好きだから続けられる田舎の暮らし
好きなものはぼくたちに力を与えてくれるんです。 辻邦生
今日は畑仕事の前に太陽光発電のメンテナンスだ。ポータブル蓄電器は10個以上持っているが、共通する弱点はソーラーパネルからのケーブル差込口が脆弱であること。この下の写真のポタ電はケーブルとの接触が悪く、入電が不安定。それを研磨調整するのに本当はドライバーを使いたいけど狭くて入らない。思いついたのが愛用する金属製の耳かき。うまく出来た。
楽しいからやめられないという正直な気持ち
さてさて、もう置き場所に困るほどポタ電を持っているのに、僕はまたまた買ってしまった。いいかげんにしたら・・・という声、このチャンスを逃しちゃいけないよ・・・との声が交錯する10日間だった。そう、あのブラックフライデーである。ふだん12万円の品が6万3000円で買える。フライデー終了日にエイヤッとアマゾンにオーダーしたのである。
毎日、1箱3000円の野菜・果物・卵のセットを僕は売っている。とすると、このポタ電は21個の売り上げに相当する。労働時間にすると150時間分だ。安い買い物じゃない。でも、やめられない、止まらない・・・つまるところ、好きなのである。
小中学校時代、理科も算数もダメだったくせに、ケーブルをペンチとカッターで切って中の銅線を出して何本もつなぎ合わせる。レンジかトースターか、毛布かパソコンか、それとも水道ポンプか・・・それによって30キロもある重いバッテリーを腰痛ものともせず運び、単体12ボルトバッテリーをどう組み合われせればパワー増強になるか・・・を考える。楽しいのである、好きなのである。
新しいポタ電を買ったのは、電力需要が高まっているという事情でもあった。前に、バナナに電気毛布を巻いているという話を書いた。それ以外、室内で育てているイチゴ、カイワレ大根、レモン、リーフレタスなどにカーペット5枚を使う。大豆もやし製造マシーンも3台稼働させる。日没から翌朝までの13時間連続であるゆえ、電力消費はかなりなのである。でも、そこにはやっぱり、実益のためであるとともに楽しい、面白い、「好き」がある。
この下の写真、昼間は日光浴させ、畑仕事が終わる5時ころ、部屋に取り込み、翌朝まで電気カーペットというイチゴである。赤い実が数個、青い実が20個くらいある。電気代と朝夕の手間を考えると、これはとても割に合うものじゃない。でも、それでいいのだ。好きなのだ、楽しいのだ、若い頃によく読んだ作家・辻邦生氏が言う通りなのだ、僕に生きる力と心の浮揚感を与えてくれるのである。
「折々のことば」で辻邦生氏の言葉を紹介した鷲田清一氏はこう書いていた。
好きなことは何でも楽しく、生命を漲らせる。それは「人生におけるひとつの意味をぼくたちがつかんでいる」ということだと小説家は言う。
漲(みなぎ)らせるというところがいい。みなぎらせるを僕は「埋没」と言い換える。ふだんはネガティブな意味合いで使われるが、好きなことだけに焦点を当てて生きる田舎暮らしでは、世に様々ある精神への攻撃や混乱のタネ、それをそぎ落とし世界を狭くする、これは良い意味で使うのだが、あえて視界を狭く、そこだけにピントを合わせて向かい合う。それが生きる純度を高くしてくれるのだ。
うんこになって考える
食は権利、うんこは責任、野糞は命の返し方
いつも、朝一番の作業は朝日を当てるために防寒シートを外すこと。そして次に、朝食をすませたら畑を一巡する。今日の仕事の優先順位はどれかを確認するためだ。今日真っ先に目に入ったのは150ほどの実がいっせいに色づいたデコポンだった。我が村は寒いから、本場みたいな仕上がりにはならない。でも完熟させると美味だ。
朝食から10分そこそこ。正確にやって来る我が便意。以前書いた。畑に数か所トイレが作ってあるということを。大きく深い穴。そこで用を足し、継続的に枯葉を投入する。クサイ話で読者には申し訳ないが、我ら人間にとって重要なテーマがそこにある。
糞土師を自称する伊沢正名氏についてはこの連載何回か前に書いたことがある。その伊沢氏の新刊『うんこになって考える いのちを還す野糞と土葬の実践哲学』が朝日新聞「読書」の欄で大きく紹介されていたのを読んでもう一度書きたくなった。伊沢氏は、野糞をするための広い土地をあえて購入したという筋金入りの人だ。
トイレに流せば、大量の資源エネルギーを使ってし尿処理され、セメント原料などに終わる。その事実を知り、1974年の元旦から信念の野糞を始めた。自然の中に置けば、動物が食べ、菌類が分解し土が肥え、植物が生育し、新たな命を育む。1万7千回に及ぶ実践で、その循環の真理を確かめてきた。「フードロスだ、自然派志向だと言う前に、まず水洗トイレに流すのをやめるのが先決。食べて命を奪うだけでいいのか。命を自然に還す責任を果たさないと」。本気のSDGsである。
文明の便利さと忘れがちな代償
いきなり水洗トイレをやめて、そこいらでというのは・・・お尻を葉っぱで拭くなんていうのは、都会暮しの人には無理だ。ただ、伊沢氏の精神についてだけは学びたい。僕の意識は70年ほど前に向かう。水は井戸から汲み上げた。トイレは汲み取り式だった。お茶を飲む、煮物をするとなれば、まずは釜戸に火をつけねばならなかった。
今の僕はプロパンガスのお世話になっている。仕事を終えて蛇口をひねれば10分で風呂に入れる。子供の頃の五右衛門風呂を思えばすごいことである。まさしく文明の進歩とはこういうことであろう。しかし人間は、とかくしてその有難さを忘れる。当たり前のことだと思ってしまう。伊沢氏が言うように、ウンチやオシッコの処理はタダではない。台所のガスも遠い国から運ばれて来たものだ。そうした諸々を頭に置いた上でSDGsを口にしたい。
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この記事を書いた人
中村顕治
【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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