2025年。昭和なら100年。昭和22年1月生まれは78歳になったのである。
平成あたりの若い人は、なんだ、書いてるのはジイサンかい……。そうつぶやくかな。
でもちょっと待ってね。
若さ自慢じゃない。アナタがイメージするトシヨリとは少し違うということを示したい。78歳の老人は毎朝ランニングする(30代サブスリーのマラソンランナー)。仕事を終えた夕暮れに腹筋100と懸垂30。畑仕事に機械なし。スコップ1本で9時間の作業……。世間の78歳とは「ちょっと違うカモジイサン」……。そう言いたいわけ。
加えて言いたいこと。
田舎暮らしというエネルギッシュな生活形態は心と体、ふたつの若さでもって成り立つ。両方若ければ長く深く楽しめる。
仕事を終えたらヤマモモの木で懸垂する。常に前屈みの百姓仕事は腰が曲がる。その腰を伸ばす役目もこの懸垂は兼ねている。
CONTENTS
『田舎暮らしに殺されない法』フィジカルはメンタルを後押しする。
「田暮らし」という今アナタが向けている意識の世界、この老人は10歳の頃からそこに向かってきた。現在も“老朽化せぬ田舎暮らし精神”を維持している。
新年を迎えた今、新たな豊富を抱え、凍り付いた畑にヨッシャと立つ。年末からずっと夏ミカンとデコポンの収穫をやっているが、去年買ったバナナ、丸ごと食べられる甘いレモン、そんな苗木を厳寒から守ろうとしている。
夕刻に布とビニールを巻き、朝ほどいて光に当てる。10本あるから手間も時間もかかる。その苦労が面白い。ふんわり甘い魅力に心ときめかせる……。
誰にもあること。名店のケーキでもラブソングでもテレビに溢れるCMでもなく、知らぬ他国への移住・田舎暮らしは生涯の大項目だ。これにチャレンジするには準備しておくべきことがある。老人がつれづれ書くことは若いアナタの人生チョイスの参考になるはず。(ここで書ききれない毎日の作業はブログを参照)
去年、梅、プラム、アンズ、バラ科の果樹は壊滅だった。対して柑橘類はよくできた。糖度も高い。✕印があれば〇印もある。
ニワトリへの憧れから始まった、自然との出会い
10歳の頃ニワトリが飼いたかったが土のない家に育った少年には不可能。せめてもの疑似体験、そこらで掘ったミミズを持って、他人の鳥小屋に行き、鶏たちが喜び騒ぐ姿を眺めていた。
男の子は中学になると野球部が柔道部かバレー部に入る。僕はどれにも入らず放課後は野山を歩き回った。キャベツ畑で青虫を集めて部屋の中で蝶にした。ドショウや蟻を大きな瓶で飼い、タツノオトシゴはたらいで飼った。池で蛙釣りもやった。釣り上げた蛙の脚をもぎ取り茹でて食べた。中3で東京に転校、環境は一変したが自然志向の精神は引き継がれた。
ニワトリの頭の良さを日々実感する。さあ牛乳だぞという僕の声で遠くから一目散。さらに、かなり奥深い場所で仕事している僕をすぐに見つける。
結婚して住むこととなった我孫子市湖北台団地は100棟ある広大な公団住宅で、良く言えば自然豊か、悪く言えばスーパーマーケットが1軒きり、東京方面への国鉄は単線という「ド田舎」だった。休日の朝は手賀沼方向にランニングした。田と畑のありふれた風景が少年時代の自分を思い出させた。
畑をやりたい……。
「畑を売ってください」というチラシを作って新聞に挟み込んだ。素人は農地を買えないということを知らなかった。
しかしチラシを見た農家から、うちの畑を使っていいとの朗報が舞い込み毎週日曜日に通って土に触れた。
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この記事を書いた人
中村顕治
【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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