7月6日。ずっと続いていた酷暑はいったん影をひそめ、台風の影響で昨日からは時折の雨模様だ。今朝は6時45分に起床してランニングに向かった。空気がひんやり、久しぶりにセーターを着て走ったのだが風がとても心地よかった。ランニングから帰って、朝食前に畑をひとめぐりした。昨夜の雨で、ずっと白かった土が黒くなっている。野菜たちはみなホッと一息ついているようだった。久しぶりに朝食は屋上庭園でしようか。酷暑の頃にはとてもその気にならないが、今朝は部屋の中よりも屋上庭園の方が心地よさそうだ。野菜を刻み、パンを焼き、珈琲をいれる。パソコンの音量を上げ、お好みリストをクリックする。アヴェ・マリア、シンドラーのリスト、ひまわり、G線上のアリア、ショパンのノクターン・・・。恥ずかしながら、僕は、甘く、切なく、静かな音楽が好きなのである。テンポの速い、ビートのきいた音楽を受け入れるレセプターみたいなものが欠落しているのである。それにしても、いつ以来だろうか。あの酷暑の日々には、とても静かな音楽なんぞ聴く気にもならなかった。壁のない屋上庭園には午前8時の爽やかな風が僕の肩越しにゆるやかに吹き抜けていく。そこで朝刊を開く。珈琲をすする。パンをかじる・・・。僕がイメージする「孤独」とはどうやらこれである。まさしく孤独な男の孤食という朝の風景なのだ。でも、ちゃんと中身を伴っている。自分で作った時間と風景の中に淡くスッーと生きている、そう実感する。
新聞について少し書いておく。新聞の購読者はどんどん少なくなっているらしい。ニュースはスマホで知ることができるから・・・ということであるらしい。勿体ないなと僕は思う。新聞はニュースを伝えるだけのものではない。そこには詩がある、エッセイがある、科学的な読み物があり、新刊書の紹介欄がある。それに何より、新聞は朝を伝える。紙のページを指先で1枚ずつめくる、その動作とリズムが心の静けさを増し、思考を深め、孤独の味わいを深めてくれる。珈琲の香り、新聞をめくるかすかな紙の音。僕は間もなく地温45度の畑で働くのだが、その前の、交響曲で言うと、これは低くゆるやかなイントロの部分に当たる。僕はスマホを持っていないので確かなことは言えないが、電子画面を指でスクロールするよりも、紙の新聞をめくる方が孤独への味付けとしては優れている・・・そう思う。
7月7日。小さな雨が落ちてくる。かと思えば強烈な光が降り注ぐ。僕は頭頂部の毛がかなり薄くなっている。常に帽子をかぶらず仕事をするので、今日みたいな強烈な光の日は、その強さを頭のてっぺんで感知する。今ひたすらやっているのはポットにまいた大豆の定植作業だ。そんなところにヤマト便。もう10年にわたり連載している「移住」の夏号が出来上がり、編集部から30冊が送られてきた。今回のタイトルは「もうひとつのひきこもり」とした。旅行に行かず、電車に乗ることもなく、市内から出ることさえもなく、3日に一度の外出だってせいぜい軽トラで往復10キロ。それをもって我が暮らしを「ひきこもり」と称してみたのである。
何日か前の新聞によると、全国には115万人のひきこもりがいるらしい。驚くべきは、人口70万人の東京江戸川区が独自に調査した結果では、区内で76人に1人がひきこもり状態で、男女比は半々、年代は30代から50代が多く、10年以上のひきこもり状態が全体の26%近くもいるという。学校でのいじめ、職場での人間関係、そうなった理由は人それぞれに違いがあるのだろうが、言わば、この人たちも自らの意思でひきこもりという孤独の道を選び取ったと言えるだろう。僕も百姓になることで孤独の暮らしを選び取ったわけだが、家の中にはほとんどいない。庭に出る。そこで空を仰げば湧き上がる白い雲があり、光があり、風が吹く。畑仕事をすれば汗が流れる。そんな僕から見ると、部屋から出ることもなく、食事は母親が部屋の扉の前に置いてくれたものを母の足音が消えたのを確認してから手を伸ばして取り、食べる。外の世界と断絶しているかといえば、そうでもない。スマホやパソコンという通信手段がある。ゲームをするか、ネット情報を渡り歩くか。それでもって昼夜が逆転する毎日・・・そのように聞くと、同じ孤独の道を歩む僕にもちょっと辛い。青い空と白い雲を宅配便で送り届けてあげたいと思う。人間と接したくないというなら、それはそれで構わない。しかし自然の営み、季節の移り変わり、それとは接してみるのがよい。人間に必要なもの、孤独を味わい深いものにするために、春夏秋冬の光や風、そして蝶、ミツバチ、トンボ、それらはゆるやかに、しかし確実に肥効をもたらす有機(勇気)肥料なのだ。
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