若者の魚離れと鯛の骨に挑む
鯛の骨と向き合う夕餉のひととき
さて、これも年寄りの憎まれ口となるだろうか、若者の魚嫌いについて書く。世界的な寿司ブームの一方で日本国内の魚介類消費は減少している。2001年との比較で半分ほどに減っている。若い世代での魚離れが大きな理由だという。理由は骨。回転寿司はにぎわっているも、焼き魚、煮魚は骨を取るのが面倒くさく敬遠されるとのことだ。
僕の今日の夕食の1品は鯛のアラ煮だった。スーパーで切り身を買うことはない。鯛は1本丸ごとか、今日のようにアラを何パックもまとめ買いする。理由は僕の食べ残しをニワトリたちが喜んで食べるからだ。
僕の父は魚の仲買人だった。よって、タイ、ハモ、タコ、フグなどを常食していた。包丁の使い方はそばに腰を下ろし、父のやり方を見て学んだ。父の言いつけで今も忘れられない言葉がある。他の魚はいいが、鯛だけは喉に引っ掛けたりするな・・・そうなのだ、鯛の骨は鋭く、他の魚に比べると非常に硬いのだ。
その鯛の調理法をひとつ紹介しよう。圧力鍋で半日煮込む。そうすると身と一緒に食べられるくらい骨が柔らかくなる。血液をサラサラにする成分EPAやDHAが摂取できる魚は健康に良い。特に骨には切り身の数百倍のカルシウムが含まれているという。回転寿司のマグロやサーモンも悪くはなかろうが、参考にすべきことであろう。
暮れゆく空に漂うかすかな秋の息吹
日傘を差す、日焼け止めクリームを愛用する。そして骨を嫌って骨のない回転寿司を愛用する若者たち。世の中、色白で美男、だが、骨抜きのヤワな男たちで将来いっぱいになるのではあるまいか。異常気象がさらに増幅したら、そんなんじゃ気温40度には立ち向かえないぜ、ハンディ扇風機なんてものの役には立たないぜ・・・そう思うのである。
7月が終わった。猛暑は依然続くが、朝7時台の空気はほんの少し体に優しい。ランニングを終えた僕は朝顔に水やりする。ほどなくしおれてしまう花を愛でる。朝食をすませたら暑さとの闘いが待っている。朝顔はその前の、チョッピリ、しかし貴重なくつろぎタイムだ。
夏至から40日が過ぎた。太陽が西に落ちた後の空には今かすかな秋がある。日没は30分早くなり、午後7時を過ぎても読めた夕刊が、今日あたり6時45分がギリギリだ。夜の気温が20度、ほどほどの雨。それを野菜も僕も望んでいるのだが、まだこの望みは叶いそうにない。
異なる道を歩む生き方の哲学
ロシアの食文化と歴史に触れながら思索する人生の味わい
先週から『厨房から見たロシア』(ヴィトルト・シャブウォフスキ著、白水社)を読み進めている。430ページという大部、猛暑でもって頭の働きが鈍っているが、毎日20ページというノルマを課して読んでいる。この本を読んでみようと考えたのは、ニコライ二世、レーニン、スターリン、近くはプーチン、さらに一般庶民、彼らがどんな食事を摂っていたか、彼らの思想・行動と食生活にはいかなる関連があったかに興味を抱いたからだ。
僕がロシアに関心を抱いたのはバイト先で知り合った8歳くらい年上の、作家を目指している人の影響からだった。政治的なことは抜き。あくまで影響を受けた根本はロシア文学。それでもって僕は25歳から20年間くらい、NHKのラジオ講座で学ぶとともに、東中野にあった、早大露文の先生が営むマヤコフスキー学院という所にも仕事を終えて通っていた。
初めてロシアの風景を見たのは1990年12月。ソ連崩壊の少し前。シベリア鉄道でモスクワまで7日間の旅。政治的な混乱とともに食料事情もすでに悪化していたのだろう。列車内で口にする食堂メニューは黒パンにジャガイモと単調だった。しかし長距離列車がそれ以前から好きという僕は不満なく、退屈もしなかった。ただ運動不足が心配で、毎日デッキでスクワットや腕立て伏せを欠かさずやった。これ以後ロシアには4回足を運んだ。
心に響く今永投手の言葉
誰かと異なることに自分の生きる道がある・・・。
今回最後は、先に引用させてもらった人生相談の女性を意識しつつ書こう。僕は大谷選手も好きだが、カブスの今永投手も好きである。少しひねった難解な言葉で、しかし論理的に自らの心情を表現する。「投げる哲学者」と言われるゆえんだ。
誰かと比べるのが嫌になることもある。でも、誰かと異なることに自分の生きる道がある、と再確認できている。
世間では普通、誰かと自分を比べてイジイジしている人に対し、他人は他人、気にせず自分の道を進みなさい、そう助言する。今永投手はおそらくそれを意識したのであろう。「誰かと比べるのが嫌になることもある・・・」。しかし、自分の特色を出す、他人とは違う自分になるためには他人と自分を比較することが必要なのだ。
人生相談の女性は、誰かと異なる自分になろうという意識を欠く。お金のためだけにあと30年も働くのかと思うと地獄・・・そう言う。そもそも20代で30年後を考えるなんて、そんな経験がなかった僕には不思議だが、でも、自分の将来に目を向けるのは悪いことではない。ならば、暗い気持ちになるばかりでなく、自分の頭、自分の手足を使い、心が満ちる将来の暮らしに踏み出すべきではないか。
気温37度。無風。熱気の綿が我が全身に覆いかぶさる。先が見通せないほど高く茂った草、その7×10メートルに今日は腕1本で挑む。自分へのご褒美は風呂上がりのスーパードライ500ml。ドライの酔いと昼間の労働の疲労をバネとし、朝まで扇風機を回し続けて僕は深く眠る。
かすかに秋を感じさせる赤く染まった空の雲。林の奥から響き渡るカナカナの合唱。惜しみなく力を出し切った労働の心地よさと夕暮れの風景のブレンド。田舎暮らしとは、胸の奥のマグカップでそれをひそかに味わうことである。食べ物を作る。電気を作る。自分の技量と体力でどこまで自力で生きてゆけるか・・・「誰かと異なることに自分の生きる道がある」・・・今永投手の言葉が目の前の深い草の中からふんわり耳元に届くのである。
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この記事を書いた人
中村顕治
【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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