花は 独り 静かに 味わうのがいい
叶えてくれるのは・・・もしかしたら、田舎暮らし?
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花を独り占めするということ
都会の喧騒を離れて
今年は桜の開花が早いという予報。花見の季節はどこも賑わう。
僕は花見をしたことがない。人混みが苦手。ただし、偶然というか、やむなくというか、人間の洪水みたいな所で桜を眺めたことはある。30代、1㎞を3分台で走っていたランニング全盛期、会社の昼休みに走る上野公園。ふだん支障なし。桜の開花で人間の洪水となる。
↑ 普通、満開の桜を真下から仰ぎ見るということは少ないだろう。青い空と垂直に重なり合うところに味わいがある。
独り占めの特等席、里山の春
桜に限らず、花は、独り、静かに味わうのがいい・・・ちょっとキザだがそう思う。
今から35年前、二度目の田舎暮らしを始めて4年目、2本の苗木を植えた。東と西。距離100m。東が大きく今15m、西が10m。この2本のほかに前の地主が境界ラインとして植えたヤマザクラが5本。東京での花見の賑わいから遅れること1週間。畑仕事の合間、独り静かに花を愛でる。
35年目の古木、沈黙の語り部
今年は異例。ほとんど休みなく強風。木枯しの季節ではあるが連日とは経験がない。
今日はビニールハウスに入ってソラマメの手入れ。ハウスの中は心地よく雑草繁茂。それをスコップで削り取る。ソラマメは大きく根を張る。ゆえに根回りに深くスコップを入れる。露地のソラマメは連日の霜と結氷で地面に伏す。ここはもう花が咲いている。
↑ 花の命は短い。散り際がいさぎよいとの声も世間にはあるが、桜自身はそれをどう感じているだろうか。
「桜守」の啓示、一本の木と対峙する
桜の話をもう少し。「京の桜守」、佐野藤右衛門氏は桜を見るならば好きな木を1本だけ決めてみたらどうだろうと言う。
そうすることで・・・
「人も自然をかんじることができる。きっと桜もよろこぶと思いますわ」
春に花が散る。青々とした若葉が幹を覆う。日が短くなる頃ハラハラと葉は落ちやがて裸木となる。しかし、晩秋にはもう翌春の花芽が生まれている。再び佐野藤右衛門氏の言葉。
「桜のそういうところも見なければ。花ばかりが桜じゃないのやから」
桜だけの話ではないように思うが、都会というのは何事も、一番いい時、一番いいところだけ持って行ってしまう・・・そんな気がする。誰かが悪い、誰かの責任、そんなんじゃない。都会という物理的空間のせい、日々の仕事のせわしなさ、圧迫感のせい。四季を通して1本の桜の木を観察し続けるゆとりを持てとは所詮無理だ。苗木を植え、何十年と向かい合う、1本の木と(もう一度キザな言い方をするなら)「喜怒哀楽」を共にして生きる。それが田舎暮らしというもの。
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この記事を書いた人
中村顕治
【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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