今回のテーマは老いること。そこにはどんな幸せがあるか。あるいは逆に、どんな不幸があるか。それを、肉体表面から滲んでくるもの、心の内から湧いてくるもの、そういったことで綴ってみようというわけである。今ふと思う。新聞における書籍広告で、老人になるのは喜ばしいこと、トシ取ることに憂いなんてありません、老年バンザイ・・・そう謳う本によく出合う。でも僕はそれがあまり好きではない。老年へのご機嫌取りみたいな感じがするからである。とかく気持ちが沈みがちになる老人にエールを贈るのはいい。でもやはり、バンザイと叫ぶのはどうなのか。僕自身、自分の体や頭を通して、30年前にはあったものがかなり失われている、それに気づいているからである。さりとて、老齢が進む、それが悪いことばかりではないこともよく知っている。例えば見栄を張ることがなくなった。外見を気にすることもなくなった。他人と張り合うこともしなくなった。若い頃にはこれらにかなりのエネルギーを費やしていたわけであるから、老年というのは省エネで生きられるありがたい時間なのだ。
健康でいたい、そのために何をすればいか、という課題はすべてストレスになり・・・健康を害しています。 横尾忠則
歳がいくと、眼は霞み、耳は遠くなり、すぐに息が切れる。ハンディキャップだらけだ。けれど健康を取り戻そうとするのは、そもそも老いる身体への反逆。そこで「ハンディこそ僕の自然体」と思うようにしたと美術家は言う。目的など掲げず、シンプルに「快食快便快眠」、そして絵を描くこと。『老いと創造 朦朧人生相談』から(折々のことばより、鷲田清一氏の解説)
横尾忠則氏のこの論に、賛同すること半分、自分はちょっと違うかな、そう思うこと半分。「快食快便快眠」は諸手を上げて賛成だ。この3つが揃うと人生の・・・3割くらいかな・・・間違いなく幸せになる、もちろんアナタだって。横尾氏はそこに「絵を描くこと」と付け加えるが、僕の場合だと「野菜を作ること」となる。一方で、耳が遠くなるは僕にも当てはまる。ふだん、テレビの音声が聞き取れなかったり、全く違う意味に聞こえていたりすることがある。他に自分の老化を意識するのは、探し物をするのが多くなったこと。ついさっきまで手にしていたものが見つからない・・・。さらに、これはたぶん職業病だと思うが、背中の曲がりが僕は顕著だ。もうひとつあった。頻尿。特に冬。夏は体内水分のほとんどが汗になって出る。しかし冬は低温環境のせいもあって、畑仕事の合間、頻繁に尿意を催す。しかも突然、激しくやってくる。不運なことに冬は厚着をしている。それと、あせる気持ちが重なり「そいつ」を引っ張り出すのに手間取る。地団太踏みつつ漏れるのを回避しようとするが間に合わないことも多い。テレビCMで見る男用の尿漏れパッド・・・会社員だとズボンにシミが着いたままだとまずいだろうが、見ているのはカラスだけという百姓はシミったれのままでもかまやしない。ああそれなのに、あれだけ逼迫感があったくせして、放射の勢いは弱く、飛距離は若い頃の半分にも満たない・・・これぞまさしく老年だ。ただし幸い、まだ息が切れるということはない。横尾氏は、健康志向は「老いる身体への反逆」とおっしゃるが、肉体労働者である僕は体が動かなくなったらすべておしまい。でもって、老化のスピードを少しでもスローダウンさせたい、そんな思いから、ランニングをやり、腹筋をやり、腹筋台の上で鼻から吸って口から吐く深呼吸を何十回か、夜空を仰ぎつつ、瞑想しながら毎夕やっている。それゆえに、ハードな畑仕事でも息が切れるということはないのだろう。
いきなり老いる話などと言われても、オイ、オイ、いくらなんでも早いぜ、早いわヨ・・・若い人たちはそう言うだろう。乾燥防止のオイルをせっせと肌に塗り込み、ムダ毛の処理に情熱を傾けている20代、30代の人にとってはまるでピンと来ない話だろう。いや、20代、30代のみならず、40代、50代だってたぶん同じではないか。あと何日かで満77歳となる僕が語ろうとしている老齢、それは50代後半の人でさえ遠い20年も先のことだ。しかし、30代、40代の人が会社を定年となり、70代となる日、それは思っているよりずっと早くやってくるよ。オレは、ワタシは、ああ77年も生きたのか・・・その時になってきっと驚くはず。振り返れば40代後半からの我が30年は、カメラの早回しみたいに過ぎた気がするのだ。
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