10代のころから乗馬にのめり込んでいた眞鍋さん。卒業後は、乗馬クラブへ就職したい気持ちを抑えて写真週刊誌の記者になった。その後、地域おこし協力隊として長野県飯綱町に移住し、仲間とともにまちづくり会社を設立。念願の、馬との生活を手に入れた。
長野県北部に位置する人口約1万700人のまち。飯縄山から斑尾山までの、標高約500〜900mの丘陵地に広がる。寒暖の差が大きく、リンゴやモモ、高原野菜、米などの栽培が盛ん。東京から関越自動車道・上信越自動車道経由で約3時間。
北信の小さな町のまちづくり会社社員
長野県北部に位置し、北信五岳に囲まれた高原地帯に町域を広げる飯綱町。2019年、廃校となった2つの小学校校舎の活用をミッションの1つに掲げるまちづくり会社「株式会社カンマッセいいづな」が設立された。その立ち上げメンバーの1人が、当時地域おこし協力隊、現社員の眞鍋知子(まなべともこ)さん(51歳)だ。
眞鍋さんは、移住してきたばかりの家族連れから集落の重鎮まで、地元の人たちと積極的にかかわり、まちの文化を次世代に継承する活動をしている女性グループに協力を仰ぎ、郷土料理や草木染めの講座を開くなど地域に根づいた活動を続ける。そんな眞鍋さんに移住前の仕事を尋ねると、いたずらっぽくこう答えた。
「協力隊の前? じつは私、パパラッチやってたの(笑)」
乗馬にのめり込み卒業後は週刊誌編集部へ
神奈川県鎌倉市出身で埼玉県所沢市育ち。中学生のころ、カントリーウエスタン好きの父親に連れられて訪ねた乗馬クラブで馬に感動し、その場で入会。中高生時代はクラブで毎週、その後進学した立教大学では体育会馬術部に所属し、毎日のように馬に乗った。
就職活動のシーズンになった、馬と過ごすのが楽し過ぎて、ほかの学生のように会社訪問や企業説明会に足を運ぶことはほとんどなかった。漠然と「乗馬クラブに就職できたらいいな」と考えていたが、友人や先生から「もっと真面目に考えたほうがいい」と諭され、かなり出遅れて就職活動を始めた。
「馬以外で何が好きか考えたら、文章だなって。それで出版社を受けたのだけど、最終試験で落ちちゃった。その会社しか受けていなかったから、どうしようって途方に暮れて」
「それなら契約記者を探している編集部があるよ」と知人が紹介してくれたのが、スポーツから芸能人のスキャンダルまでを記事にする、有名写真週刊誌だった。
それまでは、「自称、まっすぐで真面目な学生だった」と言う眞鍋さん。編集部では聞きにくい話に対するコメントをもらってくるよう命じられ、成果があるまで帰ってくるなと言われる日々。やっとのことで取材して記事を書くと、一言「ダメ、やり直し」。どこが悪いかわからないまま書き直しても「全然ダメ、やり直し」。悔しくて情けない気持ちを抱えながら、ワープロのキーをひたすら叩いた。
「知らない人としゃべるのが苦手で、取材に行くときにはいつも緊張でいっぱいいっぱいになっていました。書くことは得意だったはずなんだけど、それもダメ出しをされて」
所属は芸能スポーツ班だったが、人員が足りないときには張り込み班にも入った。あまりテレビを見ず、他人が何をしていても気にならないという眞鍋さん。同じ場所に何時間も張り付いてスキャンダラスな現場を押さえる仕事に喜びを見いだせず、何度も辞めたいと思ったという。
「入ったころの業界はおじさんたちばかり。私のような記者がインタビューに行っても、女だからと相手にされなかったり、怒鳴られたり、事務所から難癖をつけられることも」
そんなとき力づけてくれたのは、当時はまだ珍しかった、長いキャリアを持つ女性カメラマンだった。
「『女ってことでなめられていて嫌だ』とボヤいたら、『でも、女だから得していることも確かにあるよね』と。結局、女だからとか男だからとかは広い視野で見ると大した違いじゃなくて、私は私なのだから、私自身がどう在あるか、どう取材するかがすべてなのかも。それで吹っ切れました」
改めて自分を取り巻く環境に目を向けると、自分は編集部の人や取材先からかわいがられているということに気づいた。上司や先輩は厳しいが、自分が一人前の記者になれるように育ててくれている。取材時にも、「この人はインタビュアーが自分だから答えてくれているのだ」と感じる瞬間があった。
自分の「嫌だ」「緊張する」という気持ちに注目するのではなく、相手にできるだけ気持ちよくしゃべってもらうにはどうしたらいいかに焦点を当て、聞き方を模索した。そうしているうちに度胸がつき、ちょっとのことでは揺るがなくなった。
「印象的だった企画は、アダルトの連載。女性編集者と私がペアを組み、ヌードグラビアを企画したり、AV女優にインタビューしたり。AV女優になるまでの経歴や仕事に対する思いは本当に人それぞれで、彼女たちの話を記事にするのはやりがいがありました」
離婚の不安から就職しかし、仕事も失うことに
29歳のときに、同僚と結婚。眞鍋さんは週刊誌を辞め、赤ちゃん雑誌や男性ライフスタイル誌、女性週刊誌などを経て、広告代理店の専門職採用として冊子制作を請け負うことになった。正社員ほどのしがらみはなく、毎月の収入は保証されているという恵まれた環境だった。
結婚相手とは、子どもを持つか持たないかなどですれ違いが生じるように。結婚7年目には、一度離れて暮らしてみようということになった。
「1年間の別居中は、むしろすごく仲がよかったんですよね」
相手のことは嫌いではなかったが、また一緒に暮らしたら、うまくいかなくなることは予想がついた。眞鍋さんは別れを選ぶことにした。
「あまり記憶がないのだけど、離婚後の私はボロボロだったみたい」と話す眞鍋さん。安定を求め、働いていた会社の正社員のオファーを受けるが、制作担当から営業部に異動となってしまった。離れてみて初めて、自分がどれだけ現場が好きだったかを実感し、退社。フリーライターに転身したが、生活はかつてないほど不安定となった。
長野県の自然に出合い10年間通い詰める
「今月の家賃は払えるだろうか?」。そんな不安を抱えながら必死に働いていたとき、思ってもみない話が舞い込んできた。馬仲間が、「馬術競技のパンフレットやポスターをつくらないか?」と連絡をくれたのだ。
「週に3回の出勤で、ほかの日にライターの仕事を入れられる。しかも、馬術大会でのサポート業務もあったから、馬とかかわることもできる。本当にありがたい仕事でした」
生活が安定すると、精神的にも余裕ができた。友人に誘われて長野市戸隠(とがくし)を訪ねたときには、信州北部の自然に魅せられた。そして、春夏秋冬、10年間も休みが取れるたびに通い続けた。
「あまりに好き過ぎて、こっちに住みたいなと思うようになったんです。でも、このまま『いつか住みたい』とフワフワ思っているだけでは、一生住めない気がして」
北信に住みたいという気持ちを、眞鍋さんは意識して口に出すようにした。「理想と現実は違うよ」というネガティブなフィードバックもあったが、大半の人は応援し、情報をくれた。そんななかで知ったのが、地域おこし協力隊制度だった。
周辺の市町村を調べて、飯綱町の協力隊の廃校活用ミッションが自分のやりたいこととつながると興味を持って応募。採用が決まり、2018年3月に移住した。翌年5月には「株式会社カンマッセいいづな」が設立。廃校の校舎を改装し、カフェやコワーキングスペース、テナントなどが入居した2つの複合施設「いいづなコネクトE A ST」と「いいづなコネクトW EST」としてオープン。協力隊の任期終了後は、カンマッセいいづなに就職した。
馬を通じた研修でリーダーシップを育てる
移住当初、自分で馬を飼うことは考えてもいなかった。しかし、「ナチュラルホースマンシップ」(馬を力で支配するのではなく、基本的な性質を理解し、群れのリーダーのような振る舞いを心がけることで馬との自然なコミュニケーションを取るという考え方)を知り、自宅に子馬を迎えることを決心した。
20年初夏、愛知県の牧場からオスの子馬がやってきた。白と茶のぶち栗毛のその馬を、眞鍋さんはエディと名づけた。
「じつは、群れのリーダーは強いオスではなく、年配のメスの馬のことが多いんです。力の強さ以上に大切な、リーダーの要素があるということなんじゃないかな」
それは人間のリーダーシップにも当てはまるのではないかと考えた眞鍋さん。今年3月、長野市の馬仲間と、馬を使ったマネジメント研修の合同会社「馬と」を立ち上げた。
「私もそうだったのですが、無理やり引っ張っても、お伺いを立てても、馬は動いてくれない。そんな自分の内面やコミュニケーションの癖に気づくことが大切なんだと思っているんです。必要なときには『丹田(へその下にある、気力が集まるとされる場所)のスイッチ』をオンに、必要ないときにはオフにしてリリースします。近寄り難い怖いリーダーではなく、柔軟にオンとオフが切り替えられ、いざというときには自信を持って振る舞える、安心して頼れる存在を目指してほしいんです」
「カンマッセ」という言葉の由来は、「かき混ぜる」の方言「かんます」から来ている。地元の人や移住者、老若男女、地域、未来など、あらゆる縁をかき混ぜてつないでいこうという思いを込めた社名だ。
「今は、かんました(かき混ぜた)結果、いろんな面白い化学反応が起き始めているとき。地元民も移住者も多様性を認め、お互いに学び合っていければいいなと思っています」
文/はっさく堂 写真/村松弘敏
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