掲載:2021年11月号
すご腕の〝バイプレイヤー(脇役)〞として数多くの映画・ドラマの質を底上げし続け、昨年の映画『山中静夫氏の尊厳死』では主演男優のひとりとして高く評価を受けるなど、俳優としての存在感をますます高める津田寛治さん。
映画『ONODA 一万夜を越えて』では小野田寛郎(おのだ・ひろお)を演じています。それはどんな体験だったのでしょう? 津田さんに聞きました。
何が善で何が悪か? ジャングルのように混沌
「似てます!? じつは遺族の方にも言われたんです。衣装は確かに縫い方まで忠実に再現したのでそっくりなんですけど。言われてみれば……そうかなあ? 監督は〝似せる必要はない〞とおっしゃっていたんですけど」
映画『ONODA 一万夜を越えて』でタイトルロールを演じた津田寛治さん。その目線の先にはフィリピン・ルバング島から帰還した小野田寛郎さんが表紙を飾る、1974年当時の週刊誌が置かれている。終戦を知らされないまま約30年、秘密戦の任務を遂行しようとジャングルに生きた実在の人。
「当時の日本兵がどんな訓練をしたのか? 敬礼の仕方から銃の構え方までたくさん練習しましたが、監督はそれを求めてなくて。小野田さんは兵隊である前に人間であるのを重視されていました。台本の段階で、それは感じていて。ドン・キホーテが風車を敵に見立てて戦ったようにジャングルでひとり、戦争は終わっていない!と身を潜めていたことのドラマ性を描きたかったのかなと」
監督は、これが長編2作目となるフランス人のアルチュール・アラリ。ある年代以上の日本人なら誰もが知る小野田さんを、日本人には想像もつかない形で映画化した。ある意味で戦争を描いてはいるが勧善懲悪ではなく、何が善で何が悪か? まるでジャングルのように混沌としたまま。
陸軍中野学校で特殊訓練を受け、「君たちに死ぬ権利はない」と教えられてルバング島に赴く青年期を遠藤雄弥さんが演じ、その成年期を津田さんが継いだ。
「僕のパートはあっという間にひとりになり、監督も映画に入り込んでいて。やればやるほど〝違う違う〞と追い込まれていくなか、次第にジャングルが自分の外にあるものに思えなくなっていきました。自分の中にあるものがぐるんとひっくり返り、心象風景がそのまま反映される場所に。自分の結果として、そこにジャングルがあるというか。ああ小野田さんはこんな気持ちだったのかと」
そうしてイキイキと撮影を振り返る津田さんと、劇中の姿はまるで別人。ときにうつろな目で、草木と同化するように気配なくいる。
「長雨が続いても、ほかにいる誰かが、からだを洗えて便利だよね!と言えば、雨も楽しいものになるかもしれない。でもたったひとりだと雨のつらい側面ばかりが見えるわけで、それは自分の心の中に存在する雨なんですよね。当然ポジティブに考えれば楽しい遊園地のような場所にもなり得る。思いひとつで、ジャングルがその色を変えるのだなと」
撮影中の長〜い待ち時間、初めて目にする形状の虫が飛ぶのを見たりしながらそうした感覚がからだに染み込んだ。「疲れてもいないのに、疲れたお芝居をして走っているのが嫌」と監督に指摘され、周囲を走ってへとへとになってから撮影したり。嘘のない演出が観客をもジャングルの只中へ引きずり込む。「まだ戦争は終わってない!」という小野田さんの感覚を共有することになる。
「小野田さんは〝風車を敵〞とは思ってなかったかもしれない。気づいてないわけではないけど、自分すらだまそうとしたのかも。そうしないとアイデンティティが保てなかったのかもしれません」
そうして永遠にも思える日々の果て、日本から来た旅行者の鈴木と出会う。このときの2ショット、戦時中の兵隊と平和ボケした若者が並んで立つ激しい違和感! まるでタイムスリップもののよう。
「稀有な映画ができあがったなと。フランスの監督が演出し、出演者はフィリピンの女性が1人いますが、あとはすべて日本人。西洋的な思考とアジア的な匂いが本当の意味で融合しています。軍隊というシステムを描いてはいるけれど普通の軍隊ではないというか、みんなちょっと浮足立っている。つまりは人間を描いている、そういうことかもしれません」
実家がなくなって初めて故郷のよさを知る
映画はカンボジアで約4カ月のロケを敢行、津田さんはそのうちの1カ月ほどに参加した。
「長く滞在したのはカンポットというフランスの植民地だったところで。西洋文化も入っていて快適に過ごせました。でも食事制限中で外食することもなく、近くのコンビニでナッツを買って部屋で食べるとか、日本にいるのと変わらない(笑)。長期ロケのいちばんの楽しみは、物語にどっぷり入れることなんですよ。だから観光しよう!という気にならなくて」
国内の地方ロケでも観光ではなく、その土地に住む人であるのを味わおうとする。近所を散歩したり、タウン誌で情報を調べて映画館に行ったり。いまはお酒もやめてしまったそうだが、以前は居酒屋で地元の人と酒を酌み交わし、活きた方言を身につけようと試行錯誤したことも。
「散歩をするにもごく普通の住宅街とか、一見何もないところがいい。庭にビニールプールを置いた家が多いなとか、逆に公園の雰囲気でこの辺りは子どもが少ないのかな?と感じたり。わずかな特徴を見つけるのが好きです。いろいろなところへ行きましたが、豊橋や知多半島あたりの空気感にひかれるんですよね」
どこか故郷の福井県福井市を思わせる面もあるかも、と津田さん。「海へも、山へ行くにも車で30分くらい。ぷらっと行けるところに自然があるわけではなくて」、そんなところで生まれ育った。
「もう他界したのですが、最後の肉親だったお袋を東京へ呼んだ時点で福井が僕の実家ではなくなって。そのときから、福井のよさがわかるようになりました。よその人を迎え入れる姿勢が押し付けがましくなければ冷たくもない、ちょうどいい温度なんですよね。そうした人柄が、そのまんま街づくりにも表れているようで」
故郷がどんな町でどんな特徴があるか? 距離を置かないとわからないものかもしれない。
「若いころは自分がどこ出身だとか、故郷のアピールなんて格好悪い、アーバンな俳優でいたい!みたいなところがあると思うんです。でもやっぱり自分は故郷にお世話になったし、ちょっとでもいいから恩返しできるなら喜んでやらせていただきたいなと」
福井市観光大使、そして東京2020オリンピックでは福井県の最終聖火ランナーを務めた。
「いつか故郷に帰りたい――。取り立てて、そんな思いがあるわけではありません。でもずっと東京にいたいわけでもない。難しいところですけど、これから先、どんな時代になっていくのか? 本当にわからないですよね。そんなふうに変わっていく時代を、それでもやっぱり楽しんでいきたい。そんな思いは強くあります」
目の前で起きることを素直に受け止め、自身の中に受け入れ、流されるでもなく、けれどナチュラルに向かうべき方向へ歩みを進める。それはすご腕のバイプレイヤーからときに主役を担う華のある俳優へと進化する、俳優としての姿とも重なる。どんな役を演じてもエゴを感じさせず、役としてその世界観になじんで息づく。なぜそんなことが可能なのか? 津田さんが瞑想に取り組んでいると知り、妙に納得がいくよう。
「最近ちょっとサボってますけど、瞑想はどこでもできます。電車の吊り革を握っていても。だから将来に不安を抱いたり過去を後悔したり、余計なことを考え出したら瞑想したほうがいい。それでただリアルタイムで起きることに目を向ける。すると、葉っぱが風にそよぐのを見るだけで木の想いが伝わるような気になります」
それはまさに小野田さんを演じながら津田さんがやったことに思える。役をつくり込むより、その場から受け取ること、それが大事。
「瞑想と演技へのそうした思いと、同時に来たかもしれません。人に見せるためのお芝居はなるたけ排除する。それで〝受ける〞ことに重点を置くと、周りの方がどれだけ素晴らしいお芝居をしているかが見えてきました。この前に『山中静夫氏の尊厳死』という映画をやっていて。(中村)梅雀さん演じるキャラクターがどう死にたいか?に寄り添い、それ以外は何もしなくていいと。すると自分でも納得いくお芝居ができた。アラリ監督もまったく同じ考えで、さらに深いところで演出していただいた。いろんなものが合致しはじめた――、いまそんな感覚があるかもしれません」
『ONODA 一万夜を越えて』
●監督・脚本:アルチュール・アラリ ●出演:遠藤雄弥、津田寛治、仲野太賀、松浦祐也、千葉哲也、カトウシンスケ、井之脇海、足立智充、吉岡睦雄、伊島空、森岡龍、諏訪敦彦、嶋田久作、イッセー尾形 ほか ●10月8日(金)より全国公開中(TOHOシネマズ日比谷ほか) ●1944年、小野田寛郎(遠藤雄弥)は陸軍中野学校二俣分校で谷口教官(イッセー尾形)らの指導の下、特殊訓練を受けていた。ある日、劣勢が続くフィリピン・ルバング島で援軍部隊が戻るまでゲリラ戦を指揮せよという命令が。ジャングルでの過酷な日々、飢えや病気で倒れていく仲間たち。それから数十年、小野田(津田寛治)と小塚(千葉哲也)だけが生き残る。やがてひとりになった小野田は、旅行者だという鈴木紀夫(仲野太賀)と出会う。
ⓒ 2 0 2 1映画『ONODA 』フィルム・パートナーズ(CHIPANGU、朝日新聞社、ロウタス) ⓒbathysphere
文/浅見祥子 写真/菅原孝司(東京グラフィックデザイナーズ)
スタイリスト/三原千春 ヘアメイク/黒木 翔
この記事のタグ
田舎暮らしの記事をシェアする