわってくれる人を歓迎
珠洲市では、令和6年能登半島地震からの復旧・復興の取り組みが日々進行中。住宅被害が広範囲に及ぶため、気軽に移住できる状況ではないものの、少しでも珠洲市にかかわってくれる人が増えることを期待している。空き家に関する補助金など移住支援制度に、大きな変更はなし。詳細は珠洲発・暮らしのウエブマガジン「すっとずっと」を参照。
問い合わせ/移住定住推進係 ☎︎0768-82-7726
「すっとずっと」 https://sutto-zutto.com
【義援金、寄付金、支援物資などの窓口】
珠洲市では、災害義援金、寄付金、炊き出し支援、支援物資やボランティアの受け入れなどについて窓口を設けている。詳細は下記URLより確認を。
https://www.city.suzu.lg.jp/site/bousaisuzu/11594.html
震災後、姿は変わったものの威風堂々とした見附島(みつけじま)。
「気になることがあれば、まずはご連絡ください!」
移住定住推進係 左から森田さん、杉盛さん
文・写真/永島岳志 写真提供/畠山 陸さん、珠洲市
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