美しくスマートな都会生活。一方、美しさには少々欠けるが、葉と根をしっかりと張るような力強さが僕の「田舎暮らし居ズム」だ。今年の猛暑を乗り越えた野菜たちは、秋の柔らかな陽を浴びて、厳しい冬の前の束の間の暖かさを喜んでいる。
太陽光に感謝と喜びを感じる暮らし
11月も半ば。寒さが募る。季節の変化を教えてくれるそれは、空の色、雲の形のみならずゴキブリもである・・・のっけからゴキブリ嫌いの人には申し訳ない。田舎暮らしにおける歳時記だと思っていただこう。梅雨が明ける。庭が黒く染まるほどゴキブリが現れる。食われたくない、だから鶏が寝静まった午後7時頃のことだ。靴で踏みつぶそうとするも巧みに身をかわす。しかし秋の深まりとともに数が減り、俊敏さも低下する。いったん影を潜めるが冷え込みがやわらいだ夜にまた現れる。こいつら単に腹を空かせた連中か。ボスから越冬食料の調達指令を受けたか。ヨロヨロだ、夏の俊敏さはないのだ。覚束ない足取りで食べ物にすがりつく。わが身に照らして催す哀れさ。ゴキブリが教えてくれる時の移ろい・・・都会にはない田舎暮らしエピソードである。
「チョクビ」・・・ちょっと軽い言葉。免許を取った若い医師は2年間の臨床研修の義務がある。その研修を終えると美容クリニックにすぐ就職する。医療関係者はこれを「直美=チョクビ」と呼ぶ。読売新聞「編集手帳」で知ったこと。田舎暮らしとは関係なさそうな話題だが僕の意識の中では大いに関係ある。強く目を引かれたのは医学雑誌の仕事で医師と多く接したゆえであるか。いま外科は人手不足に悩んでいる。しかしその外科でも内科でも小児科でもなく、若い医師たちは美容クリニックに向かう。美しくなりたいという人がいっぱいいるからである。スキンケア、脱毛、二重瞼、痩身・・・美しくありたいとの願望思想をルッキズムと称する。都会生活では通勤電車内、職場、取引先、友人関係、自分に向けられる多くの目がある。気持ちはわかる。田舎暮らしには幸か不幸かそれがない。最近は男でも日傘を差し肌の手入れをする。僕は前から驚いているがNHKのテレビも最近伝えていた。6年前に比べ、男性が基礎化粧品に投ずる金は大幅増。70代でも増えていると・・・。
憎まれ口を叩いているが、じつは僕も風呂上がり肌にたっぷりクリームを塗る。日々の畑仕事。膝をついて這いまわる作業ゆえ衣類を通して畑土がしみ込む、タオルごときでは取れない。特大のタワシで全身をこする。毎日のことゆえ安物クリームがいっぱい常備してある。
人々はより美しくありたいと願う。花に例える。美しさが1番。しかし花の美しさは2番か3番でいい。根と葉は頑健、1番でありたい・・・これがルッキズムとは違う「田舎暮らし居ズム」。平井たえさんという方にこんな詩がある。
どんな花も どんな色も 緑の 萌える輝きにはかなわない 「萌」という文字を つくった人は だれかしら
僕が言う根と葉とは、人間の筋肉、骨、肺とか心臓とか胃腸である。それが強いと花(顔)の美しさはさらに輝くであろう。バラやシクラメンの花は美しい。僕も好き。でも、この下の写真、萌える緑は力強く、花に劣らず美しい。根と葉、すなわち筋肉や骨や心臓は、日々の労働でおのずと強くなる。生きる力となる・・・例えば腹筋が弱いと押し出す力が足りず便秘を招く。慢性の便秘はせっかくの花の美しさを削ぐ・・・これ、ネもハもないこじつけではない。美しさには少々欠けるも、人目を気にせず汗にまみれ、働き、そこで仕上がる全身のバネ・・・田舎暮らしにおける真実である。
サツマイモが脚光を浴びていると今日の夕刊で知った。僕がサツマイモに抱くイメージは貧しさ。70年前の子供時代、本来の食事で満たされない腹を補う物、それがサツマイモだった。今と違い品種にバラエティーなく、食べ方もふかし芋だけ。うまいとは言えなかった。しかし夕刊の大きな記事によると、タルト、ジェラート、ブリュレ、牛乳と合わせた「飲む焼き芋」・・・なんとも華々しい。記事は「もはやブームではなく、サツマイモを食べることが生活に定着しつつある」との言葉で締めくくられていた。昔はイモねえちゃんという、今なら差別語、パワハラ語として糾弾されるであろう言葉があったが、現代の若い女性たちは食物繊維が豊富、かつ洒落たスイーツに変身したサツマイモにぞっこんのようである。ただし、女性のイモ好きはイモに、いや今に、始まったことではない。「イモタコナンキン」。はるか前、僕は田辺聖子さんの本で知る。女が好んで食すもの、イモとタコとカボチャ・・・古くから関西ではそう言われていたという。
焼き芋もいいが、僕の好きなのは素揚げである。今日の朝食がそれ。やや厚目に切って中火で揚げる。ヨーグルトをのせて食べる。美味。アナタも試してみて。
猛暑の中、涙なくして語れないほど苗作りの苦労があった白菜、カリフラワー、キャベツ。それがようやく収穫期を迎えている。やっと涼しくなったとホッとした頃、連日のように降り続いた激しい雨で水浸しの苦労をも味わった野菜たちだが、今日、柔らかな秋の陽を浴び心地よさそうにしている。
しかし喜んでばかりはいられない。白菜とキャベツ50個ずつ。そのくらい商品と自家用で1か月ほどでなくなる。よって苗は2陣、3陣と準備してある。ただし人間で言うと保育園児くらい。それらを、これからどんどん気温が下がる天候の中でどう生育させるか、苦労は多い。同時に面白さも多い。
スリーマイル島の原発事故といっても若い人にはピンと来ない話だろう。ペンシルベニア州スリーマイル島で原発2号基事故が発生したのは1979年のこと。事故後も運転を続けていた1号基は5年前に営業運転を終了。それが近く再稼働されるという。マイクロソフトが電力会社と20年間の購入契約を結んだのだ。理由は・・・最新AIのデータ処理には膨大な電力が必要。二酸化炭素を排出しないエネルギーとして原発に目が向いた。
原子力発電は是か非か・・・温室効果ガスの排出量をなるべく抑制したい、だから原発をという声には一理ある。太陽光発電をはじめとする再生エネルギーは天候に左右され、増え続ける電力需要をまかなうレベルにはない。AIのことはよくわからない。でも人々の暮らしに深く入り込み、さらに電気を必要とすることは間違いない。夏の暑さはもっと激しくなる。エアコンの稼働時間も増える。今年の気温は産業革命前より1.5度上昇の見込み。「10年に一度」だった猛暑は4.1倍に増えるらしい。快適便利を優先か、不便でも安心・安全な暮らしを望むか・・・どっちの思想もアリでよいと思う。猛暑の今年、ベッドに至近距離で置いた扇風機で過ごした。エアコンが心地よいのはスーパーでの買い物で僕も知っている。しかし、あの心地よさに体を慣れさせると地上温50度の畑仕事は無理。あえて僕は心地よさを捨てる。快晴の朝は喜びでもって太陽光と向かい合い、仕事を終える日没には屋上庭園に灯った太陽光発電からの明かりに感謝する。喜びと感謝。野菜も鶏も僕自身もお日様との深い関りを持って生きている。これが田舎暮らしである。
山口清之さん(39)という方が能登の被災地に仮設トイレを届け続けているという記事を今日の夕刊で目にした。ホームセンターで入手した材料での自作。その腕前もすごいが現地では車中泊しながらの作業というのにも感動する。もっと感動したのは温水洗浄便座だ。電気はソーラーパネルからだというのだ。なるほど、寒冷の地方で、しかも冬場の災害となれば仮設トイレがあってもお尻が冷たいのは辛い。腰を下ろしたそこがふんわり暖かい、被災者にとってどれほど嬉しいことか。山口さんのこのアイデアに、太陽光発電を手掛けている僕は思わず拍手を贈ったのである。
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この記事を書いた人
中村顕治
【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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