今日、稲垣栄洋著『生き物が老いるということ 死と長寿の進化論』を読了した。5月に読んだ同じ著者の『生き物の死にざま』とともに、生き物好きの僕にはとても面白い本であった。生きものはすべて死ぬようにブログラミンクされている。でもジャガイモは死なない。著者はそう言う。ジャガイモは種子ではなく、芋から芋へと命が伝えられるのだから。遺伝的にはどこまでも全く同じものであると。・・・・。この本で初めて知ったのは、地球上で閉経する生物は、人間とシャチとゴンドウクジラだけだということだった。シャチのメスは40歳くらいになると閉経して子どもを産まなくなる。しかし90歳くらいまでは生き続ける。一方のオスは50歳くらいで死ぬ。「役割」があるからこそ長生きを与えられているのだと著者は言う。危険がいっぱいある海では、おばあちゃんシャチの豊富な経験と知恵が群れを正しく導いていく。母親世代のシャチに子育ての知識を与え、家族の世話をする。
生き物の戦略はシンプルである。弱肉強食、適者生存というキビシイ世界で、勝者は生き残り、敗者は滅びていく。そんな自然界で生き抜くには、それぞれの生き物が長い歴史の中、「得意な場所で、得意を生かして」生きてきたのだという。これを人間にあてはめるとどうなるか。稲垣氏は「好きなことをやる」ことが大事だろうと言う。なるほどと僕は思った。さまざまな点において生活はラクではないが、僕はどうにかここまで生きてきた。ひょっとして、好きなことをやり続けてきたからだろうか。それが適者生存の理にかなっていたからだろうか。
しかし生きているものはいずれ死ぬ・・・そんな論の流れの中で著者は草野心平の『婆さん蛙ミミミの挨拶』という詩を引く。
地球さま。
永いことお世話さまでした。
さようならで御座います。
ありがたう御座いました。
さやうならで御座います。
さやうなら。
午後9時、雨はまだ降り続いている。明日の夜は、さらに強い雨雲が関東に接近するので要注意とニュースは言っている。その今夜の雨音を聴きながら、稲垣栄洋氏は『生き物が老いるということ』で、草野心平の詩に続き、八木重吉の『雨』という詩も引いていることを思い出した。
雨の音がきこえる
雨が降っていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでいこう
この詩を引用した後、著者はこう書いていた。すべてのものは死ぬ。そして生と死によって、世界が作られている。その世界の何と美しいことだろう。この世は捨てたものではないのだ・・・と。
孤独には「良い」孤独と「悪い」孤独がある。それは、紙一重の違いである。僕は今回の最後にもう一度そう書いておこう。他者と自分を比較しない。妬まない、恨まない。そうすることで良い孤独を手にすることが出来る。いたずらに他者への視線を向けるのではなく、自分で自分に肥料を施す。汗を流す、空を仰ぐ。それで暗い気持ちが逃げてゆく。今日の夕刊にこのことと重なる言葉があった。金曜の朝日夕刊は映画に特化した紙面になっている。映画好きの僕は嬉しい、じっくり目を通す。「私の描くグッとムービー」。イラストレーター・平泉春奈さんの語りには「幸せって目の前にいっぱい」という見出しがついていた。『アバウト・タイム 愛おしい時間について』という映画を題材として語りながら、彼女はこんなエピソードを言葉にする。
私は当たり前の日常の中にあるたくさんの幸せというメッセージを込めて創作しています。SNSでファンとやりとりしていると、「私なんて・・・」と、人と比べてしまう人が多い気がします。そうじゃなくていい。あなたのことを好きだと言ってくれる人がいる、好きだと思える人がいる。そういう気持ちを知るだけでもすごく幸せなことです。この映画にも込められているように、目の前にある幸せに気づける人が、人生を豊かにできる人だと思います・・・。
僕の言う「良い」孤独とはまさしくこれである。小さいが、モノとしてはB級かもしれないが、幸せの材料は暮らしの中のあちこちにけっこう存在するものである。それを発見し、楽しめる人は心が穏やかなのである。群れて賑やかな暮らし中ではなかなか得られない平穏と充足、そして自省の心、灯りを消したベッドの中での明日という日への淡い期待と深い眠り。それが「良い」孤独というものである。
この記事のタグ
田舎暮らしの記事をシェアする