4月1日「もしも宇宙人がいまの地球を見たら」。
もしかしたら夜半に弱い雨が・・・昨日そんな予報を聴いて眠りについたが、明け方まで弱いどころかかなりの雨量であったようだ。そして、昨日の南風が北寄りの風に今朝は変わっていて、ややひんやりした朝の空気である。そしてふと気が付けばもう4月である。テレビの番組は改編され、いつも見るニュースの担当アナウンサーが変わる。その他、あれこれ、新年度のスタートに関わる話題が新聞にもテレビにもあふれている。しかしどれも僕には遠い話かな・・・唯一の関係は年金額か。4月給付から何パーセントか増額される。ただし、物価上昇率を下回るので実質的には減額ということらしい。世間からは大幅な賃上げ、かなりの初任給アップ。景気の良い話もけっこう伝わってくるが、百姓仕事には芳しい余波はない。されど動じず、まあいいじゃないかこの暮らしで・・・淡々とふだん通りの仕事をこなす。これぞ強さであり、優しさであるか。
ビニールハウスでの仕事に励む。管理は今の時期が最も難しい。一昨日と昨日みたいに一気に気温が上がると急ぎ換気を必要とする。かと思えば、夜はまだ10度そこそこゆえに昼間開いた換気口を忘れず閉じてやらねばならない。3日前に植えたピーマンとナスとトマト。その活着状態を確認しつつ、小さな草を取り、軽く土寄せをしてやる。5月半ばくらいには初物を収穫したいと思っている。
それにしても天気は安定しない。明け方までの雨が止み、空が明るくなってきて喜んだのは10時半頃だったか。しかし荷造り途中の3時半頃、いきなり雷鳴が聞こえ、雨が降って来た。
もしも宇宙人がいまの地球を見たら、人類とは何とも不思議な生き物だと思うに違いない。捨てるほどの食料があっても、飢餓に苦しむ人がいる。互いに争い、傷つけあう。さらに言えば、遠くを見る目があるのに、下を向いて歩き、ぶつかりあっている。目の前の人をよけるより、大事なことってなんですか?
昨日の天声人語の書き出し部分である。ハテ、今日のテーマは何だろうか。僕は先へ読み進む。しばらくして歩きスマホの事だとわかる。歩きスマホによる事故は絶えず、救急搬送された年代別では50代がトップ・・・というのが、てっきり若者かと思っていた僕には意外なことだった。天声人語の筆者はこう続ける。
そもそも不器用な筆者は、歩きスマホをしようにもできない。文字を打ちながらスイスイと歩く人には脱帽である。どこかに別な目があるのか。はてさて人類は新たな進化をとげたのか。そんな冗談も言いたくなる。一刻を争って見なければならない画面などめったにあるまい。なぜスマホを見続けるのか。おそらくそこには、歴々の哲学者たちを悩ませてきた「退屈」という問題があるのだろう・・・。
今やスマホはあって当然、みんな持っている・・・そう考えられていることを僕はささいな現場から実感する。例えばふだん出入りしているホームセンターでキャンペーンが始まる。それに応募しようとすると、住所や名前の次に携帯番号の打ち込みが要求される。携帯電話がない者には参加資格がない。あるいはアマゾンで買った品を返品したいという場面。画面のQRコードをスマホで撮って、クロネコの営業所にある機械にかざせば返品の送付伝票がすぐさま出て来る・・・スマホがない僕にはこうした場面ではいずれもアウトなのである。今から6年くらい前、10年ぶりくらいに電車に乗って東京に行ったことがある。その車内で見た風景。座席の乗客たちは一人残らずと言っていいくらい、背中を丸め、頭を下げてスマホを見つめていた。僕が知っている昔の東京での電車には、新聞を読む人、眠る人、本を読む人が必ずいた。6年前の車内にはそんな人間は1人もいなかった。驚きだった。
天声人語が言うように、人はみな「退屈」しているのだろうか。スマホという機械はその退屈を解消してくれる重宝な品なのか。ちょっとカッコつけて言う。我が辞書には「退屈」という言葉がない。そう、田舎暮らしを始めて45年。僕は一度も退屈したことがない、退屈するヒマがない。例えば今日1日、畑での大中小の作業項目は合計で20くらいあり、腹筋やって、風呂に入って、晩酌して、ブログ書いて、こうして今は田舎暮らしの本の原稿を書いている。時計は10時半を回っている。畑というカラに閉じこもった、平凡極まりない暮らしでありながら、不思議なほどに退屈しないのである。ひょっとすると、退屈せずに生きてゆけるというのは田舎暮らしという土台があり、それにのっかって生きる男の「役得」もしくは「定め」だと思ってもいいのか・・・。スマホのない僕は、仕事上のやり取り、友人・知人とのやり取りはパソコンでする。朝のランニングを済ませた後に1回、夕刻、畑から上がって来た時に1回、パソコンを開き、返事を要するメールにはそこで返信する。スマホの必要性を感じたことはない。
「すき焼きにしよう」「じゃ、春菊持っていく」「正解!」。こんなやり取りに危機感を覚えると言語学者の金田一秀穂さん。
決まった答えがあり、迎合することに慣れてしまっているから「正解」が乱用される。交わされているのは会話ではないと。
今日の夕刊「素粒子」からの引用である。若者たちの言葉が簡略化、パターン化されているというのはよく聴くことだ。今の僕は生の声を聴く機会がないのだけれど、テレビを見ていて若者たちの言葉が貧弱だなあと感じることはよくある。うちにも男の声、女の声でセールスの電話がけっこう掛かってくる。その際の言葉の用法が「借り物」、あるいは機械が発している作り物の音声という気が僕はする。丸きり味気なしの「慇懃無礼」なのだ。僕が受話器を取る。相手はこう言う(たぶんそれを丁寧語だと信じている)。「こちらは中村顕治さまのお宅でよろしかったでしょうか・・・」。我が語感では、これってとても変なイントロである。昔はこうじゃなかったと言うと、またまた年寄りの繰り言となってしまうが、初めて電話で接する場合、我々が上司や先輩から教わったのは、まず自分の身分を明確に名乗る。相手の名前を確認し、簡略にストレートに用件を述べる。○○さんのお宅でよろしかったでしょうか・・・このトンチンカンな挨拶言葉を発明したのはどこの誰なのであろう。すべてをスマホのせいにしてしまってはスマホが気を悪くするだろうし、時代の波に洗われないちゃんとした若者もいるはずだ。しかし、道行く人、電車に揺られる人、こぞってスマホの画面に見入るという風景はやはり異様である。人生の退屈、その解消を小さな機械にゆだねる。それは生き物としての「弱さ」である、もしかしたらスマホは人類を進歩どころか退化させる・・・僕にはそうとさえ思える。
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