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田舎暮らしの本 5月号

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田舎暮らしの本 5月号

3月3日(月)
890円(税込)

© TAKARAJIMASHA,Inc. All Rights Reserved.

「強さ」と「優しさ」あるいは道徳について/自給自足を夢見て脱サラ農家37年(52)【千葉県八街市】

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 3月27日「人生の勝ちと負け・・・流れて来る淡いオレンジ色の光とやわらかなピアノ曲」。

 真っ青な空に大きな白い雲。朝の空気はまだ冷たかったが、この明るい空、無風の天気、何日ぶりのことだろう。朝一番、洗濯機を回し、布団を干した。1日の始まりがそれだけで幸せ気分となる。しばし青い空を眺める。ふと視線を落とすと、僕と同じような姿勢で空を眺めているものがいた。蛙。大中小と何匹かこのプールには蛙がいるはずだが、寒い間、ずっと姿を見せなかった。きっと、水底から今日の空の青さを感じ取り、水面に顔を出したんだな・・・。

雨が多く、低温の今年3月。青い空と白い雲が気分を高揚させてくれる。

真っ青な空を仰ぎ見る僕のそばで池の蛙も同じように空を眺めている。空腹だった子供時代、何十匹という蛙を捕まえ脚の肉を茹でて食べた。今はそんなことはしない。蛙は我が友だからである。

 2時間ほど畑仕事をしてから、休憩時間、くろちゃんに牛乳を届けてやる。ずっとチャボ集団のボスとして君臨したくろちゃん。しかし、若いオスに連日痛めつけらていれる。世代交代は常にあることだが、ふつうは、老いたりとはいえボスの座にあったものに若いオスは敬意を抱く。会うたび飛び掛かり、血が出るまで攻撃するなんていうことはない。くろちゃんは攻撃されるたび悲鳴を上げる。その悲鳴を聴いたら僕は鍬を投げ出し、駆け付ける。しかし、うんと遠くの畑で作業する場合、すぐには行けない。それで、日当たりのよい場所に置いた野菜箱に閉じ込める。そして休憩時間、食べ物や飲み物を出前するのだ。老齢は視力の低下というところに顕著に表れている。焦点が合わない。僕が差し出した器にピタリとくちばしを当てることが出来ず、何度も空振りをする。それゆえ僕は辛抱強く、器の角度を変えて、うまくくちばしが器に入るよう調節するのだ。くろちゃんは人間でいうと何歳くらいになるだろうか。もしかしたら僕と同じくらいの年齢か。ならば、今僕がやっているのはまさしく老々介護である。老いたくろちゃんに毎日辛い思いをさせたくはない。安らかに、その時が来るまで穏やかな時を過ごさせたい・・・何十年と生き物を飼ってきた者の、ごく自然、ともに生きてきたものへの、ありふれたとも言えるこれは優しさである。あるいは道徳である。

若いオスに攻撃されて悲鳴を上げるくろちゃんを抱き上げる。くろちゃんは僕の胸に顔を寄せる。ジイチャンは優しいネ・・・その目がそう言っている。

 荷作りのためにめくった新聞。そこに「撤退、『母も負け組』悔しかったが」という見出しのついた記事があった。周囲に富裕層が多い港区在住、大手企業に勤める40代女性。就職氷河期を経験した彼女は、いい企業に入り、いい収入を得るためには何より学歴だと感じていた。長男を難関中学の受験に特化した塾に入れた。しかし息子はそこで落ちこぼれた。偏差値38でクラス最下位。退会届をつきつけ、「もう塾をやめるよ」と宣言した。やめたくないという言葉を期待したが、息子は平然。塾代はかさみ、ストレスは募るばかり。彼女はついに「撤退」を決意した。彼女の友人たちの子どもは次々と難関中学に合格した。悔しさが募った。「長男は負け組だ。母親としての自分も負け組だ・・・」。彼女の夫は国立大を出ている、彼女自身も有名私立大を出ているのだという・・・。

 学歴が人生を左右するのは事実であろう。高い学歴があれば、収入が高く得られるだけでなく、3K(きつい、危険、汚い)仕事もせずにすむ。だが・・・案外知られていない事実もある。すなわち、勉強の世界で勝ち残った高学歴の人、勝負はそれで終わるのではなく、勝ち組の中では勝った人間同士のまた別な勝負がなされる。勝ち組の中での負け組に転落する運命がひそかに待っている。ひとつのわかりやすい例。僕は仕事で頻繁に東大医学部に出入りした。内科には第一から第三まであり、それぞれに教授、助教授、そして講師何名かがいる。うまくそのポストを得られるのは10名に満たず、東大でのポストを逃した者は私立大医学部に移る。問題は、東大でも私立大でもポストが得られないという人がいることだ。ある時のこと。常連の執筆者が何かの事情で予定の原稿が書けなくなり、ふだん聴いたことのない名前の人を代役に指名した。僕は企画書を手にして面会に出向いた。活気のある医局とは違い、その方の部屋はずいぶん奥まった暗いところにあったように記憶する。対面したのはたぶん50代の初めくらいであったろう。率直に言うと精彩のない印象の方だった。しかし、原稿執筆の依頼を受けたその顔には喜びがあふれていた。打合せを終えて辞去する僕を椅子から立ち上がり、出口まで送ってくれ、軽く頭まで下げてくれた・・・僕の勝手な推測もあったかもしれない。だが、東大医学部という間違いないエリート集団にも、その集団での戦いに敗れた負け組がいる。すなわち、どの分野でも、ずっと勝ち組でいられる人はごく少数。先ほど挙げた大手企業勤務の母親にも日々熾烈な戦いが潜んでいるのではないか。一度も負けないのは高校野球の優勝校くらいのもので、1回戦であれ準決勝であれ、他のチームは必ずどこかで負ける。勝ちの後には負けがある・・・それが人生というものなのだ。

富士には月見草が、日没近いビニールハウスにはクラシック音楽が似合う。

 僕にはそんな、勝ち負けの世界に身を置き続ける強さがなかった。百姓という仕事は勝負の世界から「撤退」した結果のものだった。午後4時、荷造りを終えてビニールハウスに資材を運び込む。部屋の電熱カーペットで1カ月余りをかけて作ったマクワウリの苗、それがポットのままではそろそろ限界にきている。まずは先日の強風で吹き破られた部分の修復。次に、ハウスのビニール1枚ではまだ寒いのでビニールトンネルを仕立てる。そこに苗を植える。

テレビのCMも、ラジオ番組のタレントたちのカン高い笑いとおしゃべりも、僕には聴いてて辛い。もっと光を、もっと静けさを。

 ふと、BGMが欲しいなという気分になった。太陽光で充電するスタイルのラジオをハウスに持ち込む。ほとんどのラジオ局は朝から晩までにぎやかな笑いとおしゃべりに満ちている(昔からそれについて行けないのも僕の弱さだろう)。僕の要望を満たしてくれるのはNHKのFMだけだ。午後5時ちょっと前、西の林に落ちる直前の太陽がほぼ水平に、柔らかな、オレンジ色の光をビニールハウスの中に送り込む。その光と、ラジオから流れる緩やかなピアノ曲が重なり合う。勝ち負けの世界から遠く隔たった時間と空間・・・でもこれでいいのだ。強さを欠いた男の、少しばかりの強がり。それがスローなピアノの旋律にまぶされ、ビニールハウスにそっと漂う。

この記事を書いた人

中村顕治

中村顕治

【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。

Website:https://ameblo.jp/inakagurasi31nen/

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