「暇ではないのに退屈」満開の桜の下で我思う
高齢化と収入不安
収入は安定しない、だから若い農家は増えず、高齢化で生産者は減るばかリ……。僕の月収は26万円。年金と農業収入が半々。まあ何とか生活できている。労働時間は日照の少ない冬が8時間、真夏が11時間。日曜祭日とは無縁で365日働く。荷物1つ仕上げるだけでも3時間を要し、時給は1000円に満たず。それでも百姓生活を捨てない。日々の作業どれもが自分の体質にマッチ、退屈しないからだろう。
僕は食べ物を自分の手で作れる、家賃も不要だからいいが、頼れるのは年金だけという人は辛い。75歳男性の例。年金月額12万円(手取り10万5000円)。家賃光熱費通信費が7万円。医療費が1万円。食費に回せるのは1日500円だという。「このまま食料品が値上がりし続けたら、1日1食も覚悟せねば」という。きびしい現実だ。
今の僕はどこにも出かけない。何か美味い物を食べに行こうという気もない。会社勤めの頃は短い休みをフルに使い、北海道、黒部、山陰、九州、せっせと旅した。あれは本当に楽しむ旅だったか。毎日の緊張と鬱屈をなんとか帳消しにしたい、一種の逃げだったのではないか。梨の授粉作業をしながら思う。
我が家の桜は開花が4月1日、満開は8日。開花から数日は寒の戻りなんて言葉が生易しいほどの寒さと雨。日中の気温6度。全身畑で硬直した。最後は荷造りのガムテープが切れなかった。しかしいま春爛漫。ポットまきのエダマメを定植しながら苗木を植えて35年の桜を仰ぎ見る。
この写真。夜間照明を浴びて美しい都会の桜・・・あれに似ている。だが違う。落日間際の西の空から水平の光を受けているシーンだ。直前に通り雨があった。人間でいうなら風呂上がり。雨に埃を洗われた桜は美しさを増した。そんな桜の木の下で頭に浮かぶ。「暇ではないのに退屈」という哲学めいた命題。
「暇ではないのに退屈」の矛盾
朝日新聞編集委員が『暇と退屈の倫理学』を著した哲学者、國分功一郎氏にインタビューした記事。暇とは自由な時間、退屈とは暇を持て余す気持ち。その関係が現代ではある種の矛盾となり「暇ではないのに退屈」という形で現れる。上に書いたように僕は日曜祭日なく、日々10時間働く。明らかに暇じゃない。しかし「退屈」でもない。それゆえこの問題への興味が募る。
暇ではないのに退屈で、「激しい情念」に駆られがちな人々はどうすればいいのかとの問いに國分功一郎氏は答える。
次々と消費を迫られる娯楽にではなく、暮らしを豊かにする芸術や食といった「贅沢」に触れ、人間らしく生きる楽しみを見いだす。そんな楽しみがわかる教養を身につける。
「教養」という言葉にハッとする。冒頭に引いた森永卓郎さんの言葉と重なったからだ。芸術はともあれ、我が暮らしに食は間違いなく「贅沢」である。レタス、カリフラワー、ソラマメは順調に育ち、昨年不作だった果物も不作を挽回するかのようにウメ、アンズ、プラムが豊かに結実している。これを追ってイチゴ、ブルーベリー、ラズベリー、桑の実、イチジクが実る。
人間がどんなに愚かであっても、いかに自分らの都合で自然に手を加えようとしても、それでも春はやっぱり春であった。
天声人語はトルストイ『復活』の一節を引く。これに続き、数々の大学の学長が入学式で新入生たちに語り掛けた言葉を引く。僕の心を捉えたのは同志社大学長のこの言葉。
いま大切なのは、機械に刻まれ、管理される時間<クロノス>ではなく、自然のなか、ゆっくりと時を満たす感覚<カイロス>ではないか……。
せわしない日々とゆったりとした感覚
ギリシャ語には時間を表す言葉がふたつあるのだという。先に書いたアマゾンやテスラ、そしてサボり監視装置、あれはもしかしたらクロノスか。対して田舎暮らし、百姓暮らしはもしかしたらカイロスか・・・すでに書いたように、この百姓の暮らしは日々バタバタでせわしない。体の動きを止めるのは荷造りを終える午後4時過ぎ、珈琲と草取りついでにつまみ取ったイチゴを口に運ぶときだけだ。それでいて、ゆっくりと時を満たすカイロスの感覚が頭の中、手足の先に存在する。
自然は偉大……よく耳にするこの讃辞ではかえってわかりにくいかも。すぐそばに空があり光があり、季節の花々があり、蛙や鶏や猫や蜜蜂や狸や蛇や……そしてゴキブリやネズミやスズメバチだっている。多士済々orごちゃごちゃ。僕にとっての自然とはこういうものであり、それらとの接点が、外見、せわしないくせ、ゆったりとした時の感覚を満たしてくれるらしいのである。
→桑の実とイチゴ
果樹がくれる恵みと心の平静
生きるにおいて、大事なこと、それはともかく食うことだ。
40年前、二度目の田舎暮らしとしてこの地に入ったとき、ひたすら果樹を植えた。欲張りすぎたという反省も後で生じたが、基本、間違ってはいなかった。光は心と骨を強くする、それに対し、果樹は来年、再来年というドリームをくれる、胃腸を喜ばせる。果物の楽しみはまず花だ。花は(悪い意味ではなく)、世の中の出来事なんかどうでもいいさという平静孤立の心をくれる。
花からしばしの間を置いて果物は腹を満たす。それを買うためのカネは必要なし。必要なのは暮らしのなかでの工夫と根気、その工夫と根気を楽しむココロ、それが大切。今日は気温28度。昨日からテレビは熱中症に注意をと呼び掛けているが、僕は快適である。背中にドッサリ光を浴びる。人参の草取りをする。今季4回目にまいた人参。指先だけ見つめて1センチか2センチの草をひたすら抜く。
ぜんぜん暇じゃない、しかし人生ぜんぜん退屈でもない。だって、明るい太陽と青い空、食べる物だっていっぱいあるんだもの・・・それが、近々、アナタも手に入れるであろう「田舎暮らし」なのである。
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この記事を書いた人
中村顕治
【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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