いつでもどんな役でもその芯に知的な上品さを潜ませ、長きにわたって俳優としての確かな歩みを続ける市毛良枝さん。JO1の豆原一成さんとともに主演を務める映画『富士山と、コーヒーと、しあわせの数式』が公開されます。映画に絡めて富士山のこと、コーヒーのこと、そして登山に対する思いについて、市毛さんに聞きました。
掲載:2025年11月号
いちげ・よしえ●静岡県出身。文学座附属演劇研究所、俳優小劇場養成所を経て、1971年にデビュー。最近の主な出演映画は『ラーゲリより愛を込めて』『明日を綴る写真館』など。特定非営利活動法人日本トレッキング協会理事、環境カウンセラーとしても活動し、第7回環境大臣賞(市民部門)を受賞。『山なんて嫌いだった』(山と溪谷社)、『73歳、ひとり楽しむ山歩き』(KADOKAWA)などの著書のほか、介護エッセイが今秋発売予定。
亡き夫のプレゼントで孫と同じ大学の学生に!
「44年ぶりの主演映画? そんなこと、考えてもいませんでした。撮影が終わってから『何年ぶりですか?』と聞かれ、『え〜、あったかしら?』と言ったくらいで。映画の本数そのものが多くないので、よ〜く考えたら、そういえば……という感じで」
そう振り返るのは、映画『富士山と、コーヒーと、しあわせの数式』で、1981年の『青葉学園物語』以来の主演を務めた市毛良枝さん。この映画で演じた文子は、夫の偉志を亡くしてひとり暮らし。ある日、さほど交流のなかった大学生の孫、拓磨と暮らすことになる。
「文子さんは私よりだいぶ女らしい人です、旦那さまに優しいし(笑)。彼を通してモノを見ていればそれでいい、そんな人だと思うんです。そこも私とは違うかなと(笑)」
拓磨は偉志の書斎で、自分が通う大学の入学案内を見つける。それは「生涯カレッジ」の申し込み書。「若いころの夢をかなえたい」という文子を後押ししようとした、結婚50周年のサプライズだった。
「安心して彼との世界に浸っていたのが、ひとりになって。なんとかしなきゃ!と思ったのかな。そしたら旦那さまが用意してくれていた。でも文子は、できないからと断りに行く。それなのに、『やります!』と言っちゃう。意外と粗忽(そこつ)なんですね」
そう言って明るく笑う市毛さん。
三歩下がって夫を支える良妻。市毛さんのたたずまいもあって文子はそんな奥さまに見えるが、降って湧いた学生生活に驚くほどなじみ、イキイキし始める。
「文子はワケあって中卒ですが、そのせいで身分差別のようなものを感じてその怨念を覆そうとしたとか、そういうことではなくて。彼がせっかく機会を与えてくれたのだから違う世界を見てみたい! そんなふうに一歩を踏み出したのかなと」
偉志役は長塚京三さん。「あんな旦那さま、いいですよね。長塚さんがまたすてきで」と言うと、「本当ね〜、ってファンみたいになってますけど」と、ここでも楽しそうに笑っている。
「共演させていただくのは50年ぶりで、その作品を私は色濃く覚えていました。長塚さんは忘れていらっしゃるだろうけど、長塚さんなら、旦那さま大好き!というのを全開にできるなと(笑)。そうしたら、『市毛君、50年ぶりだね』って。泣きそうなくらいうれしくて」
偉志は富士山に思い入れがあり、たびたび登っては写真を撮ったり絵を描いたり俳句を詠んだり。市毛さんもまた、登山の愛好家として知られる。映画では、登山初心者である文子が亡き夫に導かれて富士山へ。その登山スタイルがさすがになじんでいると指摘すると、「役の設定と違うからいけないんですけど……、ああいう格好がしっくりきちゃって」と市毛さん。
「偉志のように、自分にとって特別な山がないわけではありません。でも登山は毎回すべてが違い、ひとつ選ぶのは難しい。日本一の高さ、富士山にしかない素晴らしさがあるのはもちろんですが、山好きからすると、富士山以外にもよい山は売るほどありますよ!と(笑)」
孫の拓磨はカフェでバイトをするコーヒー好き。市毛さんも、以前は「豆をカリカリと手でひいて」飲んでいたとか。
「山でコーヒーをいれるための道具も持っていて。ある女性を連れて登ったとき、頂上でコーヒーをいれたんです。すると『市毛さんが男なら結婚するのに』って。いや、私の意思ってものもあるでしょう!と(笑)」
ピリッとした大女優の風格、そんなさまを勝手に想像したが、実際の市毛さんは明るく朗らかでおしゃべり好き。それでいて1カ月の休みに船舶とスキューバダイビングの免許を取得する(!)行動力があり、どこか男気を感じさせる人でもある。
「男らしい? それちょっと言われます……とか言って(笑)。新雪の日、北アルプスに行ったことがあるんです。そのときは山に慣れた男性と、登山が初めての女性とで。大きな石がゴロゴロしているけど、雪で足元が見えない。登山道も見つけにくいので、うっかり踏み込んでズボッと足が岩に挟まり、骨を折る可能性もゼロではありません。もし彼がそうなったら私は進む?戻る?この子はどうする!? そんなことを考えながら登っていたんです。でも彼女は初登山だから、〝うわ〜キレイ!〞ときゃっきゃしていて、おいおいって(笑)。楽しい登山でしたけど」
文子は夢へ踏み出して輝きを増すも、拓磨は夢に迷う最中。コーヒー愛は深くても、仕事にすべきか否か。「どれくらい好きなら仕事にしてもいいんですか?」と、あるコーヒー店主に直球な質問を投げる。
「私はほら、食べられないかもしれない職業を選んでしまっていますから(笑)。当時の芸能界というのは足を踏み入れたら帰れない、結界の向こう側のように思われていて。私は親の反対を押し切って入ったので、辞められなくなってしまったんです。無謀だけど、性格的にはわりと堅実でもあって。親の言う通り冷静になればよかった……、と思ったことも。でも今は違いますよね。堅実と思われた仕事も、なんの保証もありません。だから、失敗しても楽しい!と思うことをやるしかないなと」
そもそも市毛さんが父親を説得したのには理由があった。
「父親は医者、それも代々続いた家で。兄たちが継がないと決めたとき、『自分の人生は自分で決める。それでいい。人に言われた仕事で失敗したら、その人のせいにするから』って。でも私には反対したので、『なぜお兄ちゃんはよくて、私はダメなの?』と抗弁して。それで押し切られた父は、後で母にしこたま叱られたみたいですけど」
やりたい道を、筋を通して突き進む。やはり男らしい。
「でも1年目で、養成所から文学座に残れなくて。この先の道はないと思いましたけど、『やっぱりダメでした、今から大学へ行きます』はないでしょう。しょうがない、めどが立つまでやってみよう……。それで気づいたら、10年、20年、30年経っていたと」
もともと引っ込み思案で、「人前でモノも言えない子だった」と、とても饒舌に語る市毛さん。
「近所に明るいお姉さんがいて、出かけていくときにお菓子屋のおばちゃんと『〇×ちゃん、いってらっしゃ〜い』『いってきま〜す!』って。おとなしい私がその店の前をとぼとぼ通り過ぎても、おばちゃんは声もかけてくれない。いつかあの明るいお姉さんみたいになりたいな……と思っていたんです。それを言ったら、今は笑われますけど」
市毛さんはもともと、演技を見るのが好きだった。それが演じる側になって、今に至る。だから「これくらい好きなら仕事にしていい」、ということでもないかも。
「ただ、好きなら頑張れる、とは思います。それで50年以上経ってみて、今もやるより見るのが好きです。人が演じたものを観に行って、感動するのが大好き。だからこういう仕事で結果としてよかったのかなと」
できた映画については、「自分の芝居が気になって。この反省大会は一生終わらない気がします」と市毛さん。
「エンターテインメントがどれほど人を癒やすものか、時に救うことも絶対にあると思います。でも、私がそれをやっています!なんて言えません。そんな厚かましいこと。そうではなく、自分が感動したい。それで結果として感動していただけたらありがたい。与えられた感動の一端でいられるなら、よりよいものにしたい。合格点が出たと思えたら、きっと辞めていると思います」
私が求めるものは、人とは質が違う
この日、撮影スタッフが登山愛好家であることを伝えると、市毛さんの表情は一変した。本物の笑顔、止まらない「山っていいよね!」話。肌の色艶まで明るく輝いたよう。
「街で人に気づかれたりするのも含め、人前に出るのは大変で。とんでもない仕事を選んでしまった!という思いがずっとありました。本来の自分は派手ではないのに華やかにしなきゃいけなかったりして齟齬(そご)が大きく、向いてないな……と。ところが登山では、夜の暗闇の中で感じることまで、すべてが楽しい。例えば一日中、枯れ葉が落ちるのを見ているだけでも充分。私が求めるものは、人とは質が違うんだ!って」
初登山は40歳。キリマンジャロやヒマラヤ・ヤラピーク登頂まで成し遂げた本格派。山では俳優の市毛良枝でなく、ひとりの人間に。身の丈に合った山を、自分のペースで一歩一歩前へ進む。
「山では、自分でシナリオを書きながら登るよう。登場人物は仲間、行きずりの登山者、小屋主さん、それでそれぞれやり取りがあります。シーズンに山小屋へ行くと知り合いだらけだったり、関西在住の知人と偶然すれ違ったり。そうして目に入るものすべてから受け取るものでストーリーを描く。そのぜ〜んぶを含め、山って文化だなと。どこか演劇の世界と似ている。感動なんですよね」
故郷のようなものを、ずっと探している
「じつは田舎暮らしをしかけたことがあって。親の介護で実現しませんでしたが、発売のたびに『田舎暮らしの本』を読んでいたんですよ」
取材の開口一番、市毛さんからそんな言葉があった。
「生まれたところは伊豆の修善寺ですが、よそから来た人ばかりが住んでいる地域で。そのせいか自然のなかですけど、東京のよう。文化は都会で、言葉は標準語ですし。今そこに住んでませんし、親の故郷には行ったこともなく、自分の故郷のようなものをずっと探していました」
自然のなかでそれを実現しようにも、仕事をしながらでは遠くに行けない。それでもリタイアしてからそこに住むかも?と田舎暮らしに心が動いた。
「真面目に農業もやり、飢饉のときには食べるものを自分でなんとか確保できるようにしなくちゃって。でも年齢を重ね、ゼロからひとりでやるのは無理だと思うようになりました。同じ好みのパートナーがいたり、つくった野菜をおいしい!と食べてくれる小さい子でもいれば別ですけど。つくり過ぎちゃった……これどうしよう!?ということになりそうで」
するとこれからも登山と俳優と、2つの道を自分のペースで歩んでいくのだろうか。
「働くばかりで、あまり遊んでこなかったという思いがあります。それでコロナ禍、何に絶望したかというと、もう海外には行けないかもしれないことでした。行きたいところは取ってあったので。でも信じられないようなことって起こるんですよね。だからこそやりたいと思ったことは、やっておかないとダメ。学びは遊びというのですが、文子のように新しい勉強を始めるでもいい。ずっと遊んでいたい! そんなことを思っているんです」
『富士山と、コーヒーと、しあわせの数式』
(配給:ギャガ)
●監督:中西健二 ●脚本:まなべゆきこ ●原案:島田依史子『信用はデパートで売っていない 教え子とともに歩んだ女性の物語』(講談社エディトリアル刊) ●出演:豆原一成(JO1)、市毛良枝、酒井美紀、八木莉可子、長塚京三 ほか ●10月24日(金)より新宿ピカデリーほか全国公開
文子(市毛良枝)は亡き夫・偉志(長塚京三)の思いを受けて大学に通い始める。年齢や境遇もバラバラなクラスメイトとも打ち解け、ハツラツとしていく文子。一方で孫の拓磨(豆原一成)は、就活時期を前に進路に悩んでいた。文子や恋人の紗季(八木莉可子)からカフェ経営へのチャレンジを勧められるも決断できない。拓磨はさらに、祖父の手帳を見つける。謎解きが好きだった偉志は、不思議な数式を記していた……。
©2025「富士山と、コーヒーと、しあわせの数式」
https://gaga.ne.jp/fujisan_and_coffee/
文/浅見祥子 写真/菅原孝司(東京グラフィックデザイナーズ)
ヘアメイク/竹下フミ スタイリスト/金野春奈
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