中村顕治
最後に、一点豪華主義は「嫌い」という我が性格の話に戻す。うちには30種、本数で100以上の果樹がある。梅、アンズ、柿、栗、桃、梨、プラム、ブルーベリー、ポポー、ジューンベリー、イチジク、アケビ、フェイジョア、サクランボ、ビワ、ザクロ、リンゴ、ユズ、キンカン、サルナシ、キウイ、ヤマモモ、夏ミカン、温州ミカン……ただし、始めに断っておくと、果物は野菜と違い消毒しないと収穫皆無というものがある。また、数を植えすぎた結果、野菜畑の日当たりが悪くなったというマイナス面もある。だが、畑の周囲に落葉樹がいっぱいあるというのはミミズの話でもわかるように、土を肥沃にする条件であり、ひいては連作障害をも防ぐ。
30年前、果物作りの夢がどうにも止まらなかった。昼間の仕事を終え、寝床でタキイ、サカタ、大和農園などの月刊パンフレットを開く。なんでもパソコンで注文という今とは違い、パンフレットに挟まれている振替用紙にペンで書き込み郵便局に向かうのだ。郵便局へ自転車を走らせる時の胸はルンルンと高鳴り、幸せの絶頂にあった。注文本数を増やすと割引になる。その事情もあって毎回十数本の苗木を注文した。そして到着を待つ。そろそろ来るかな、きっと来るな……若い頃の、女の子とデイトするあの気分だ。畑で耳を澄ます。大型トラックのエンジン音が聞こえたような気がする。作業の手を止め、もう一度耳を澄ます。あっ、間違いない、トラックはあの角を曲がった。鍬を置いて出入り口に急ぐ。ドライバーが縦長の大きな段ボール箱を荷台から下す。それを受け取る瞬間の陶酔感。当時の僕はきっと〇〇依存症だったかも。
へへっ、俺はちょっとやりすぎたかなあ……そう気づくまでに10年、20年という歳月を要した。第2回の冒頭の写真でわかるだろう。買った当初は保育園児ほどだった苗木がビル3階ほどの高さになるのだ。死んだ母親が、家庭訪問で小学校の先生によく言われていた。「中村クンは几帳面さと計画性がないですネ。もうちょっと落ち着いてやれば勉強もできるようになる子なんですが……」。
なんとも気恥ずかしそうな母親の顔を思い出しつつ、僕は今、巨大な果樹の下でそんな自分の性格のダメさ加減を思い知るわけだ。でも、しかし……あれは間違いなく僕の夢とロマンだった。会社を辞めて百姓になってまだ日の浅い時期。生活の不安だっていっぱいあった自分。それを引っ張り、先行き不透明という暗さなんか吹き払い、将来への希望、明日もまた元気で働こうというモチベーションを与えてくれた、それが紛れもなく、「あの角を曲がって」届けられた苗木たちだったのだ。
「自給自足」……それは遥かなる旅路である。失敗を重ねながら、苦しみを伴いながら、でも心は不思議と明るく晴れやかとなる生活のかたち、それが自給自足である……。今回は食料の話でかくも多くを費やした。電気と住居の自給については次回としたい。
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1947年山口県祝島(上関町)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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