6月16日。ボンヤリした空だ。いかにも梅雨です、そういった天気だ。ひたすら果樹の枝払いをやる。今は1年で最も葉の茂る時季・・・というだけでなく、今さら言っても仕方のないことなのだが、田舎暮らし実現の喜びと興奮にまかせ、次々と買い込んだ苗木の植え付けが近すぎたせいだ。ともかく無駄な枝を切り払い、光を通してやらないとせっかくの実もちゃんと育たない。
高い木の上でちょっと危険な作業をしつつ、昨夜のテレビのことを思い出す。内閣府の調査結果では、20代独身男性の7割が恋人なし、4割がデート経験なしであったという。男だけでなく、20代女性の場合も、未婚で恋人なしが5割と聞いて僕はちょっと驚いたのであった。さらには、結婚の意思なしが、30代で男女ともに4人に1人・・・世の中はどうなっているのだろうか。木につかまり、ノコギリを使いながら、僕はしばし考えたのだった。
我らの若い時代、少なくとも男は、後先考えず、魅力的な女に向かって突っ走ったものだ。たとえばひとつの例。20歳くらいで好きになった女の子を僕は京都に行かないかと誘った。中学の修学旅行でも、その後、関西に多く就職した同級生に会うためでも、僕は何度か京都に行ったことがあるのだが、関東生まれの彼女は行ったことがない・・・それが京都デイトの理由だった。もちろん20歳はまだまだウブである。京都で一泊なんて勇気はなく、新幹線での日帰り旅だった。しかしそれでも、彼女を好きになる、会いたい、デイトしたい・・・その願望には溢れ、すかさず行動に移す若い男のエネルギーが十分にあった。
最近の男が(女性もそうらしいが)、異性と接すること、ひいては結婚を考えることに腰が引けているのは給料、収入とも関係するらしい。結婚生活を維持するだけのお金がないと考えるらしい。冷静な判断と言えば判断だが、我らの時代にそのような冷静さを持つ男がいただろうか。みんな突っ走って、結婚して、やがて子供が出来るというプロセスをたどったと思う。僕は結婚当時の給料は残業代込みで45000円くらい。住んだ公団住宅3Kの家賃が14500円。そして、結婚翌年にはもう最初の子どもが生まれたのだから、いま思えばけっこう無謀なことだったかもしれない。しかし人生、なんとかなるものだ。冷静な判断が必ずしも勝利するとは限らない・・・結婚に限らずネ、それが人生万般に当てはまることなのだと今の僕は思う。
近頃は結婚3組に1組が離婚するらしい。この事実も若い人たちが結婚をためらう事情でもあるとどこかで読んだ気がする。しかし、結婚し、親になるということは、人の一生とは何ぞや? それを考えさせてくれる貴重なファクターではあるまいかと僕は思っている。親子の確執ということも、我が子に嫌われるということもなるほどある。それでも、親になることによって見える世界というものはある。世界のみならず、自分自身の姿だって親になることで初めて見えてくる。コロナ禍もあって、婚姻数も出生率も昨年は最低だったらしい。どこの国の政治家だったか、今のままでは日本は滅亡するだろうとか言ったらしいが、必ずしもそれは荒唐無稽な論ではあるまい。
今日は畑仕事を終えてから、しばらく太陽光発電のメンテナンスに精を出した。すでに電気料金はかなり高くなっているが、夏場にはさらなる値上げがあるという。今月初めに来た5月分の電気の請求額は850円であった。僕は思わずガッツポーズをしたのであった。光の少ない梅雨の今、いかに効率よく電気を作るか、毎日パネルへの日照を確認し、バッテリーの蓄電量をチェックする。例えば朝は曇っていたが、午後3時頃に強い光が降り注いできた・・・そういう日には面倒くさがらずパネルの方向を西に少し回転してやるのだ。電気代を抑える、その実利だけでなく、太陽光発電とは僕にとって何よりも面白いゲームみたいなものなのである。
6月17日。朝のうちはボンヤリした空であったが、昼頃には布団が干せる明るさと光になった。起きたら、朝一番、僕はまずヒヨコの世話をし、ラニングに向かい、帰ったら体操し、朝食となる。朝食をすませたらランニングに向かう前に回しておいた洗濯機から20枚ほどのセーター、下着類を取り出し、竿に並べる。布団や毛布も干す。そして畑仕事に向かう・・・365日変わらぬ日課。
マイカ・モーティマーのような男は、何を考えて生きているのかわからない・・・アン・タイラーの新作であるこの物語は、そんな一文から始まる。主人公のマイカはボルティモア北部に暮らす40代の独身男。職業はコンピュータの便利屋で、ほとんど人付き合いのない日々を送っている。朝のランニングや食事、掃除、車の運転など決まった手順でこなす彼は、まるで同じ日を繰り返すために生きているかのようだ・・・。
しばらく前、新聞の書評欄で読んだ『この道の先に、いつもの赤毛』という本、その評文の冒頭部分をここに引いた。朝のランニングが出てくるせいでもあるが、あっ、オレもこの主人公そっくりだ・・・読みながら僕は笑ったのであった。同じ日を繰り返すために生きている・・・のかどうかは自分でも不明だが、同じ事柄を、毎日同じ手順でこなす、そんな暮らしは、実は存外、心地よいものである。毎日、判で押したような暮らし・・・この言葉はときにネガティブな意味合いで使われる。世間からも、代り映えしない、変化のない日々に飽き飽きしますといった声もよく聞かれる。しかし僕は違う。アドベンチャーな男の人生も悪くはない。だが、毎日、同じことを同じ手順でやるという生活は平凡でも、どこか甘い匂いがするもので、精神を穏やかにしてくれているのだ。自分の心の内がとても平坦で、ほんわかしていることが感じられるのだ。マイカ・モーティマーはどうなのかわからないが、僕の場合は田舎暮らしというファクターが心の穏やかさと平坦さに手を貸してくれているのではないかなという気もする。もし、どこかにイラつくものがあり、腹立たしいものがあると、人間、同じ事柄を毎日同じ手順でこなすというのは難しくなるものだ。しかし田舎暮らしにはイラつき、腹立たしさ、そういった場面が不思議とない。そこで得られる平静さ、穏やかさとは、自分を包み込む光や風、あるいは土がもたらすものであるらしい。
面白い人生相談を目にした。夫婦ふたりとも後期高齢者というから僕とほぼ同年齢だ。相談を寄せた夫はまだ今も少しばかり仕事をしているという。その夫は「妻が嘆くのがふびんでなりません」と前置きし、こんな相談を口にする。
「お父さんね、私たち、働けなくなったらあの世に行くしかないね。国も誰も助けてくれないしね。頼るのも嫌だしね。日々の生活だけに追われて、人の役にも立たなくてさ、生きている意味はあるんでしょうかね。本を買うお金は石油代になるし、外食でおいしいものでも食べたくても光熱費に消えていくしね」。こんなことを妻はつぶやいてばかりです。働けるうちはいいと思いますが、この先、思いつめてどうにかなったらと気が気ではありません。どんな言葉で元気づけたらいいのでしょうか。人の豊かさって心の持ちようだと思いますが、今が元気なことが幸福なんでしょうね・・・。
僕は相談者である夫の苦渋よりも、この夫婦の関係に明るさを感じた。いい夫婦だなあと思った。それは、妻の「お父さんね・・・」の言葉に表れている。たしかに妻は将来への不安を抱いてはいるが、あくまで夫と一緒、老齢の二人でともに今を生きている、悪くはない。僕はそんな印象を抱いたからだ。この相談に回答するのは作家・久田恵さん。彼女はこう答える。
あなたの言う通り、何が豊かさか、何に幸福を感じるか、それはその人の価値観次第です。本は図書館で。野菜は庭を耕し、料理は工夫。旅行は近場と知恵を絞る。そしてなにより、頼り合うお互いの愛情こそが幸福の源泉です。「僕がついているから絶対に大丈夫」と彼女にきっぱりと揺るがぬ言葉で伝えてあげてください。妻は一番、そのひと言が聞きたいのかもしれません。
僕自身の結婚生活をも振り返って思う。最もまずいのは、相手への忖度、遠慮、気まずさなどでもって、夫も妻も面と向かって言葉を発しなくなること。とりあえず生活のカタチだけは維持しているが、互いの感情は太くて長い筒状の棒の中をむなしく流れ去ってゆく。それだと、この人生相談の妻の言葉とは逆に、何をどう案じているのかが相手に伝わらず、ギクシャクした雰囲気だけがあたりを漂う・・・。そしてもうひとつ思う。「僕がついているから絶対に大丈夫・・・」オレも言葉に出してそう妻に言うべきだったな・・・と。
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