孤独感のなか過去と同化し過ぎた男
孝蔵は、妻を亡くしている。一人になって急に山奥へ引っ越し、畑で野菜をつくったり陶芸をしたり。それ以外は一日中、黙々と仏像を彫っている。
「孝蔵さんは山で毎日同じ景色を見ています。雨の日、晴れの日、風そして鳥の声、いろんなものと暮らすなか、どうしても向き合えないものがある。それがギクシャクした娘との関係、妻と暮らしていたときの幸せと、もっと理解してあげればよかったという積年の思いと。教師として学問の道を貫き、正義感を持って正直に生きてきたけれども、人としてはどうなのだろう? そんなことを思っていたはず。それで孤独感のなか、過去と同化し過ぎて、抱えた荷物に耐えきれなくなった瞬間があっただろう。とはいえ好んで山に来たのだから逃げ出すことはできない。何も考えたくない、でも考えるから心が空白になる。無になってしまう」
その〝無〞が、認知症であってもいいはず――。それが奥田さんの解釈だった。
「全部が空白だけれども、決して不幸せなわけではない。幸せか?という認識も〝空白〞にしたから、ないわけで……」
奥田さんの話を聞いていると、こちらまで孝蔵の目線を想像するようになる。孝蔵が抱える物語で頭がいっぱいになる。そこに焦点を当てて視界がぐっと狭くなり、孝蔵を主軸とした物語が立ち上がるような感覚に陥る。なるほど、〝よい俳優〞というのはこうやって役柄を深掘りしていくのか……などと改めて思う。
けれどこの映画は、一筋縄ではいかない。少年が記憶を失う経緯、からだに残る傷の意味、「かくしごと」とは何を指すのか? 奥田さんも言うように、その〝変化球〞はかなりの切れ味。どう転がるのか予想がつかず、それぞれの登場人物が抱えるドラマは深い闇を抱えている。
孝蔵として確かに生きた時間を経た奥田さんは、そんな映画に改めて何を感じたろう?
「人というのは未来を考えます。ずっと向こうの未来と近接した未来、明日と。映画を客観的にとらえたとき、最後に孝蔵さんは『これで人生の始末がついた……』と思ってあそこに座っていると思った。一人の人間として、責任を持って在る姿だと」
3人は家族として仲よく暮らしました――。そんなストレートな結末ではない。けれど、どこか明るい手応えがある。その余韻には、確かな希望がある。
「年を取ると余計なものは排除していく。記憶が、消えてしまったりもします。若い人でも〝嫌なことは心のゴミ箱に入れてフタをし、絶対に開けたくない〞なんて言う人もいます。でもゴミ箱じゃなく、ライブラリーに入れたらいい。それで人生における大切な分岐点に来たときにそのライブラリーを開き、一度目を通して嫌なことと向き合えば、前に力強く進んでいく自分を獲得できるんじゃないか。改めて、そんなことを思いました」
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