掲載:2019年9月号
房総は意外に山深い。半島を横切る国道を南東へと走り、外房の海まであと10km。国道をそれ、集落の裏の田んぼの向こうはもう山である。コンクリートの橋を渡ると舗装が途切れ、砂利道は薄暗いスギ林の奥へと続く。軽トラックを4輪駆動に切り替えて急坂を上った。パッと視界が開けたところに、家があった。
千葉県勝浦市
房総半島南東部にあり太平洋に面する。漁業が盛んで市内に17の漁港がある。日本三大朝市の1つ勝浦朝市でも知られる。東京駅から勝浦駅まで特急で約1時間30分。
林を抜ける砂利道に心躍らせて求めた家
「途中の橋は大雨で水に沈むんです。そうなると水が引くまで町に出られません。たいしたことではないですよ。以前住んでいた島では、海がしけて3カ月船が出ないこともありましたから」
と笑うのは、中林靖晴さん(34歳)、碧海さん(31歳)夫妻。
2015年の春、勝浦市の山間に宅地約500坪・農地約1500坪の土地を求めて移住した。碧海さんは言う。
「物件はインターネットで探しました。予算オーバーで話のタネにと見に来たんです。それが、林の中のガタガタ道から2人で盛り上がってしまって。『ここしかない』って決めました。不動産屋さんには『大変だよ』と心配されましたけれども」
築15年の母屋と離れは、もともとリタイア後の夫妻が暮らす家だった。空き家になった数年間も手入れは続けられ、とりあえず住むには充分。引っ越しにはアウトドア好きの碧海さんの両親も手伝いに来てくれた。
だが引っ越しの翌朝、次の荷を取りに砂利道を下ると……。
「通れないんです。崖が崩れて」
さすがにどうしていいかわからず、消防署に電話するとすぐに来てくれた。その後市役所が復旧を開始、昼には無事開通。
「崖崩れはその後も2回経験しています」
御蔵島で出会った2人は、山の田舎暮らしを目指す
東京都江東区出身の靖晴さんと国分寺市出身の碧海さんは伊豆七島の1つ、御蔵島で出会った。釣り好きだった靖晴さんは海洋科のある伊豆大島の都立高校を卒業後、御蔵島で土木関係の仕事に従事。碧海さんは野生動物の専門学校在学中に夏休みのアルバイトのため御蔵島の民宿に住み込み、卒業後も1年ほど民宿の仕事を手伝っていた。
海が好きな2人だが、田舎暮らしを目指す碧海さんがイメージしたのは山だった。
「畑をしてヤギを飼って……。自給自足なら山ですよね」
山で暮らすにあたって、靖晴さんが選んだのは養蜂だ。
「中学生のころ、脱サラして養蜂を始めた人の番組を見たんです。簡単にできて楽しいという印象でした。今思えば、自然環境もよく、農薬の害も少なかったころの話なんですが」
靖晴さんは栃木県内の養蜂会社に就職。2年後には碧海さんも靖晴さんのもとに移った。こうして靖晴さんは4年間勤めて技術を学んだ。
「瓶詰めのパートさんなども含めて10人ほどの、養蜂場としては大きいところでした。養蜂はスタッフ3人で2000群ほど飼っていましたよ。春にハチが増えると、花を求めて北海道や秋田に移動するんです」
靖晴さんは生き物のエサやりが好き。花のない時期、ハチに砂糖水をやるのも楽しい。
「さっきまで怒ってたハチが、エサを目の前に置いた途端、エサしか見えなくなります。そんなところが、かわいいんです」
ポツンと突き当たりで、養蜂にぴったりの場所
ミツバチの巣箱から200mほどの範囲に人家があると、外に干された白いシーツなどにフンが付き、トラブルになることがある。このため養蜂家は人家近くに巣箱を置くのを避ける。また巣箱には盗難のリスクもあるから、あまり目の届かない場所に置くわけにもいかない。
人が住む隣家から直線距離で500m、周りを林に囲まれ、一本道の突き当たりにある家は、養蜂にはぴったりの場所。
「といっても、勝浦や大多喜(おおたき)の町までは車で20分ほどで、不便に感じることはありません」
碧海さんは言う。移住後は家族も増え、現在3歳の要芽くんは保育所に通う。保育所までは車で5分、小学校までは3km。
移住候補地に房総半島を選んだのは、海と山があるから。
「最初は館山(たてやま)など半島の南部で探しました。けれども南部は養蜂家が多いんです」
養蜂家の間には、同業者の2km以内に巣箱を置かないという不文律があるそうで、半島南部での新規参入は難しいと感じた。そこでエリアを鋸山(のこぎりやま)より北側に絞って探し、この場所を見つけた。
「考えてみると、勝浦は子どものころに父とよく釣りに来た場所ですし、隣の市に碧海さんの両親の友達が住んでいたりと、ゆかりのある場所なんですね」
と靖晴さん。ここに住んでからは、お互いの両親や親戚もよく遊びに来る。碧海さんは言う。
「渋滞がなければ東京湾アクアラインを渡って実家から約2時間ですから。手伝いに来てくれる両親は、還暦を過ぎてチェーンソーの扱いも覚えました」
消防団や祭りの神輿。地域になじむ楽しみ
移住した中林さん夫妻を地域も歓迎してくれた。養蜂家として開業するにあたっては、国の制度の青年就農給付金(現・農業次世代人材投資資金)が受けられるかどうか市に相談。すぐに手続きを進めてもらえた。
「のんびり構えていたら『早く』と言われて、養蜂は移住した年の秋からスタートしました」
地区では世話役の1人が移住後すぐに訪ねてきてくれた。
「米袋1つ担いで、『これ食え』ってね。その後もお祭りなどムラでの行事ごとに説明してくれて。のしに何と書いて、いくら包めとか。助かりました」
靖晴さんは消防団にも加わり、祭りでは神輿(みこし)を担ぐ。
「担ぎ手が減って神輿から山車(だし、台車に載っており人が引く)にする地域が増えているんですが、うちの地区は神輿を担いでます。これが重いんですよ(笑)」
勝浦市や周辺には移住者が多い。2人は移住者同士のつながりから、週末には子どもたちを対象にした「田んぼのがっこ」や、古民家で過ごす活動のスタッフも務める。碧海さんは言う。
「子育て中の移住仲間と海に遊びに行ったり。子育てで見える世界はさらに広がりました」
わな猟と伐採の技は地域の師匠に教わった
靖晴さんは養蜂の傍ら、地区の世話役の人に付いて週2回ほど伐採の仕事にも携わる。
「家屋の近くの高木に登って伐る特殊伐採の仕事で、途切れず依頼があります。師匠は70歳になります。私も高いところは苦手ではないですが、とても師匠のようには登れません」
師匠にはわな猟も教わった。房総半島にはイノシシやシカのほか、県内で増えているシカ科の外来生物、キョンも多く、農作物に被害をもたらしている。靖晴さんは移住1年目に狩猟免許を取得。周辺の山林にわなを仕掛け、獲った獲物は食べる。
「大切なのは獲った後、いかに手早く肉にして冷やすか。最初はイノシシ1頭さばくのに碧海さんと2人で2日かかっていました。今は1人で2頭を半日。肉の味はまったく違います」
養蜂、特殊伐採、猟。ほかにも、家の修繕や草刈りなど、やるべきことは多い。
「今したいのは、家の前の溝掘りと、お風呂のタイル張り。常に工事中ですが、田舎暮らしは予定どおり進んでいますよ」
土地を豊かにする営みを遊びに据えて暮らしたい
だが1つだけ、予定どおりにならなかったことがある。
「ミツバチは、もっとたくさん増えると思っていました」
原因は山の緑にあった。当初、養蜂によい環境だと感じた周囲の山林。だが植生をよく見ると、多くがスギとモウソウチクだった。これらは蜜を出す花を付けず、ミツバチを養ってはくれない。
そこで巣箱の周囲に蜜源として優れるニセアカシアの木を植え、空いた場所にはクローバーやヒマワリなども育てた。さらに周囲のスギ林では、地主と自治体の許可を得て間伐も手がける。間伐すると林の中に日光が入り、蜜源となる広葉樹や照葉樹が生えるのだ。
「ハチが生きるには、いろいろな花が一年を通じて咲いている必要があります。その場所で養えるミツバチの数は、環境が豊かになるほど増えるんです」
そして靖晴さんは言う。窓にカーテンを付けるような小さな手間から、林の手入れなど息の長い取り組みまで、この土地をより過ごしやすくする営みを続けることこそが、田舎暮らしの目標なのだと。
「一生終わらないでしょうね。でもそれらはすべて遊びです。ここで遊びながら生活してます。こういう暮らしが将来も続けられれば、私はそれで満足ですよ」
文/新田穂高 写真/冨田きよむ
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