「何でも見てやろう」と一家で渡英し悪戦苦闘
思いがけず大金を得た2人は、さっそく新たな夢に向かって進み始めた。一家揃ってイギリスに渡ろうというのである。73年、久男さん37歳、好子さん36歳、長男9歳、長女3歳のときだった。
「その数年前に小田実(おだまこと)の『何でも見てやろう』を読んで、日本を海外から見てみたいと思っていたの。これからは英語が必要な時代だから、英語も学びたいと思ったし」と好子さん。
久男さんは英語を勉強するため、好子さんは妻、そして子どもたちということで、一家はイギリスへの入国を果たした。制限はあったものの働くこともできた。2人の英語は、何とか通じる程度だったそうだ。
ロンドンでの生活が始まった。だが、手持ちのお金では半年ほどしか暮らせないことが判明し、久男さんはレストランでキッチン・ポーターとして働き始めた。
「皿洗いや片付け、床掃除もしましたよ」
英語がおぼつかない好子さんは、知的障害者の保育の手伝い、看護婦寮の掃除など、最小限の会話で済む仕事をして家計を助けた。「お金がいつ底をつくか、心配でたまらなかったわ」と振り返る。
ヒースロー空港のカフェテリアにて。仕事にまい進していたころの久男さん。このときの好子さんは、1人で南米旅行に出発するところ。
夫はシェフからマネージャー。妻は腰痛からセラピストに
異国で悪戦苦闘していた2人だが、やがて久男さんの働きが上司の目にとまった。久男さんには、ほかの人にない気働きがあったうえ、ていねいな仕事ぶりだったからである。上司は久男さんが本格的な料理学校に行けるようお膳立てしてくれた。こうして久男さんはウェストミンスター・キングスウェイ・カレッジに入学。シェフの資格を取得した。
イギリスでの暮らしが5年を過ぎると、言葉にも困らなくなり生活も安定した。晴れてシェフとなった久男さんは、意外にも厨房に立つのではなく、和食チェーンを展開する日系企業に就職し、人事のマネージャーからゼネラルマネージャーへと出世の階段を駆け上がった。
好子さんも経理の仕事をして働き続けたのだが、腰痛に悩まされるようになった。久男さんの収入で一家の生活が成り立っていたこともあり、92年、好子さんは仕事を辞め、腰痛解消の目的も兼ねてアレクサンダー・テクニークのインストラクターになる勉強を始めた。3年間のコースだった。同時に指圧も習って指圧協会の会員資格も得ている。好子さんは、のちにイギリスで、アレクサンダー・テクニークを教えたり、指圧の施術をする仕事に就いた。
96年、久男さんはアメリカへ転勤となり、好子さんも同行してアメリカでの生活を楽しんだ。
2年間のアメリカ勤務が終わるころ、再び大事件が起こった。5店あったイギリスの店舗の赤字が膨らみ、和食チェーンが倒産したのである。イギリスに戻った久男さんは後始末に追われることになった。そんななか店舗の日本人シェフの何人かが「自分の店を開きたい」と希望していることを知り、久男さんは開店準備を手助けした。
「みんな料理はできるけれど、店を開く手続きとか経営は知らなかったからね。これを2年くらいやったかな」
イギリス時代、2人はヨーロッパ各地をドライブ。久男さんは詳細な旅の記録を残している。イタリア、ステロヴィオ峠での写真。
アレクサンダー・テクニークの上級生の家を訪問してレッスンを受けている好子さん。
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