6月1日。「ブラームスのピアノ協奏曲第一番」。
快晴である。かつ高温である。嬉しいのである。たったそれだけで幸福感が漂うのである。濡れた作業着や作業靴が干せる。毛布も干せる。ドドッと汗が出る。僕のそばを往来するニワトリもヒヨコも気分よさそう・・・我が幸福とはこの程度なのである。今日は発送荷物がない。ひたすら果樹の、キウイ、クワ、梅、梨、フェイジョア、ブルーベリーの徒長枝を切り落とす作業に5時間ほどを費やす。この上の写真はフェイジョアの花。去年はなりすぎて実が小粒になった。今年は摘果を徹底しようと思う。
仕事の合間、クワの実をちぎって口に放り込む。すぐ手近にあり、洗う必要もなくパクパクやれるので便利な果物だ。この写真からもわかるだろうが、梅雨入り前の今、豊穣な木々の緑は、人の心を詩人にし、あるいは野生動物に引き戻す。逆に梅雨に入り、雨ばかりになるとこの緑の葉はマイナス、いささか鬱陶しくも感じられるが、今日のような晴天だと、ちょっと大げさだが、光と青葉のコラボが、生きるとはこういうことなんだよ、シンプルなんだよ、そう思わせてくれる。
人間の憂慮とは無関係に、一年のうちでもっとも美しい季節がやってきた。そう、自然はいつだってわたしたちに頓着せず、どこまでも無情に広がっている。だからこそ美しい。わたしが苦しんでいても優しい言葉なんかかけてこないし、大丈夫だなんて気休めも言わない。自然に働きかけ、祈ったり詩歌に詠んだりするのは、もっぱら人間の側であった。つまり対等じゃないんだ。自然のほうが大きい。だからいくら、雨乞いをしたところで、神はいないし雨も降らない。わかってる。それでもわたしは、一念のエネルギーが岩をも通すというオカルトっぽいことを、まだどこかで信じたいと思っているふしがある・・・。
詩人・小池昌代さんの「想 夜明けに出ていく船」、その冒頭一節の引用である。僕も同じ。雨乞いなんかしても雨が降るわけはない。神様はいない。人間死んだら、ただ骨になり、やがて忘れられる、それでいい・・・ふだんからそう思っている。かつまた、1粒まいた種が数か月後、きっと暮らしの助けになる、腹を満たしてくれる、僕もそう信じている。自然は偉大であり、小池さんが言うように、優しい言葉なんぞかけてはくれずとも、その自然と接し、うまく共存していくならば、人間の心は不思議なくらい満たされると思う。あれやこれやと問題ある世の中でも、細々ながらも達者で生きていることは悪くない、緑の葉に包まれ、クワの実を口に押し込みながら僕はたしかにそう感じる。
ちょっと仕事の手を休め、作業靴の補修にとりかかる。600円でボンドを買ってきた。これで3足は修理できるだろう。僕の作業靴は傷みが激しい。雨で濡れる。鋭い切り株のあるヤブに入る。さらに、スコップを踏み込む回数は日に少なくとも200回、多いと500回。これで傷むなと言うのは無理だ。大きく破れ、どうにも回復不能となれば捨てて新しいものを買う。しかし、今日のように底がパッカリ剥がれただけならばボンドで接着する。なんせ、日々の稼ぎは3000円。自家用の野菜、果物、卵を稼ぎだと考えても5000円に満たない。何千円かする作業靴をそうそう買ってはいられないのである。
ポットにまいたピーナツ、その最後の50株を定植する。すでに植えたエダマメとともにブルーネットを掛けてやる。好奇心旺盛、もしくは遊び精神旺盛。ニワトリたちは、ネットを掛けないと、さっき僕が定植したばかりのピーナツをくわえて引っこ抜き、転がしてしまうのだ。さてそろそろ日没である。今日の晴天が明日も続けば嬉しいが、どうなるか。草の上に転がしたラジオからはブラームスのピアノ協奏曲第一番が流れている。これから家に戻り、ヒヨコたちがちゃんと所定の場所に寝たかどうかを確認し、ストレッチしながら夕刊を読み、あつあつの風呂に入ってから一番搾りを飲む。昨日と寸分たがわぬ1日の終わりである。ふと思う。「職場」から家まで徒歩1分・・・それって人間のシアワセのひとつのファクターじゃなかろうかと。独身の頃、会社からアパートまで2度の乗り換えで70分。結婚してから住んだ公団住宅では、地下鉄、JR、乗り換えてもう一度JR、最後にバスというコースで退社から帰宅まで100分を要した。なんとも遠い道のりだった。車内で新聞を読む、本を読む、そういったオマケも付いたが、24時間のうち、会社への行き帰りに3時間20分とは驚きである。我が家に向かっていま僕はゆるやかに歩いている。ラジオから流れるブラームスを聴きながら、「職場」から自宅までたったの100歩。これって言うならば究極の省力化、合理化だ。稼ぎは少ない。でも田舎暮らしってやっぱりシアワセだぜ・・・夕暮れの空に向かってつぶやいたのである。
田舎暮らしの記事をシェアする