中村顕治
今回のテーマは前回同様、編集長からいただいた複数テーマからのチョイスである。僕は茨城と千葉、二度の田舎暮らしが通算で42年になる。結論を先に言ってしまえば、田舎の人付き合いはぜんぜん大変じゃない。心配ご無用である。別なところでも書いたが、都会だろうが田舎だろうが、人間の本質に変わりはない。お調子者、不愛想者、おせっかい焼き、あるいは暗い人、明るい人、教養ある人、そうでない人、心遣いある人、そうでない人、多弁な人、寡黙な人、ユーモアを解する人、そうでない人・・・どんな場所にも同じような割合でこのような人間は存在するものだ。田舎だから大変・・・そんなことはないと僕は断言する。
ただし、都会から田舎に移り住んで苦労した、あるいは、せっかくの移住が長続きしなかった、そういう話は僕も見聞する。しかし、僕の判断では、その遠因はおそらく当事者にある。都会風を吹かせる。昔の立派なキャリアを匂わせる。言葉遣いが高飛車。頭が高い。笑顔での挨拶をしない。まだまだあるが、一口に言うならば、ふんぞり返る、暗い、そんな雰囲気が相手に伝わるとたぶんダメである。42年の田舎暮らしで、僕が大原則としたこと。それは、朝会ったら必ず相手より先におはようございますと会釈すること。そして、天気でもいい、作物の出来でもいい、小難しい話題ではなく、料理に例えれば、いきなりメインディッシュを食べるのではなく、軽い前菜を持ち出し、それを口にしてからその場を離れるのだ。英語のgood morning、いい朝ですねえ、いい天気ですねえ。それは、英国人の気難しさと賢さがほどよく詰まった挨拶言葉だと、何かで読んだ記憶がある。朝、近隣の人と行き会う。いきなりヘビーな話題は持ち出したくない。さりとて黙って通り過ぎるのは失礼だし、味気ない。最も無難で、かつ、互いの共通のテーマが天気なのだと。そこからgood morningは生まれたというのだ。まさしくそうだなあと僕も考える。茨城でも今の千葉でも、必ず相手よりも先に、大きな声で、笑顔でもって、僕はおはようございますと挨拶してきた。極論すると、田舎暮らしを成功させる条件はただひとつ、この笑顔と相手より先になす挨拶である。
もし声の届かない距離に相手がいる場合には、僕は右手を上げる、そして頭を下げる。相手が仕事の手を休め、何か話したい感じだなと思ったら、僕は足を止める。ただし、ズルズルと長話に持っていくのは賢明じゃない。向こうは仕事の途中なのだから。暑い日にはあついですいねえ、寒い日にはさむいですねえ。そう言ってから僕は立ち去る。
今書いた、右手を上げてから、頭を下げる・・・まさにその例が昨日の朝だった。ランニングでキタさんと行き会ったのだ。行き会ったと言っても相手は道路から30メートルくらい離れた場所で仕事に励んでいる。奥さんと並び、畑にマルチを張っていた。手を上げた僕にキタさんも手を上げて返し、奥さんはいつも頭を下げての挨拶をしてくださる。我が村で、たぶん、キタさんが農家としては最高位にあろう。耕作面積も広大なのだが、栽培品目も多彩。いつ見ても夫婦共同の作業だ。そして、新築から10年くらいになる居宅がなんともすばらしい。うっとりするような豪華で美しい家だ。でも、ご夫婦は謙虚で、笑顔を絶やさない。心地よい人柄だ。以下、僕は日常的に交流のある人たちとの接触場面をまじえながら今回のテーマを書き進めていく。
4月22日。まさに夏日である。今日はかなり長い時間をかけて大豆の実取りをやる。出荷用に大豆モヤシを作るためでもあるが、何か月も倉庫に投げ込んでいたものを、そろそろ種用としても選別しておかねばならない。太陽の光は強烈。僕の頭髪が薄くなってきたせいでもあろうが、頭のてっぺんに当たる光は熱くさえある。
昼間のうちから続けていた焚火をそろそろ仕上げておこうかと夕刻、現場に向かった。この場所にはカボチャを這わせようかと考えている。広さは8×10メートルくらい。すでにクリーン作業を開始してから半月だ。その焚火をしているところにいきなり背中方向からガサガサ物音がし、続けて人の声がしたのでビックリした。振り返ると梅次さんだった。言うことが面白い。中村さんところは広いから探すのが大変だよ・・・。畑の広さでいうと梅次さんの所の方がずっと上だが、うちには数えきれないほどのビニールハウスを含めた障害物がある。視界が悪い。だから僕の姿を探すのは大変なのだ。それでも梅次さんは毎回僕の居場所を突き止めてやって来る。もしかして嗅覚が鋭いか。
生姜、持ってきたよ。軽トラのそばに置いてあるよ・・・。種用の生姜は毎年、梅次さんに分けてもらうのだ。生姜の越冬は難しい。ユンボを使って深さ1メートルの穴を掘り、ワラをかぶせて寒さをよける。力仕事を厭わない僕でも1メートルの穴を掘るのは無理だ。それで梅次さんから買う。焚火のそばでしばし話をする。ちょっと困るのは、この秋で85歳になるという梅次さんの耳が遠いことだ。歯もだいぶなくなっているので口がくぐもる。さらには、僕にはこの村での付き合い相手は何人もいるが、ほとんどの場合、互いに使用する「言語」は標準語、もしくはそれに近い。だが、梅次さんの口から出るのは旧来からの「現地語」だ。だからよけい聞き取りにくい。やっと聞き取れて、僕が言葉を返しても、今度は耳が遠いゆえになかなか通じない・・・。
そんな間柄でも、親しさ、気遣いのなさという点ではナンバーワンの友人ということになろうか。互いに頼み事があったら何でも遠慮なく言う。例えば、うちのすぐ前にある梅次さんの畑は道路側が垣根で囲ってある。それが伸びすぎて剪定したらトラック一杯分にもなる。自宅は少し離れているので運ぶのは面倒。それで梅次さんは僕の畑に捨てさせてくれと頼む。僕の農法が枯れ木を燃やして灰を土に混ぜ込むというものであるのを知っているせいかもしれない。剪定した枝はかなり大量だから、僕は自分の仕事の手を休め、その置き場所を作ったりする必要がある。でも快くそれを承諾する。
一方の僕は、くたびれたスコップや鍬の研ぎを頼む。梅次さんは研磨機を持っているから。他に、梅次さんは僕に卵を分けてくれと言い、使い古しのブルーネットを何メートルかくれないかとも言う。逆に僕はどうしても一人では動かせないものにちょっと手を貸してくれないかと頼む。日常の関わりで言うとこの村で最も交流の深い人、それがこの梅次さんなのだ。
4月23日。朝起きた頃は少し雲が広がっていたが、時間とともに空が明るくなり、気温も昨日と同じくらいに上がってきた。昨日梅次さんが届けてくれた生姜を植える。ニンジンをまく。そして荷造り。ビワの摘果もやる。
荷造りしながら読んだ朝日新聞の土曜版「悩みのるつぼ」。今日の相談者は50代の女性で「定年後の夫と別の道を歩みたい」。回答者は上野千鶴子さん。相談者の夫は10年後に定年退職。定年後は他県にある実家に戻るそうだ。相談者はそれがイヤ。自分は現在地に残りたい。彼女はこう言う。
夫は仕事に追われる毎日で、私が身の回りのことを全てやってあげているのでかろうじて仕事ができている状態です。物静かで給料もよく一見不満を抱く要素が見当たりませんが・・・毎日ちょっとずつすれ違い、怒りやあきらめを重ね、今は無関心となりました。そして夫婦でいる意味があるのかと考えるようになりました。背中を丸めて小さくなってご飯を食べている姿を見ると一人にするのが可哀想にもなりますが、私が強く望んでいるのは「好きな所で好きなように生きるだけ」・・・。
何かで読んだことがある。いちばん悲しいのは、嫌われることではなく、自分への関心が失われること、相手の記憶から消えてしまうことだと・・・これに照らすと、妻からの無関心というこの夫は最も悲しい人ということになる。そして僕は思う。定年を機に生まれ故郷に戻るという男性はどのくらいの割合でいるものなのだろうかと。僕は故郷に戻るという想定をこれまで一度しかしたことがない。大学で教職課程の履修届を出した。どれだけ本気だったかわからないが、先生の免許を取って、自分が通った故郷の中学で教えるという夢があったらしい。しかし、講義を欠席してでも出るというキビシイ部活の練習で手いっぱいとなり、教職課程は立ち消えとなった。僕の祖母の名はイシという。その祖母が臨終間近い頃、言ったという。ケンジは私にウソをついた、期待を裏切った・・・20歳前の僕は、学校の先生になって島に戻って来るからと言ったらしいのだ。この僕の言葉はたぶん、祖母の孤独を慰めたいとの思いからであったのだろう。僕の母との折り合いが悪く、子供時代は嫌いな祖母だったが、僕の父は九州に、僕を含めた孫4人は東京に。たった独りで暮らす祖母への元気づけ、それが先生になって・・・だったのかと今は考える。
頻繁に帰郷していたのは30歳くらいまでだ。それ以後は足も気持ちも遠ざかった。ふるさとが遠くなった原因は自分の田舎暮らしだったろう。自分の手で植えた苗木が根付き、大きく育つ。その暮らしがいつしか新しい自分の故郷になっていくのだ。小さな島だから、農業をするための平坦で広い土地というのはない、漁業にも展望がない。自分で手に入れた田舎暮らしの基盤を超える魅力は、もはやふるさとにはなかった。単に懐かしむ場所になった。その懐かしささえも、年齢を重ねるにつれどんどん稀薄になった。
ふるさとの名は祝島(いわいしま)。もしかしたらご存知の方もいるかもしれない。原発反対運動を何十年も続け、中国電力の原発建設を実質、中止に追い込んだ島である。僕が子供時代の戸数は600、人口3800人。商店は数えきれないくらいあり、本屋さんも自家製パン屋さんもアイスキャンデー工場も映画館もあった。それが、現在では300人いるかいないかという人口だと聞く。もし原発が設置されていたら、人間の往来は活発となり、起死回生の手段となりえたかもしれない。誘致に動く人たちもいたようだが、その人が商店経営ならば不買運動がなされたと聞く。僕の同級生M 君は1000年の歴史を持つ神社の神主を引き継いだが、圧倒的な勢力を持つ原発反対派によって神主を罷免された。
僕はもう20年くらい帰郷していないので伝聞だが、原発反対という思想を持った人たちがけっこう移住して来ているらしい。カフェや食堂を開いているらしい。原発反対を唱え続けてきた地元の人たちには遠方からやって来た同志ということになるから、単なる移住ではない熱い歓迎ムードがあったかもと僕は想像する。
長州人は、右であれ左であれ、とことん進む・・・何かの本にそう書かれていた。長州は薩摩とともに倒幕の先頭に立った。明治から昭和にかけて何人もの総理大臣を輩出した。その一方、プロレタリア作家であり、のちに日本共産党の委員長となる宮本顕治も僕のふるさとにすぐ近い所の出身である。右であれ左であれ、とことん進む・・・具体的な例を数多く知っているわけではないが、自分自身を顧みて、これは当たらずとも遠からずだなあと思う。良く言えばハンパな妥協をしない。突き進む。悪く言えば柔軟性に欠ける。そして僕自身はリアリストではなく、根はロマンチストだ。たぶん、田舎暮らし、百姓暮らしに突き進んだ我が情熱は長州人の血のゆえだったかもしれない。
話がちょっとそれるが、僕が勤めていた当時の社長の死去後、後継を争う内紛がかなり激しかったということを、ごく最近、社内のガールフレンドだった人から僕は聞いた。後継争いは二転三転したらしいが、最終的に社長となった人は、先代社長の息のかかった人たちを追い出しにかかった。結果、かつて僕の同僚だった人、飲み仲間だった人の多くは会社を辞めた。そして彼らが始めたのはいずれも編集プロダクションだったという。僕から見て彼らはいずれも編集者としての腕はずっと上だ。僕自身はずっと技量不足だった。ただ、百姓という道に進んだのはそれだけではなかったと思う。「もうひとつの人生」を歩んでみたい、ロマンチストだった僕はそんな夢を描いた。文字通りの畑違い。ナカムラは会社を辞めて百姓になったらしい・・・社内ではけっこうな驚きと、それで食っていけるのかという疑念の声があったらしいと聞く。もうひとつ、ついでに書く。共産党委員長・宮本顕治氏、すでにお分かりと思うが僕の名前と同じである。両親がその存在を知らなかったとは思えない。さりとて、あえて共産党の闘士の名前を拝借し、我が子に付けるとも思えない。両親が生きている間に聞いておけばよかった・・・。
4月24日。天気は一転、肌寒い雨の1日である。ランニングシューズを履いて、まずは組長さん宅に行く。組費6000円を届ける。月額は500円で1年分だ。組というのは30くらいあって、それがまとまって区という上部組織になる。組費とは別に区費というのも6000円で、トータル12000円が、いわば村の自治会費ということになる。僕はマンション生活をしたことがないので詳細はわからないが、マンションには自治会費とか修繕積立金とかいうのがあって、月額で2万とか3万とかだと聞いたことがある。これに比べたら安いものだ。
何年前になるだろうか。都会から田舎に移住した人が地域の自治会に入ることを拒否、あれこれ嫌がらせを受けたという問題があった。回覧板を回さず、ごみステーションも使わせない。それでついに裁判沙汰にまで発展した。基本的に自治会に入るか否かは本人の自由だ。しかし、田舎では、入らないというのはかなり勇気がいること。たしかに入ることで煩わしい付き合いも生じるけれど、我が村のように年額12000円で仲間とみなしてもらえるのならば支払った方が気分は楽だ。
さてと、雨はどんどん強くなるが、今日はいつもの荷造り発送がない。存分にやれるな、時間を要する力仕事がタップリやれるな。4×10メートルのヤブの開墾をやるのだ。数字にするとさしたる広さとは思えないが、ぎっしり生えた篠竹を掘り出し平坦にするのはウルトラ級のハードワークだ。使う道具は2つ。長柄の剪定ハサミとスコップ。まずは地面ギリギリのところでハサミを使って切る。長くてしっかりした竹はヤマイモとインゲンのツルを巻かせるのに使い、短いものは焚火に投げ込む。
そうしておいて、スコップを踏み込む、踏み込む。深さ30センチ、場所によっては50センチ。5本くらいのかたまりの根がうまく掘れた時には快感だが、そんなのはまれ。何度も踏み込まねばならない根っ子の方が多い。その合間、トタン板をかぶせて雨に濡れないようにしてある焚火に行って燃え具合を確かめる。火の勢いが弱っていたら枯れた竹を足してやる。そんな僕を見て、ガールフレンド「フネ」がまじめな顔して言うのだ。ワタシが、ただひとつだけ、無人島に持っていくとしたら、歎異抄なんかじゃなくって・・・おとうさんだネ。
笑う。オレは「ひとつふたつ・・・」と数えるモノかよ。でも、まあいいや。その気持ち、男には嬉しいぜ。するとフネは続ける。だって、ひどい造りといえども小屋は作れるし、力仕事はフルに出来るし、雨の中でもすぐ火がおこせる。泳ぐのだって得意でしょ。無人島の暮らしでは、お父さんが海に潜ってタコやサザエやウニを取って来る。もちろん料理もやれるよネ。ワタシはハンモックで寝ながら料理が出来上がるのを待っている。イコイコ、無人島、一緒にイコ。歎異抄はやめ、持っていくのはやっぱりおとうさんに決めた・・・・。
4月25日。太陽が戻ってきた。気温も25度を超えた。朝食を始めかけた時、電話が鳴った。中村さん、苗が準備できたよ、いつでもいいよ、今日はずっと家にいるから・・・電話の声はイモとしちゃんだった。本名はとしかず君。僕より5歳くらい若い人。かなり手広く農業をやっているが、彼がいちばん力を入れているのがサツマイモ苗の販売だ。それで僕は勝手にイモとしちゃんと呼ぶ。
うちから歩いても10分かからない距離。石の門から家の入口までが20メートルはあるような、いかにも昔からの農家という立派な家だ。おーい、来たよ。すぐにとしちゃんがいつもの笑顔で玄関の扉を開けた。元気そうだな。僕はまずそんな挨拶をする。実はとしちゃん、5年くらい前に肺がんの手術をした。それを機に、ヘビースモーカーだった彼がキッパリ酒もたばこもやめた。不調を訴えていた頃の顔を忘れるくらい、今は完全復調だ。
彼の顔の作りは土台からして少し笑っているような感じ。それでもって、本当に笑うと満面の笑顔といった感じで会話が楽しくなる。付き合いはもうかなり長い。出会った頃のとしちゃんは犬を飼っていた。その犬の散歩と僕のランニングがほぼ同じ時刻で、手を振ってすれ違うこともあれば、しばし足を止めて世間話をすることもあった。彼がうちの前を軽トラで通り過ぎる時には、車を止めて、窓を開けて、天気や野菜やイモの話をする。
4月26日。曇り空。蒸し暑い朝。ランニングからの帰り。うちまであと50メートルというところでニシさんと顔を合わせる。僕はおはようと言って足を止める。ニシさんはトンネルで育てたトウモロコシのビニールを取り外しているところのようだった。ビニールから出てきたトウモロコシの大きさに僕はわっと驚く。僕のトウモロコシはまだ20センチだが、ニシさんのは40センチ以上ある。すごいなあ・・・。そう言ってから僕は質問する。これで収穫はいつになる? さあ、穂が出て見ないと正確にはわからないが、たぶん6月半ばには出来るんじゃないですかね・・・。
ニシさんの農法は少数精鋭主義だ。大根、トウモロコシ、ブロッコリー、ニンジン、それだけを広い畑で毎年循環させる。原則は、誰よりも早くだ。例えば大根は、新年早々にマルチとトンネルで栽培する。そして収穫は、今年の場合4月半ばでもう全て出荷を終えてしまった。この栽培歴だと市場では最も高値が付くのだという。働き者である。どんな天気でも、黙々と耕運機を動かし、大根でもブロッコリーでも1000を超えるであろう数を収穫し、作業場に運び込んでいく。僕は今日みたいに、ときどき足を止めて、そんな彼からあれこれを教わることがあるのだ。
ニシさんは50を少し出たくらいの年齢だ。専業農家の長男。人から伝え聞いた話なので正確ではないが、二浪か三浪して大学を目指したが、果たせず、しばらく都会で働いていた。そして、きれいなお嫁さんを連れて帰郷したのは15年くらい前だった。大学進学の夢が果たせなかったのは無念だったに違いない。しかし僕は、今の彼の姿を見たら、大学なんか受からなくても、いや受からない方がよかったかもしれないなと思う。サラリーマンを定年近くまで勤め、それから実家に戻り両親の後を継ぐ、そういう方法もある。しかしそれだと頭と体がついてこない。まだ30代だった彼だからこそ若い馬力で試行錯誤しつつ現在の栽培技術を完成することが可能だったのだ。ごみステーションに行くと1年分かそれ以上の雑誌『現代農業』が束ねてごみとして出してあるのを僕は何度も見た。出したのはニシさんに違いない。実家に戻った頃の彼は、豊かな体力とともに研究熱心な人でもあったろうと思うのだ。
さてと、今日の天気はほとんど梅雨といった感じだが、がんばっておこう。梅次さんから分けてもらった生姜、としちゃんから分けてもらったサツマイモ苗。それぞれがまだ半分残っている。これ以上待たせるわけにはいかない。鍬とスコップを持つ手が濡れた泥のせいで滑る。ときどき手をセーターで拭きながら土を起こす。生姜を植える作業はさほどでもない。力と根気を要するのはサツマイモだ。まず幅30センチをしっかり耕す。次に、両側から土を盛っていく。最終的に高さ30センチのカマボコ型の畝になる。そこに使い古しのビニールをかぶせ、ビニールの裾に土を掛けてしっかりと留める。最後、ビニールに点々と穴を開けてサツマイモの苗を差し込んでやる。生姜とサツマイモの植え付けに要した時間は3時間半。高い湿度のせいで額から顎にかけてとめどなく汗が流れ下った。まさに、オレは働いているぞという実感だった。
4月27日。今日はほとんど光なし。そして蒸し暑い。ランニングで「一途さん」に数日ぶりに出会う。今日も笑顔がいいねえ。初めて顔を合わせてからもう15年くらいになる。僕はランニングか自転車。一途さんは両腕をキリッと振っての速歩。本名はもちろん一途さんじゃない。でも、まさしく一途に速歩を続ける人。だから僕は勝手にそう呼んでいる。本職は修理屋さん。車だけでなく、農機具の修理もやっている。
その一途さんが少し顔を曇らせて言ったのは5年ほど前。すい臓癌だって言われたんだよ。そして入院、手術。癌細胞をうまく取り切れなかったので再度入院、手術。それでも彼は笑顔を忘れなかった。しばらく会えないけれど、がんばって。そう言って別れてから2か月後。少し痩せたようだが、さっそうと歩く姿にまた出会った。彼は信念の人だ。やると決めたらやるのだ・・・そんな人だ。癌と宣告され、二度にわたる入院・手術。もし僕だったらおそらく一途さんほどには明るく振る舞えない。彼は苦難に負けない素敵な笑顔の人だ。
さて、ここまでに登場してもらった隣人や友人でおわかりのように、僕は田舎暮らしでの人間関係に満足している。人付き合いの大変さを感じることはほとんどゼロだ。おはようの挨拶、そして笑顔。それさえあれば人間関係のむずかしさなんて無縁でいられると確信する。これは夕刻のことになる。僕が軽トラのタイヤに足を掛けて腹筋をしているところに、紙のふたをした白い皿を持って隣の奥さんが近寄って来た。以前、同じく腹筋をやっているところで出くわし、中村さんが倒れている・・・そう勘違いして小さな悲鳴を上げたあの奥さんだ。手にしている白い皿はカレーだった。いっぱい作ったから食べてみて・・・僕は起き上がり、ありがとうと言って受け取った。この隣人夫婦には他でも助けてもらっている、スーパーに行ったら必ず段ボール箱をもらって来てくれるのだ。僕の荷造りサイズにほどよい大きさの箱をいくつも。
カレーのいただきものをしたので、ちょっと思い出したことがある。田舎に移住した人が、田舎礼賛の具体例として口にする、そしてテレビなどでも紹介される言葉、「しょっちゅう、玄関先に野菜なんかの食べ物が黙って置いてあるんですよ・・・」。皆さんはどうか。僕はそのエピソードがあんまり好きじゃない。この言葉は、「田舎の人は純朴」というのとよくセットになって使われるが、僕には定型化、こう言えば田舎はすばらしい所だとみんな思うに違いないという安直な先読みが感じられてあんまり好きじゃないのだ。
どなたの本だったか、人に物を上げるには、ちょっとした心遣いと知恵がいる、やたら上げればいいというものではない、そう書かれているのを僕は読んだ。たしかにそうだと思う。さっきのカレーを例にして言うと、隣家の夫婦は独り者の僕を気遣ってくれている。日暮れまで畑仕事をやって、それから夕食作りというのは大変だろう。たかがカレーだが、少しは台所の手間が省けるはずだ・・・そういう優しさが込められている。そうしたいただきものは月に1回くらいの頻度なのだが、僕はありがとう、ごちそうさまと礼を言い、翌日顔を合わせたら再び、美味しかったと礼を言う。酒は飲まない夫婦なので、ちょっとしたお菓子が手に入った時だけささやかな返礼とする。
玄関先にしょっちゅう、野菜なんかが置いてある・・・ほんとに「しょっちゅう」なんだろうかと僕は疑問に思う。もしそれが本当ならば、上げる側に「しょっちゅう」では相手に恐縮を強いることになるのだという心遣いが不足している。もちろん、貴重な野菜、今の時期なら、普通だったらまだ出来ていないジャガイモとかイチゴとか、真冬だったらキャベツ、レタス、ヤマイモとか、それならばいい、相手も嬉しい。しかし、あり余った大根や白菜ならば恐縮させるだけで、本当に相手が喜んでくれるかどうかは疑問である。そして、もらった側は、もらいっぱなしというわけにはいかず、それなりの返礼を考えねばならないはずだ。先ほどの、心遣いと知恵がいるという意味はこれなのだ。田舎暮らしを始めた人に、地元の人が好意を寄せる、それゆえに畑でとれた野菜をもってきてくれるというのはきっとあることなのだろう。だが、本当に「しょっちゅう」か。もし、しょっちゅうだとしたら、それへのお返しはどうしているのか。もらいっぱなしには出来ないはずだし・・・。田舎の人付き合いは大変でもなんでもない。冒頭述べたその我が持論、それと、これは一見矛盾するようにも思われるだろうが、僕が言いたいことは、田舎礼賛の決まり文句としての「玄関先にしょっちゅう・・・」は安っぽい定型語に堕してしまっていると感じられるということだ。
4月28日。今日はまた光が消えた。ひんやりとした空気の1日だった。こんな日は激しく動くに限る。ポポーの下草刈りを半日やった。ポポー(この上の写真)は今が開花の時期。そして収穫は8月末から9月にかけてだ。そうそう、今朝もランニングの時に友人と行き会った。モー君。君付けで呼ぶのは友人・知人の中で最も若い人だからだ。そして、彼も、先に書いた一途さんと同様、不屈の人だ。ランニングしていて僕が初めて顔を合わせたのは5年くらい前だ。脳出血か何かを患ったに違いない。半身が不随で、大きく体を傾けて歩いている。寒い日や雨の日は頭からスッポリ厚手のレインウエアーをかぶって歩いている。そんな彼が、日ごとに回復してゆく姿を僕は見た。そして今、後遺症らしきものはまるでない姿で軽やかにウォーキングに励んでいる。
おはよう。僕は言う。おはようございますと彼も言う。今日は寒いなあ。暑かったり寒かったり。困った天気だ。するとモー君、なあに、このくらい寒いうちには入りませんよ。もう5月ですよ。中村さんが寒いのは・・・きっとトシのせいですね・・・そう言って笑顔を作る。じゃあ、オレはこれでもうアガリ。がんばってね。そう言って別れる。彼との会話にはいつもユーモアがある。3月だったか。昨年秋に放送されたテレビ番組が再放送となり、モー君はそれをたまたま見たと言った。すごいじゃないですか、中村さん。見たのかい。ふふっふと僕は照れ笑いし、上空からドローンで撮った場面なんか、見た人はびっくりしただろなあ。それにモー君は返す。ほんと、ひどかったですねえ。でも、見た人は勇気づけられたはずですよ。あんな家でも人間、生きていけるんだと・・・大笑いしてその日は別れた。
夕刻、道路沿いの草取りをしているところにダイジローさんが通りかかった。いきなり言う。オレ、やっぱりトシ取ったよなあ、中村さん。転んじゃったよ・・・そして左手を出す。かなり腫れている。階段を踏み外したのだそうだ。左手の骨にはヒビが入っているそうだ。僕は草取りの手を休め、しばし話し込む。僕は言う。トシはお互い様よ。オレは最近やたらと足が物に引っかかる。若い頃みたいに上がらず、きっと足を引きずる格好で歩くようになったせいだな。ダイジローさんは僕よりひとつ年上だ。いつも7時には寝て、午前3時には起きるという。夜型の僕とは大違い。7時だなんてすごい。オレなんか風呂から上がって晩酌を始める時間だぜ。眠れないということはないのかい? 僕の問いにダイジローさんはサラッと答える。ないよ、ぜんぜん、布団に入ったらすぐ眠れる。
さて、そろそろ今回のテーマを締めくくらなければいけない。大事なのは笑顔と挨拶。そう書いてきたが、最後に反面教師の例を掲げよう。前に触れたことがある。30代半ばで脱サラ、農業を始めたがうまくいかなかったという人。この人は、手を変え品を変え、田舎の人を悪く言う。「田舎では、ズルくて金儲けの上手な人を頭の良い人だと言う」。「頼みもしないのに、ズカズカうちの庭に入って来て教えを垂れる」。他にも数あるが、いずれも長い田舎暮らしで僕が体験しなかったことばかりだ。その批判の言葉は行政にも向けられる。ふだんから、政治家や東大や慶大を出た人をぼろくそに言うクセが彼にはあるが、その激しさとしつこさは、いくら脱サラ後の暮らしがうまくいかなかったにせよ、度が過ぎている。最近はこんな話もあった。街の公衆トイレに入ったら、何人もの人間が掃除していたという。その人たちは、よそから来た何とかお助け隊のメンバーだったらしい。それを見て彼は言う。「便所掃除くらい、他人にやらせず、お前たちでやれよ。どうせ昔は畑にクソ運んでいた身だろう・・・」。彼はどうやら、市の職員や農協の職員にもうっぷんを抱いているらしく、田舎の縁故採用で役所や農協に入ったヤツらは能のない人間ばかりで・・・などとしばしば言うのだが、ここでの「昔は畑にクソ運んで」は、農家生まれの男や女が今では現場仕事はせず、役所で体よくデスク仕事をやっている、そう言いたい場面なのだ。
周辺の人間をバッタバッタと切り捨てる。そうしておいて、自分の自慢は忘れない。大企業での入社面接試験の日、多くの受験者は皆かしこまって緊張していた。自分は・・・足組んでホカホカ弁当を食っていた。そんな自分が合格し、かしこまっていた連中は落ちた。そして、さらに。会社を辞めて実家に戻る日、重役何人かを伴った社長が上野駅まで自分を見送りに来た・・・ええ? 万を超える大企業である。30代半ばで自社に見切りをつけた一社員を見送りに行くなんてこと、ほんとにあるのかい。自慢話はそれだけではない。自分のIQは193、博士号をいくつも持っている・・・もうおわかりであろう。このような人間が地域の人とうまくいくはずはない。夢を抱いた農業がうまくいかなかったという無念の情を割り引いたとしても、他人との交流に行き詰るのはこれでは必定である。
人間は常に謙虚であるべきだ。周辺の人とはいつも、明るい笑顔と挨拶で接するべきだ。それをなくした時、たとえ田舎でなくとも日常生活は円滑にはいかない。田舎暮らしを頭に描いている人に僕は伝えたい。心配ご無用である。田舎だからって、とびきり悪人がいるはずもない。頭を低くし、ユーモアも忘れずに接すれば、必ずアナタの人柄は周囲の人に理解される。移住に失敗するにはするなりの理由がある。この反面教師のエピソードを読めばそのことはすぐお分かりになるはずである。
4月下旬・5月上旬の野菜だより
4月30日。昨日の風雨から一転、快晴の1日であった。風はひんやりしている。しかし光はタップリだから文句なしだ。明日はまた雨だというから、今日はひたすら草取りをしよう。まずは竹の棒を何十本も用意する。それを引きずりながら草取りの場所を変えていく。今の時期、冬の間眠っていたヤマイモが土から顔を出すのだ。それを見たらすぐに竹の棒を差してやる。ツルを巻かせるためであると同時に、僕が踏まないようにするための目印だ。
この機会に、皆さんにもヤマイモ、そして次の写真のウドをも菜園の仲間に入れてやるようレコメンドしたい。両者に共通することは、虫もつかない、病気にもならない、そして栄養豊富。ちょっとだけ苦労することは、ヤマイモの場合、収穫時、最長70センチくらいの穴を掘らねばならないこと、ウドの場合は、高さ50センチ以上の盛り土をしなければならないことだ。盛り土し、さらにその上から使い古しのビニールや布団を掛けてやらないと白い部分が短くなってしまうのだ。それでも、ウドの若い緑の葉は、おつゆに入れても、天ぷらにしても、炒め物にしても美味である。ムカゴでどんどん増えるヤマイモと、このウドを作ればけっこう食生活に貢献してくれる。おすすめの品である。
ハウスに入ってメロンとカボチャの授粉をやる。カボチャはこれまで何度かお見せした、1月に部屋の中で電気カーペットで熱を加えて苗を育てたもの。それが数日前からポツポツと花を咲かせ始めた。普通は先に雄花が咲いて、雌花はその後に続くのだが、どういう加減か雄花の数が少ない。だから必死に雄花を探し、花粉を着けてやる。今日現在、授粉したものは合計で8個。
一方のメロンは、摘芯もしないのに勝手に1株7本くらいのツルを伸ばし、こちらはほどよく雄花と雌花が並んで咲いている。ただ、温度維持のため、ハウスのビニールは閉じている時間が長いのでミツバチが侵入し、授粉してくれることが期待できない。それで自分の手でやる。
その作業に励んでいるところで背後から声がした。またまた梅次さんだった。そして、またまた言うのだった。「ひれえから、わからなかった。あっちの方かと思って探したが、こっちだったか・・・」。もみ殻を持ってきてくれたのだという。僕は作業を中断し、部屋に戻って、この前、読売新聞が1年の契約をしたときにくれた金麦4本を、ありがとうと言って梅次さんへの返礼とした。
今日最後の作業はブロッコリーとカリフラワーの鉢上げ作業だ。このふたつとも、僕はいつもバラまきする。発芽後3週間くらいで間引くのだが、その間引き菜をポットに植え替える。最初からポットにまくという人もいるだろうが、バラまきして、間引きがてらポットに移すというやり方のほうが苗の数は多く作れる。このポット苗は半月くらいしてから畑に定植する。
5月1日。ああ、もう5月なんだねえ・・・。トシを取ると時間がたつのが速いとよく言われるが、なるほど、今の僕はそれを実感する。会社勤めがイヤになってきた頃、出社から退社までの1日が、そして1年という時間がなんと長かったことよ。人は、逃げたい場所での時間はなかなか過ぎてくれないと感じ、心地よい場所で好きなことに熱中していると、時のたつのは速いと感じる・・・もしかしたら、もう5月かあという僕の感覚は、単にトシのせいではないのかもしれない。
さて今日はポポーの木の下草退治に多くの時間を費やす。この作業はすでに今日を含めて3日だ。総面積は100平方メートルくらいで、あと三分の一ほどが残っている。ポポーは今が開花の時期で、収穫は8月末から9月半ばとなる。次の写真がその花で、他の果樹に比べて、可憐でも、美しくもない。しかし、先ほどヤマイモとウドを栽培するよう皆さんにおすすめしたが、このポポーもおすすめの仲間に入れようか。
果物は、ミカンでも柿でもプラムでもビワでも、天候に左右される。今年豊作だったら次の年は不作という隔年結果の性質もある。しかしこのポポーにはそれがない。確実になる。病気にもならない。すこぶる健康、安定的な果樹だ。唯一の欠点は日持ちの悪いこと。熟す。収穫する。3日ともたない。だからこの果物は店に並ぶことがない。食味は・・・全く口に合わないという人もいるが、僕は好き、美味しいと思う。しかも、手間なしで、ハチミツを加えて煮ること、わずか10分で上々の味のジャムになるのだ。木の成長も早い。種を落として5年もすれば成木となる。菜園に余裕のある人はぜひ1本植えてみては。ただし、最長5メートルくらいの樹高となるので植える場所は一考する必要がある。ポポー畑の全景は本論に掲げた。
夕刻から雨になる、それもかなり激しいと天気予報が言うので、一昨日まいたニンジンにビニールの覆いを掛ける。種まき後に雨に叩かれると発芽が悪くなるからだ。今年になってニンジンをまいたのは上の写真で4回目。1回目は以前お見せしたハウスで1月4日まき。それがごらんのような大きさになった。店に出ているのはこれよりずっと大きいが、僕は小さめの方が美味しいと感じるのだが、アナタの味覚はいかがか。
世の中はGWで大いににぎわっている。百姓の仕事もこのGW時期、大いににぎわう。キュウリとゴーヤを定植する。トマトの脇芽を摘み、挿しておく。たちまちにして草だらけになるハウスのイチゴの草取りもする。次の写真はかまぼこ型の畝を作って植えたサツマイモの苗だ。こうすると地温は一気に上がり、苗の活着は速い。隣にあるのはタマネギ。ずいぶん接近しているが、サツマイモのツルが伸びる頃にはこのタマネギは収穫し終えている、そんな算段。限られた畑の面積をフルに使うための苦心の策なのだ。
果樹の花はみな咲き終わったが、唯一、今ブルーベリーだけが満開である。その花に、ミツバチ、クマンバチ、アシナガバチ、スズメバチ、そしてカナブンがやって来て、羽音がなんともにぎやか、それは耳にすこぶる心地よい。昔は、GWとなるとじっとしていられず、どこかに行きたかった。今はそれがない。トシのせいでもあるだろう。でも、前方に広がる真っ白なブルーベリーの花。虫たちの羽音。そこをくぐりぬけて大根やカボチャの畑に向かう僕は、自分の世界は「向こう」にあるんじゃなく、「こっち」にあるみたい・・・そんな気分になってしまう。だからどこにも出かけたくないんだね、きっと。どうぞみなさんも、楽しいGWを。
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中村顕治(なかむら・けんじ)
1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
https://ameblo.jp/inakagurasi31nen/
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