納豆の起源と発酵文化の偶然
納豆はどうやって生まれたのか・・・ここにも偶然がひとつ
凍土から掘り出すゴボウ
寒さに加え、また強風が復活した。雨が降る気配は全くなく、低温で、乾いた風が吹きまくる。野菜にとっては三重苦である。今日はまず出荷用のゴボウを掘る。1本のゴボウを収穫するために深さ60センチの穴を根気よく掘る。それも大変だが、今日はもっと大変。表層5センチほどが凍土になっている。スコップの刃先はガチンと音がして跳ね返される。
納豆菌はどこから来たのか
続いての作業は大豆のマメ取り。3日に1回ほどやって大豆マシーンをフル回転させているが、気温が低いためふだんより仕上がるのに時間がかかり、出荷分と自分用の量に不足する状態が続いている。
その大豆作業で思い出したのが、読売新聞「編集手帳」。近畿大学教授の著書によると、納豆菌の付着した砂粒が風に乗って家に入り込み、余った煮豆に付いて発酵させたというのだ。これを偶然と言わずして何と言おう。
僕は納豆を食べない。西日本には納豆を食べる食習慣がなかった。でも、その歴史には興味がある。大豆を発酵させる文化は日本、ネパール、インドネシアを結ぶ三角地帯で発展し、中国内陸部の砂漠から舞い上がった黄砂が飛来する地域と重なる・・・そう聞けば、これはもはや偶然というより、地理と化学がもたらした必然かという気もする。
これも偶然と呼ぶべきか
養鶏という命との向き合い方
ずっと雨が降らず、空気の乾燥が激しい。その結果・・・ニワトリたちがものすごく牛乳を飲む。ふだんは300円で済む牛乳代が毎日500円かかってしまう。でもいいの。ニワトリは卵を食べさせてくれるだけじゃなく、家族。同じ時と空間に生きている仲間なのだ。
去年秋遅く、朝日新聞で大きく紹介された川原崇信さん(57)のこと。東京でバイオ系ベンチャー企業で10年働いたのち養鶏業を始めた。記事の中で、ウン、その気持ちはよくわかる、僕がそううなずいたのは肉用鶏を出荷した後、悪夢を見るようになったという。もう肉用はやめた・・・。川原さんはそれで採卵鶏に転向する。
しかしそれだけにはとどまらない。普通の養鶏場では産卵率が低下する2歳くらいで肉にされる。川原さんは自然死の時まで買い続ける。まだある。よそで廃鶏とされるものを引き取り、やはり天寿を全うさせてやるというのだ。
そこにホロッとするエピソードがある。ケージ飼いされた鶏は金網にこすれて羽がボロボロになり、骨がむき出しになっている。その鶏たち、放してやるとすぐ、土の感触を味わい、広い空間を喜んで飛び回るかというと、そうではない。B5判サイズの空間にずっと閉じ込められた経験から、その自由な空間に戸惑ってしまい、しばらく動かないというのだ。
僕も我が鶏たちは、たとえ産卵ゼロとなっても死ぬまで飼い続ける。1羽ずつ個性がある。気の強いもの、気の弱いもの、穏やかなもの、怖がりのひどいもの・・・でも、どの鶏も僕にとっては家族なのだ。
前に書いたことがあるが、僕が鶏を飼おうと思ったのはふるさとでの小学生時代、めったに卵が食べられず、腹いっぱい食べてみたいとの願望が出発点だった。70年近い昔の値段は1個10円。いま箱入りグリコは幾らするのか。当時は20円(高いから僕はグリコが買えなかった)。そこから推測されたい。病気見舞いに持参する品、それが卵だったと言えばもっとわかっていただけよう。食べたいけど食べられなかった・・・幼少の頃のあの枯渇感が僕に養鶏を始めさせた・・・これもひとつの偶然であるのか、あるいは必然なのか。
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この記事を書いた人
中村顕治
【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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