全国に広がっている住みます芸人の笑いあふれる地域協力活動にフィーチャーした、「47都道府県エリアプロジェクト(あなたの街に“住みます”プロジェクト)」をレポートする本連載。
今回は、宮崎県住みます芸人として活躍する「嫁恐竜」をクローズアップ。キャンプ場の再生をはじめ、宮崎県を元気にする取り組みを続けています。ツッコミの佐藤さんにお話を伺いました。
CONTENTS
宮崎県住みます芸人
嫁恐竜(よめきょうりゅう)
左_佐藤利洋(さとう としひろ)……ツッコミ担当。1984年10月3日生まれ。宮崎県宮崎市出身。趣味は、占い、格闘技、サウナ、漫画、ゲーム、猫吸い、歴史を調べる。特技は、靴磨き。
右_戸波雄輔(となみ ゆうすけ)……ボケ担当。1984年11月17日生まれ。宮崎県宮崎市出身。芸歴15年。趣味は、キャンプ、ミニ四駆。特技は、切り絵、焚き火。
もともと佐藤が東京で芸人を志して活動していたが挫折。宮崎に帰郷し、小学校からの同級生だった相方・戸波とお笑いコンビ「ちきんなんばん」を結成。当時、宮崎には芸能事務所がなかったため、一番近い福岡吉本に所属することに。所属2年目で「住みます芸人」の募集があり、応募。現在の「嫁恐竜」というコンビ名は、2018年に極楽とんぼの山本圭壱とのラジオ放送中のやり取りがきっかけで改名。
住みます芸人歴:2011年4月~
活動拠点:宮崎県宮崎市
主な活動:テレビ・ラジオの出演、お祭りイベントへの出演。子ども向けワークショップなど。
レギュラー:「嫁恐竜の花金ラジオ」(宮崎SunshineFM 金曜)、「イドバタ!」(宮崎SunshineFM 木曜・金曜/佐藤のみ出演)、「つづくさんのどようだよ(^^)」(MRT宮崎放送/戸波のみ出演)
X(旧Twitter):佐藤 @satofu1984、戸波 @yomekyoryu
Instagram:佐藤 @chikinnanbanzuoteng、戸波 @tonamiy
YouTube:嫁恐竜のチャンネル
【宮崎県宮崎市】 |
給料が400倍に!? 地域活性化に励む宮崎県住みます芸人「嫁恐竜」
宮崎県の魅力を発信し、地域に根ざした活動を展開する住みます芸人「嫁恐竜」。ツッコミの佐藤利洋さんに、地方創生の最前線で活躍する芸人としての思いや、宮崎への深い愛着について語っていただきました。温かな笑顔と熱い志を持つ佐藤さんの言葉には、地域を愛し、愛される芸人としての誇りと使命感が溢れていました。
地元へUターンした芸人の新たな挑戦
「もともと、僕ひとりで芸人を志して、東京で活動していたんですが、挫折してしまって、宮崎にUターンすることにしたんです。でも、芸人で食べていくという気持ちはあきらめきれなくて、小学校からの同級生だった相方の戸波に『芸人をやろう』って声をかけたんです。実は、ふたりともずっと、『宮崎県の地元の人気者として活動したい』という思いがあったんです。そこで、福岡吉本なら宮崎に近いので、地元で仕事ができるんじゃないかという気持ちで所属しました。そして、驚いたことに、福岡で芸人を始めてわずか2年目という早い段階で、住みます芸人の話をいただいたんです。正直、『こんなことあるんだ!?』と心底びっくりしました」
2年目でそのような機会を得られたのは、佐藤さんの地元愛が引き寄せたものなんでしょう。しかし、まだ経験の浅い段階で地元で活動するというのは、プレッシャーも大きかったのではないでしょうか。
「まだ2年目で、かなりペーペーの身分だったので、『吉本の芸人』という看板を背負って活動するのは、ちょっぴり不安もありました……。でも、生まれ育った地元で、芸人という好きな仕事ができているんです。昔は都会に出ないとできなかったことですからね。親や友達に芸人としての仕事を見てもらえるのが、何よりも嬉しいです」と、当時を振り返る佐藤さん。
「コンビで漫才やらせていただいてます! 左が私、ツッコミの佐藤で、右がボケの戸波です!」
人生を変えた「住みます芸人」という選択
住みます芸人の道への選択が、佐藤さんの人生を大きく変えることになっていきます。
「福岡時代に比べて給料が400倍になったんですよ! 地域に喜ばれて生きていけるというのは、とてもやりがいがありますし、住みます芸人ということで、昔では考えられないビッグなイベントにも呼んでもらったりして。芸人ってこんな生き方もあるんだなって思いました」と、芸人としての新たな可能性を開いたエピソードを話してくれました。地域に根ざした活動が、このように経済的にも報われるというのは、地方創生の観点からも非常に興味深い事例だと思います。
住みます芸人になってから、都会ではできない宮崎県ならではの仕事が舞い込んだといいます。
「宮崎に帰ってきて一番最初にもらった大きな仕事が、観光地の青島で人力車を引くという仕事でした。青島という島の中に青島神社という神社があって、道路から結構な距離があるため、高齢者の方は行くのが大変で、そのうえ、当時、悪質な人力車(値段を言わずに後から法外な金額を請求する)がいて、被害に遭った人から相当なクレームが市に入っていた……というのもあり、僕たちがやることになったんです。が、宮崎の夏はめちゃくちゃ暑く、神社までの道のりの半分が砂浜ということで、体力的に毎日倒れそうなほどきつかったです……(笑)。そして、悪質人力車とのバトルもあり、体力的にも精神的にも結構大変だったんですが、毎日のように青島の方から差し入れをもらったり、地元の祭りに参加したり、まちの人と交流を深めて応援してもらえるようになっていきました。皆さんの応援が、とてもやりがいになりました。もちろん今でも交流があり、10ヵ月程度の活動でしたが、このときのことは、とても財産になりました」
「青島で、お笑い人力車として500円で運行していました。観光・神話ガイド込みです! すごく人力車を引きました!」
地域密着の苦労と喜び。知られることの両面性
一方、地域に根ざした活動には独特の苦労があったそうです。
「小さいまちなので、何をしていても、誰かに見られていることがあるんですよね……。
スーパーで知らないおばちゃんに『もうあなたの畑の大根、食べられるんじゃない?』って言われたり、家もバレているので、知らない子どもが、自宅に来たときはビックリしましたね(笑)」。地域での活動が増えてきて知名度が上がれば上がるほど、プライバシーの確保をするのが難しくなっていくのは確かです。「地域から愛していただいている証拠だと思っています。まわりの人と打ち解けているってことは、芸人としての喜びなんですけどね」と、佐藤さんは付け加えました。
宮崎のお笑い活動は試行錯誤の連続
宮崎に戻った当初、地域のメディア環境や文化の違いに戸惑いがあったそうです。どのような印象を持ったのでしょうか。
「印象というか、苦労したことなんですが、東京から帰ってきた当時、宮崎には芸能事務所という概念がなく、テレビには、ほとんどアナウンサーの方しか出ていませんでした、なので、テレビ局の方々と、芸人として『どう接したらいいか』『どこまでやっていいのか』とか、めちゃくちゃ苦労しましたね。それに、お笑いという文化もなくて、最初の頃はライブでやるようなネタをお祭りなどでやって、ずっとスベり倒してました……(笑)。地域文化が違うことにまったく慣れてなかったんです。その後、いろんな人のアドバイスをもらって、わかりやすさと伝え方を重視するようになってからは、少しはよくなりました。2年目で住みます芸人になったので、ネタに関しては、めちゃくちゃ苦労したんですよね(笑)。地域の特性や人々の好みを理解しながら、少しずつ自分たちのスタイルを確立していけたのは、よかったことだと思っています」
努力の積み重ねが、現在の活動につながっていると話す佐藤さん。では、現在、どのような活動を中心に行っているのでしょうか。
「主にラジオやテレビなどのメディアへの出演と、地域のお祭りでの司会やネタなどをメインでやらせていただいています。また、いろんな市町村の大使も務めさせていただいています。現在は、大塚町親善大使とヴェロスクロノス都農(つの)というサッカーチームの公式アンバサダーを務めています。
ほかにも、相方の戸波が元保育士なので、それを活かした子ども向けワークショップの開催や、大人も一緒に楽しめるアウトドア系のワークショップ、キャンプのイベントなども行っています」
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