中村顕治
今回は「住まいの自給」の話である。言葉としてちょっと違和感もあるが、要するに、プロの手を借りず、素人が、自前でもって住宅を手直ししたり、増築したりすることと考えていただければよい。
本題に入る前、ぜひとも書いておきたいことがひとつ。積水ハウスのテレビCM、その魅惑についてである。あのCM、なんと静かで、美しく、甘い音楽であり、ストーリーであることか。僕はあれがテレビ画面に現れるとウットリする。若い時代の恋心みたいに。と同時に、胸の内で外野に向かってちょっとしたヤジをも飛ばす。あんたたちも、もうちょっと味のあるCMを作って見せてちょうだいよ……。いまどきの若いもんは……世間で言われる老人のこれは愚痴めいたものにも聞こえようが、近頃のCMはどうしてあぁも騒がしく、大げさなのか。例えばビール。仕事アガリに必ず一杯という僕はビール大好き男であって、ビールそのものにまるで不満はないのだが、そのCM は気に入らない。「ああっ、うまいっ!」「こんなビール、飲んだことがない!」……そのオーバーアクションが、むしろビールの味をチョッピリ落とす。そんな大げさな呼びかけなんかせず、しっとり、穏やか、ゆるやかな気分でビールを楽しむ。今日という日を振り返り、明日もまた頑張るぞ、そんな気分になるようなCMを流してくれれば、オレ、今すぐスーパーに走ってもうワンカートン買う気にだってなるのに……。
積水ハウスのCMは時間にするとどれほどか。秒単位という短い時間の中に人生が巧妙に描き込まれている。そこに描かれる人生を、甘美で静謐なものにしているのが背後に流れる音楽でもある。そして、CMの最後、二階の部屋に灯された暖色の明かりがつぶやく……。いかがです、人生、なかなか捨てたものじゃないですよね。よろしければ積水ハウスがお手伝いしますよ、さらなるアナタの幸せのために……。テレビの前にいる僕はそう呼びかけられたような気分になり、ウットリするわけだ。
しかし、テレビ画面をウットリ眺めていたこの老人の心はすぐさま現実に引き戻されてしまう。我が現実の暮らしは積水ハウスからは遥か遠いのである。甘く、静かで、美しいあのCMは、いっときの夢と憧れなのである。例えて言えば、現実生活では不遇、彼女も彼氏もいない若い男や女が、甘く切ない恋愛小説に胸ときめかせ、ふと気づけば、自身を小説の主人公に重ね、熱い想い、いっときの幸せ、満たされた気分になっている……が、ひとたびパタンと本を閉じれば、なかなか思い通りにいかない人生のもどかしさがすぐ傍らで冷ややかにある……それにどうやら似ているのである。
今ここに、そんな甘い恋の夢から覚めた現実生活の一場面がある。雨漏り防止のためのシートを張っているところだ。シートはこれで通算何枚目となるのか……この屋根が最初に受けた大きな被害は1987年の千葉県東方沖地震だった。震度6弱。どこの家も屋根瓦はズタズタにされ、地域はブルーシートの青一色となった。そして、次々と修理業者がやってきた。僕に提示された金額で最高値は200万。通帳にそのくらいのカネはあることはあった。だが、これこそが「凝縮された我が自助精神」なのかと思うのだが、屋根ごときに200万なんてもったいない。自分でやれるさ……。
その地震以後も、いくたびかの台風や地震で家の傷みはどんどん進んだ。最近では風速54mという一昨年の台風で天井板が漏水で膨らむほどの水たまりができた。しかし僕の心はへこまない。瓦の隙間にコンクリートを詰め込み、新たなシートを掛ける。何十という土嚢を運び上げて抑える。土嚢の土は畑から運ぶ。だから袋の中から草が生える。ごらんのような有様だ。ご近所さんの目にはこれがどう映っているのかな。どこのお宅も定期的に外壁塗装をし、メンテナンスを欠かさない。いつも明るい笑顔で忙しそうに、楽しそうに働いているナカムラさんだが、本当は生活がかなり苦しいんじゃないかしら、着る物だってボロボロだし……そう思っている可能性は高い。まあ、ふところ事情が豊かでないのは確か。しかしちょっと違うかも。僕はすべてを自分でやってしまいたい。緊張感あふれる(うっかりすると土嚢を抱いたまま屋根から滑り落ちる)ような、体力的にも無理を強いられる家の補修作業を、どこかで楽しんでいる。人生は自分の頭と手足で切り開くものさ、ガッチリ守りもするものさ……ちょっとキザなセリフを胸の内でつぶやいているみたいなのだ。
我が住まい遍歴を簡単に述べておく。東京に出てきて10年近くはアパート暮らしだった。結婚前、妻となる人と僕は1年余り同棲していた。そろそろ正式に一緒になろうか。公団住宅に応募した。当時の公団は倍率がものすごく、ハズレ続きの人は当選確率が高くなる……回数稼ぎのつもりで応募したら一発で当たった。ああ、これなら当たるはずだよなあ。下見のために出発した東京・杉並からは遥かなる旅路だった。常磐線我孫子(あびこ)駅から先は単線で次の電車まで30分ある。彼女とともにホームの立ち食いソバを食べて時間をつぶした。
だが、積水ハウスほどではないが、その3Kの公団は若い僕には胸おどる夢のマイホームだった。明るいベランダがある。電話もある。風呂もあるぜ。すごい!! それはそうだ。昨日までの暮らしは「神田川」そのものだったのだから。急な用事があれば駅近くの赤電話に走り、銭湯からの帰り道では洗面器の中で石鹸箱がカタカタと鳴っていた。しかし今、自分の住まいの中に風呂と電話があるのだ……間違いなく人生の革命だった。
我が人生でただ一度のコンクリートの建物。その公団住宅には7年余り暮らした。公団時代にも僕はすでに借りた畑で野菜を作っていた。また「畑を売ってください」という何百枚かのチラシを印刷し、新聞に折り込んでもらったりもした。当時の僕は、素人は農地を買えない。買えたとしても譲渡は仮登記ということをまだ知らなかったのだ。
そして最初の田舎暮らしが始まる。茨城県の取手市(とりでし)。目の前が利根川(とねがわ)。うちの子供たちは定員13人の渡し船で川向うにある小学校に通った。建物は今風に言えば6DKの平屋。その築50年がすさまじかった。移り住んで3年目くらいだったか、正月3日、もらった年賀状に返事を書いていた。暖房は掘り炬燵だけ。寒さで思うようにペンが動かず、時々ハッーと手に息を吹きかけながら書いた。無理もない。利根川からの寒風が吹きこむ北側の壁は半分崩れ落ちていたのだ。でも日々の暮らしは厳しいけれど心は満ちていた。シェパードとセントバーナードの合いの子という大型犬、さらに猫、アヒル、チャボ、ヤギを飼い、野菜を作った。東京への出勤前には犬とヤギと一緒に川の土手を走った。駅まで4kmの道は18段変速のバイクを飛ばした。
その築50年の家には6年余り暮らした。「ひとたび燃えると炎上するまでやる悪いクセ」、そんな言葉を僕は前回の太陽光発電の稿で使ったが、田舎暮らしにおいても同様だった。今なら、この『田舎暮らしの本』を始めとして物件情報は豊富に得られるが、40年近い昔のあの頃は新聞の3行広告だけが頼りだった。その広告を見てあちこち出向いた。海の見える高台の洒落た家……そういうものには幾つか出合えたが、僕の心はなかなか動かなかった。家や眺望よりも広い土地が欲しかったのだ。だがついに見つけた。日本経済新聞での5行広告。畑と山林と宅地のセット。これに21坪の平屋。僕はすぐさま100万円の手付金を打つ。そして利根川の家を売りに出す。ところがなかなか買い手が付かない。このままでは手付金が消えるだけではなく、自分の理想ピッタリの物件を見捨ててしまうことになる。緊張感あふれる数か月であった。思う。人生とは、自分の努力と能力だけではまだ足りない部分がある。もうひとつのファクター、それが「運」だと。今振り返ると我が人生における数少ない運があの時だった。利根川の家はタイムリミットいっぱいのところで買い手がついた。しかも買った時の倍以上の値段で売れた。すぐ近くに女子大学のキャンパスが出来る、そのことが地域の地価を上げたのだ。
趣味らしき趣味のない無粋な男である。ゴルフやカラオケをやるでなし、洒落たカフェや飲み屋に行くでなし。ひたすら畑に精を出す。外に出るのは片道3kmのクロネコ営業所に荷物を出しに行く時だけ。丸1日、誰とも言葉を交わさない日もけっこうある。そんな僕が、畑仕事を少し休み、ちょっと気分転換をしたくなることがある。何をしての気分転換か。決まって大工仕事なのである。前回、雑誌『子供の科学』との関連で書いたが、たしかに小さい頃からモノを作ることが楽しかった。しかし当時はせいぜい50cm四方の箱状の物を作るくらい。それから60年以上の歳月が過ぎた今の僕は二階建ての部屋だって作ってしまう。そして実感するのだ。心を解き放つ手段は人それぞれ違うだろうが、僕の場合、高く、広く、どこまでも精神を解放してくれるのは大工仕事なのだと。
だいぶ気張った物言いをしてしまったが、急ぎ白状しておく。人間、飛ぶ前に考えるか。飛びながら考えるか。アナタはどちらか? 僕は間違いなく飛んでから考えるタイプである。大工仕事をしたいなあと思った時には、すでにハンマーとノコギリを手にしている。計画性なし。緻密な計算力もなし。良くも悪くも、思い立ったらすぐ行動に移す性格。設計図もなしに取り掛かる。加えて、僕は電動工具をひとつも持っていない。ハンマーとノコギリとバールだけでやる。使う材料も半分は廃材や竹林から切り出した孟宗竹だ。だから、どう自己弁護しようとも、設計図を描き、電動具を使い、丁寧な作業をする人が見ればとんでもない仕上がりになる。4mの柱を立てる時なんか相当な危険が伴った。それでも、これまで10年間で作ったのは、物置小屋、作業小屋が4つ、自分で勝手にそう呼んでいる「茶室」「屋上庭園」「喫茶たぬきん」がひとつずつ。それだけじゃない、地震・台風でガタガタになった母屋の強度をなんとか維持するため、部屋の内部や廊下すべてにコンパネなどの木材を打ち付けた。かなりブカブカになった床は、畳をすべてはがして畑の肥やしとし、六畳3つ、四畳半1つ、すべてをフローリングに替えた。部屋の体積はだいぶ縮んだが、耐震性は増したと自分では思っている。
この写真が自称「屋上庭園」である。イチゴの苗があり、ミニバラの鉢植えがある。手を伸ばせば届く所にキウイや金木犀の木がある。晴れた朝はここで朝食する。静かな音楽を流す。若い時代から映画が大好きだった僕は、「太陽がいっぱい」「ドクトル・ジバゴ」「シンドラーのリスト」などのテーマ曲を聴きながら珈琲を飲み、新聞を読む。高床になっているのだが、うちの畑は南斜面ゆえ、実際の高さよりもずっと高く感じる。春は5月の新緑の頃、秋なら蜜柑が色づき、金木犀が香る頃。風に揺れる木々の葉と空を漂う映画音楽の調べが重なり合う風景は、手前味噌ではあるけれど、けっこういいじゃないのさ、苦労して作った甲斐があるじゃないのさ……そう思う。
僕は大工仕事のみならず電気工事もやるし、下水管の工事もやる。8月の終わり、畑に埋めてある下水管をいったん掘り上げた。周辺に生えた竹や雑草を一気に退治するためだった。僕の畑は中央部分が小さな谷になっている。前の家主は排水をその谷に流していた。このままじゃいかんなあ。下水溝のある公道まで太い管をどうにかツギハギし、50mの距離に埋設したのだった。なかなかの難工事だったけれど、これまた自助精神、かつ、楽しい気分転換になった。
人間は頭と体で生きている。そのどちらに大きく傾いても人生は芳しくない……大げさではあるが、これが我が「哲学」である。田舎暮らし、あるいは百姓稼業を始めてみるとすぐわかる。生きているものすべてがどれほど台風、地震、大雨、寒冷、酷暑……自然エネルギーの影響を受けているかが。豊かな光を浴びて野菜は育ち、ソーラーパネルは電気を作る。そうした嬉しい利益がある一方で、残酷とも言うべき害を自然はもたらす。それで生じた被害を回復するのに、カネさえ出せばそれぞれのプロが手を貸してくれるのが世の中の仕組みだ。しかし、不幸中の幸いとでも言うか、プロの手に委ねるだけの潤沢な資金が僕にはない。そして、多くの人ならたぶん、危ないとか面倒だとか汚いとかの理由で自らの手では行わない作業を楽しみながらやろうとする精神もある。結果として、それが頭と体のほどよい平衡を保つことに貢献した。
脱サラ以後35年の道のりは平坦ではなかった。窮地に追い込まれる場面も何度かあった。しかし、ウツにはならずにすんだ。二度の怪我以外、病院に行くこともないまま、ほどなく僕は後期高齢者になろうとしている。なんとしても百姓として生きていかねばならない。もう後戻りはできない。やるべきことが限りなくあった。ウツになるヒマなぞなかったらしいのだ。そのハードな畑仕事からいったん身と心を解き放ってくれるのが大工仕事だった。これが我が人生にうまく作用した。さらに加えて、まあ、たいていのことは何とかなるものさという楽観主義(もしくは粗雑さ)が僕の根本にはある。全力は尽くす。それで期待通りにいかずとも、深くは悩まない。悩みはもちろんあるのだが、その悩みという名のアンコを「楽しみ」という皮で包み込み、パクッと食ってしまう……。
次々とあれこれを作り、せっかくの苦心作もあえなく台風で倒壊する。それにも懲りずに僕はまた次作にとりかかる……そうした中で、この写真の屋上庭園は難易度においては星5つだったかもしれない。以前の家主がトラクターなどを収める場所としてあった小屋。それが台風でペシャンコになった。柱用の材木をそこから引きずり出すのも難儀だったが、担いで、立てて、横柱と嚙み合わせる作業はもっと難儀だった。その屋上庭園に、いま夜の明かりが灯っている。とてもアップには堪えない仕上がりだが、夏には午後7時半まで畑仕事をする僕の目に、これは希望と安らぎの明かりなのである。もちろん電源は太陽光発電だ。
9月上旬の野菜だより
今は白菜、レタス、カリフラワー、ブロッコリーなどの苗を植える時期である。この写真の苗は8月10日頃にまいたものだが、だいぶ虫に食われている。しかし畑に移せばじきに回復する。白菜以外はあまり気にせず植えていいが、白菜だけは次の写真のようにカマボコ型の畝(うね)を作ってやろう。水に浸かるのを嫌がるからだ。9月は秋雨と台風シーズン。大量の雨が降ってもその雨が逃げていくようにする。それがカマボコ型の畝なのだ。
レタスはこの写真のように無造作にまいた。けっこうたくましく、混み合いながらしっかり成長していく。キャベツ、ブロッコリー、カリフラワー、白菜などのアブラナ科は、くっつきあうと成長が鈍くなり、虫もつくが、キク科であるレタスは虫害にも強い。この混雑しながら数センチにまで育った苗は、面倒でなければいったんポットに1本立てにして、大きく育ててから畑に移す方法と、このサイズのままで畑に植える方法、どちらでもよい。
苗ものを植えると同時に、今すぐ種まきもやろうか。白菜、ブロッコリー、カリフラワー、レタスはこれからまいても大丈夫。これからまいた種は10月初めないし半ばくらいの定植となるはずだが、ビニールトンネルを仕立ててやれば正月頃には食べられる。トンネルのビニールは、設置当初は半分掛けとする。全部を覆うと10月はまだ高温になりすぎる。11月に入るころ、当日の気温や光の具合でビニールの開放度を調節してやればよい。
大根の種、そしてキャベツの種もまく時期だ。大根は一か所5粒くらいをまいて、最後1本とするというのが定説だが、僕は無造作にザザッとまく(新型コロナのソーシャルディスタンスとは逆に、かなり密に)。そして、最初の頃、本葉が出る前の間引きはサラダで食べて、葉っぱが広がり始めた頃にはおひたしとか、おつゆの具として食べる。10月に入ってからでは普通の大根の種まきは遅すぎる。しかし「時無し大根」がある。普通の大根に比べて品質は劣るが、葉っぱはうんと美味しい。普通の大根よりも軟らかく、緑の色が濃い。シャキシャキ感もある。だから僕は、半分は葉っぱを食べる目的で時無し大根を毎年作る。
キャベツは、9月にまくか、10月にまくかで大きな差が生じる。9月まきは年末から年明けの収穫が見込めるが、10月まきの収穫はいきなり春キャベツになる。つまり、4月以降でないと食べられない。ただし、ビニールトンネルを掛けてやれば3月収穫に早めることはできる。
以上、いずれの作物も、晴れた日には畝間を鍬でさらい、草を取りながら軽く土寄せしてやろう。そうすることで成長が促進する。特にブロッコリーは青虫の好物だ。色が似ているので遠目にはわかりにくい。土寄せ作業の時、うんと目を近づけてチェックすること。
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1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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