里山の冬、故郷を思う
寒さに負けず、光を求めて今日も走る
↑ 近くで伐採の仕事をする外国人が数人いる。タイかベトナムか。おはようと挨拶をかわすのが毎朝の日課である。
今季最強寒波だと、どのテレビも警報を発している。寒いのはかまわない。光さえいっぱいならば僕は嬉しい。朝のランニング。足を止めてOさんと久しぶりに立ち話。Oさんは僕の息子ほどの年齢。10年前に脳梗塞を患い、リハビリのため彼はウォーキングを始めた。初めて姿を見た時、半身が大きく傾いていた。しかし、どんな天気の日も歩き続け、今の彼は直立姿勢で軽快に歩く。
そのOさんとの話題は人口減少だった。我が街はピーク時から1万人減った。隣の地域では小学1年生がゼロなのだとOさんが教えてくれた。彼と別れ、ランニングを続けながら、しばらく前に見たテレビのニュースを僕は思い出した。
茨城県境町。人口2万4000人。減ったとはいえ我が街は5万数千人だからかなり規模は小さい。しかし、移住者への待遇はすばらしい。子どもたちの面倒はすべて見る。遊び場所や遊具は整っている。家賃5万8千円の戸建て住宅は25年住み続けると自分のものになる。すごいなと感心しながらテレビ画面を見ていたら、おやおや、この話題の出典は田舎暮らしの本2月号「住みたい田舎ベストランキング全国1位となった境町」であるとの文字が出てきた。
そうだったのか・・・。
ひるがえって、人口10万人を目指すと言われたピーク時、我が家から近い小学校の運動会は見物の父兄がグラウンドに収まりきらないほどだった。でも、今はひっそりだ。移住を考えている人への最大のアピールとは、子どもたちへの手厚いケア、そして、住宅なのかも、そんなことを考えた。
青空を見上げる
↑ はるか昔、初めて東京に来た新潟の人が、真っ青な冬の空を見上げ、同じ日本とは思えないと言ったという。
テレビは昨日よりも声高、北海道や北陸の豪雪を伝えている。雪かきをしたい。でも、腰を超える高さの雪に阻まれ目的の場所まで到達できない。なんともすさまじい。当地も寒いのは寒い。ビニールトンネルの内面までが凍結する。しかし、空はこの上の写真のごとく青い。雪深い地域は雪に埋まるのみならず青い空も光もない。
凍てつく大地と指紋の消えた指先
↑ 僕がスコップを手にする。すかさず鶏たちが集まる。スコップ=土の下の虫。知能指数はかなり高いと思う。4日間でのべ20時間。スコップ仕事で酷使される我が手からは指紋が消える。
ひどいヤブ状態となった所の開墾に4日前から励んでいる。すぐそばにビニールハウスがある。それに光を当ててやるため篠竹や雑木を掘り取ろうと考えた。だが途中で気持ちが変わる。どうせなら野菜ひとつ作れるようにしてやろう。
開始して4日目。4×12mが畑らしくなってきた。
竹も雑木も、その根は50センチほどの深さにある。黙ってやるより力が入りそうな気がする。
それで僕は、
さあ、どうだ、イケイケ、まだか、よっしゃ、あと一息だ、やれ、頑張れ、ほれ、もう少しだ・・・
ひたすら声を出す。
そばのニワトリたちは手伝わない。狙いは地中の虫だから。全身を使って出すフルパワー。今日だけでも4時間を超える作業。だが汗はほとんど出なかった。気温7度、冷たい北西の風。出ないのも無理はない。
冬の寒さ、夏の暑さ、どちらも人生
汗といえば加藤登紀子さんが「ひらり一言」に書いていた。
フーフー汗をかきながら、忙しく生きていたい。人類は「働かずに暮らしたい」と願ってきたのではないよね。ちゃんと自分の暮らしを自分の手で築けることを求めてきたのよ。
夏の、地表温度が50度になるときはリッター単位の汗が出る。それが今はゼロ。夏と冬で体に生ずる違いは尿量である。高齢になると頻尿になるのが定説。体の冷えも排尿を加速させる。冬の今、畑仕事の途中で頻繁に尿意を催す。寒いゆえに上も下も厚着をしている。老人になると頻尿だけでなく尿意が突発。厚着の下から大事なモノを取り出すのに手間取り、おもらしすることもある。夜間も煩わしい。少なくとも3回、トイレで目が覚める。僕はパソコンに向かって何かを書くとき、気分転換でいつも3杯くらい珈琲を飲む。利尿作用が強いから夜は珈琲を控えたほうがよいと言われるのは承知だが。
さて、以上は冬の話。夏となると状況は一変。畑で突然尿意ということがない。夜間もトイレに起きるとしても1回きり。なぜか。摂取した水分がすべて汗になるから。額から鼻筋を通った汗の玉は土の上に次々落下、黒丸の列を作る。寒さ厳しい今はその汗をほとんどかかない。体に入れた水分はみんなオシッコになってしまうのだ。寒さに弱いわけではない。が、冬の寒さと地表温50度になる夏の暑さ、どっちが好きかと問われれば、僕は躊躇せず夏である。
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この記事を書いた人
中村顕治
【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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