信州の八ヶ岳山麓に住む服部さんから転居を知らせるハガキが届いた。服部さんと筆者は、互いが長野、茨城へ移住する以前からの付き合い。ハガキには「28年間住み慣れた原村を離れて、お隣の富士見町に引っ越しました」とあった。一昨年、作業中に大ケガを負った服部さん。2回の大きな手術の後、新たな暮らしを始めたらしい。早速、新居を訪ねた。
掲載:2020年7月号
長野県富士見町(ふじみまち)
八ヶ岳山麓、標高900~1400mの高原に位置し、山梨県に隣接する。人口約1万4000人。年平均気温は10℃ほどで夏の避暑地として周辺にはペンションや別荘地も多い。晴天率が高く、高原野菜の産地でもある。中央本線新宿駅から富士見駅は特急あずさで最速2時間5分。中央自動車道高井戸ICから諏訪南ICまで約2時間。
家に戻って雪かきができず……。事故後の泣きそうな日々
「ケガをして病院に運ばれ、退院したときは、左手がまったく動かなかったんです。家族みんなが途方に暮れました」
服部久志さん(70歳)が妻の照代さん( 67歳)と娘2人との家族4人で神奈川県大和市から長野県原村(はらむら)に移住したのは1991年のこと。以来、森の暮らしを楽しみ続けた服部さん。古希を前にした一昨年9月、不運は襲った。作業中の転落事故。左腕付け根の神経の集まる部分が切れる大ケガだった。
事故の話を聞いたとき、茅葺き屋根の古民家で暮らす私には、人ごととは思えなかった。屋根の補修や庭木の手入れなど、田舎ではしなければならない高所の作業は多い。そのうえプロも含めて身近な知り合いの転落事故は以前にも何件かあり、なかには寝たきりになった人さえいた。リスクを感じずにはいられないのだ。服部さん夫妻は今後、草刈りや車の運転をどうするのだろう……。それらはいわゆる田舎暮らし、こと森の中の一軒家の暮らしでは、休みなくしなければならない事柄の代表だから。服部さんは言った。
「原村では冬の雪かきも加わります。ところが家に戻っても、雪かきはおろか食器洗いや洗濯干しといったちょっとした家事の手伝いさえできません。情けなくて泣きそうな日々でした」
名医の手術は成功するも夫婦は森の生活を断念
その後、服部さんはインターネットで知った腕神経手術の名医がいる山口県内の病院に2度入院し、2回の再手術を受けた。手術は成功。服部さんの左手は再び動くようになった。現在はリハビリを継続中で、自分の腕がまったく動かせなかった状態から、いまは何とか3kgのダンベルを上げられるレベルにまで戻っている。
「刈り払い機で草刈りもできるし、車の運転もできます。正直なところ、ここまで回復するとは思っていませんでした。家族や病院の先生たちには本当に感謝しています」
けれども事故をきっかけに、服部さん夫妻は原村の森の暮らしにピリオドを打ち、山々を望む隣町の富士見町に再移住することになった。
「原村の家は28年間ずっと手入れを続けたお気に入りでした。ここ数年、高齢で動けなくなる前には再移住かな……と感じ始めてはいましたが、まさかこんなに早くとは。今回の事故のことでは、村の人たちにもずいぶん心配していただいていますし、このタイミングで村を離れるのは苦渋の選択でした」
バブル時代の東京を離れ原村の森に移り住んだ
昭和25年生まれの服部さんが原村の森に移り住んだのは41歳のときだった。移住前の仕事は出版社勤務。オートバイ雑誌の編集に携わっていた。
「雑誌が売れた時代でね。仕事といっても、ほとんど遊んでいるみたいな感覚でした。原稿書きがなければだけど(笑)。取材ではオートバイで全国を走って、日本にはいい場所がたくさんあるんだなって思った。同時に、バブル景気でざわついた東京が嫌になっちゃった。私は生まれも育ちも東京だけど、東京も昔と比べて人が増えたしね」
訪れた場所のなかで、特に八ヶ岳の風景が好きだった。山麓の白樺湖近くでは脱サラした先輩がペンションを開業。何度か訪れるようになったころ、会社では人事異動で部署が変わった。そして服部さんは、八ヶ岳近くに土地を探し始めた。
「会社を辞めて田舎に移って、編集やライターの仕事と木工を半々くらいでいけるかなと思ったんですね。ちょうどファクスが普及したころだったから。もともとデザイン系の仕事をやっていて、いずれ木工の仕事がしたかった」
原村の土地は、照代さんと中学生と小学生の娘2人と見に行った。きれいな森だと、みんなで気に入って決めた。
「いま思えば、深く考えてはいなかった。夢みたいなところもあったし、勢いで移住した感じ。だけど田舎暮らしって、誰でも多かれ少なかれ夢や勢いで始めるものじゃないかな」
カラマツ林に囲まれた約270坪の土地に、寒冷地仕様で定評のあるスウェーデンハウスの家を建てた。B&B(ベッド&ブレックファスト)形式の宿もしたいと広めのプラン。延床面積約50坪の二階家だった。
夫の工場勤務と妻の英語塾、共稼ぎで教育費を捻出
原村への移住に先だって出版社を辞した服部さんは、週に3〜4日、大工のアルバイトをスタート。残りの時間はオートバイのツーリング記事など雑誌の仕事に充てた。
「アルバイトで収入を得ながら技術を身につけようと思ってね。最初は何もわからなかったけど、あれやれ、これやれって言われながら見よう見まねで何軒か現場を経験して、家を建てる流れを覚えていきました」
移住後もしばらく大工のアルバイトと雑誌ライターを兼業、合間には木工で小物もつくった。とはいえちょうど子どもたちが中学と高校に進学するタイミング。長女の米国留学などで教育費を稼ぐ必要が高まると、建築木材のプレカット工場にフルタイムで勤務する。
「貯金はなくなるし、甘ったるいことではダメだってね」
移住前まで英語塾を開いていた照代さんも再び塾をスタート。多いときには小学生、中学生を中心に40人ほどの生徒を、月曜日から金曜日まで毎日3クラスずつ教えた。
「移り住んだらお菓子をつくったり好きなことをして暮らせるよって言われたんですけれど」
と照代さんは笑う。
10年ほど忙しく暮らして、子どもたちが独立すると、服部さんは工場を退職。これまでのつながりで大工の手伝いや、別荘地の建物の修理などを頼まれるようになった。
「別荘には、細かい大工仕事が多いんです。ベランダの掛け替え修理はかなりやりましたよ」
照代さんは塾を続けながら、週末には焼き菓子をつくり、夏のあいだ開かれる原村朝市に並べた。
「朝市ではお菓子を楽しみに来てくださる方も多かったです。材料にこだわって、ほとんど収入にはなりませんでしたが」
誰にも頼らず自由に森の暮らしを続けられるか
原村は八ヶ岳山麓ながら、さほど観光地化されず静かなのがよかった。別荘地住まいなど外からの移住者も多い村。森の中の家には自分たちのペースで暮らせる居心地のよさがあった。
しかし最近は森が安住の地ではないと感じるようになった。
「大雨で道に水が川のように流れて通れなくなってしまったり、経験したことのない大雪が降ったりね。昨夏の台風では村じゅうで木が倒れて3日間停電しました」
どんなときでも、森で頼れるのは基本的に自分自身である。
「例えば『自治会で消火訓練を』と言われたときは『隣まで数百メートル離れているのに必要なの?』と思った。森には消火栓もないですし。災害時に自治会の役員が住民の所在確認をしようにも、倒木の危険のあるところを命がけで歩くわけにもいきません。考えてみると、森の中に住むのは特別なことなんだぞって思うようになってね。若いうちは気にもしませんでしたが」
相次ぐ高齢者の車の事故の報道にも考えさせられた。森では車がなければ暮らせないが、いずれ車を降りるときはくる。
車で30分ほどのところに住む次女と孫たちは、週末といえば遊びに来た。けれども森の家に戻るつもりはないという。服部さんが毎年1面ずつ外壁を塗り直すなどメンテナンスを続けた家。とはいえ同じように子どもたちが住めるわけではない。
森は終の住み処ではない。そう考え始めていたとき、転落事故が起きた。
徒歩で暮らせる田舎でおだやかな暮らしを求めて
新しい移住先は、暮らしに必要な作業が少なく、車なしで暮らせる場所が条件になった。候補には神奈川県に戻ってマンション住まいという案もあり、照代さんが見にいったが、高価で狭い部屋にはさすがに住めないと却下。また、近隣の茅野市(ちのし)や諏訪市(すわし)は駅周辺が空洞化し、どちらも車社会のため候補から外れた。その点、富士見駅周辺はもともとの玄関口だった南側に代わって新たに北側が開発され、駅からの徒歩圏に図書館やスーパー、役場、病院などが揃っている。
やがて巡り合ったのがいまの場所。約200坪のうち6割強を斜面が占めるが、その分、地価が高めの駅北側にありながら何とか予算内で手が届いた。
「斜面といっても地盤は硬く、南東に開けて日当たりがいい。八ヶ岳と南アルプスの眺めは抜群です。すぐ先の広い道からは富士山も見えます。わが家からは木に隠れてしまいますが」
森の家はオートバイライダーの宿にしたいという人に譲ることになった。
「正直なところ離れがたい家でした。3重窓で暖かく、住み心地は新しく建てたいまの家以上といえるほど。そして何より、メンテナンスをしてきましたからね。でも、若い人がそこを気に入ってくれて、引き継いでもらえたのはよかったです」
こうして今年2月からスタートした富士見町での暮らし。買い物などの日常の用足しはもっぱら徒歩になった。服部さんはシルバー人材センターに入会して週2回、老人介護施設の送迎の仕事を始めた。子どもが好きな照代さんは、少人数の英語塾のほか、町の児童クラブの補助員に登録している。
「収入は以前とは違って年金プラスアルファです。新しい生活には不安はありますけど……」
最近は、静かな余生を過ごしたいという人の気持ちがわかるようになったと服部さんは言う。
「でも、新しい場所で、またイチからがんばり直さなきゃいけない。試行錯誤しながらね」
突然の事故から必要に迫られての再移住。数年後に訪ねたとき、「おだやかに暮らしているよ」と笑顔で語る服部さんに会えることを願わずにはいられない。
文・写真/新田穂高
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