動き続ける農家の体 退屈が入り込む隙はない
農家生活42年 体細胞が覚えた多忙という正常
鶯の枝ふみはづすはつねかな 蕪村
例年より今年は寒い。しかし梅の開花はどうやら例年よりも早い。梅の木はさまざまな品種で合計16本あるが、どれも蕾はぷっくりふくらみかけている。
上に掲げた蕪村の句に、長谷川櫂氏はこう解説する。
誰でも見たことがあると思い込んでいるのが鶯。声はすれども滅多に姿を見せない鳥である。その鶯が枝を踏みそこねた瞬間を見たというのだ。見られたかと鶯はあたりを見回したかどうか。
こんなこと自慢してもしょうがないが、朝起きてから晩酌タイムまでの12時間、我が体が静止するのはランチのための30分間、荷造り途中の珈琲タイム10分間だけである。もっとゆったり出来ないのか、したくはないのか・・・正直、その願望がない。たぶん農家生活40年余の暮らしのあたふたが体に染みついてしまい、動いていることが正常だと、僕の体細胞は認識した、精神でののんびり願望を体細胞が封じ込んでしまった、それゆえかもしれない。余談だが、椅子に腰かけている(静止している)時間の長さと健康寿命は相関するという医学論文を前に読んだ。
風景を愛でる一瞬こそが贅沢
ただし、日々走り回る生活だが、周囲の季節ごとに変化する風景を愛でることをしないわけではない。膝を付き、激しくスコップ仕事をしてからひと呼吸入れるために立ち上がる。その瞬間に目に留まる・・・葉が橙色に染まった晩秋のポポー、土の下から顔を出したフキノトウ、そして、梅、桃、桜の花・・・ゆったり庭椅子に腰を下ろし、珈琲カップを手にしてその味わいを静かに楽しむ・・・それはないのだけれど、風景を愛でる心は常にある。

田舎暮らしという辞書に退屈はない
人生は退屈だと悩む、さほど体を動かさない日々を過ごす。それがどれだけ心身を害するか、僕にはわかる。わざわざ多忙を望むわけではない。望まないけど、自然とのバリヤーがないむき出しの田舎暮らしはイヤでも多忙を強いられる。これを書いている15日午後8時半、またもや窓の向こうから強い風の音が聞こえてきた。明日はまたまた余計な仕事に振り回されるかなあ・・・それでもなお、田舎暮らしには胸ワクワクの場面がいくつもある。
梅の開花まであと3週間、プラム、梨、桜の開花までは60日。自然は、時折アクシデントも交えつつだが、悩むヒマもないほどにグイグイ引っ張る、退屈させない。田舎暮らしという辞書にはいくらページをめくっても「退屈」という言葉は出てこない。
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この記事を書いた人
中村顕治
【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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