7月8日。朝のうちは空気がひんやりして光も少なかった。ランニングをすませ、午前8時に朝食、室内は灯りなしではちょっと暗い。LEDライトを灯して珈琲を飲んだ。20年来の友人であるデボン・マクネアー。彼は日本の大学で教えていたが、老齢の母が気になること、息子をアメリカの高校に行かせることなどの理由でもって、しばらく何年間か帰国することになった。もって、家財道具をすべて処分するのだが、ケンジが使えそうな物を持って来たヨ・・・そう言いながら庭の台の上に並べたのは、小さな箪笥、電子レンジ、鍋、釜、皿の類、ロープ、ノコギリ、植木鉢。そんな品々の中にこのLEDライトもあった。ありがとう。しばし歓談。Be sure Come back。別れ際、僕は右手を差し出してそう言った。デボンも右手を差し出し、彼はそこにさらに左手を重ね、固く握手し、再会を約束して別れた。
朝食しながらテレビを見た。テレビ朝日は「オートファジー」をテーマとして専門家が解説していた。オートファジーとは細胞の若返り。細胞は自分で(オート)、自分を食べる(ファジー)、すなわち自食作用を持っている。人体には37兆個の細胞があるが、その細胞が老朽化することによって病気や老化が引き起こされる。そうはさせまいと、細胞は自身の自浄作用(回収、分解、リサイクル)でもって毎日少しずつ細胞の中身を入れ替えて老朽化を防ぎ、常に新品の状態を保とうと努力している。
この細胞機能をきちんと働かせるためにはいくつかの回避すべき人間の行動がある。僕はテレビを見ながらそこに大いに関心を抱いたのだが、好ましくない人間行動とは①睡眠時間が短く不規則、②寝る前によく食べる、③よく間食する、④揚げ物や脂っこいものが好き、⑤発酵食品が嫌い、➅運動不足なのだという。さて僕自身はどうなのか。少しばかり当てはまるかなと思うのは②と③だった。原稿仕事がある夜なんかは気分を乗せるために途中で珈琲を飲む。珈琲だけではさびしいので軽いスナックをつまむ。それと日中、畑で消耗したエネルギーを養うために、果物や菓子パンを口に入れる。ただ、②も③もそんなに度が過ぎたものではないと思うが。
テレビの話を長々と持ち出したのは、人体のオートファジーの機能が阻害されて誘発されるのは病気や老化だけでなく、「悪い」孤独感とも関係するのではあるまいか・・・僕はそう考えたゆえだ。今回、冒頭に、「孤独はネガティブにとらえるべきものではない」、そう書いたわけだが、同じ孤独でも、「悪い」孤独と、「良い」孤独があるというのが従来からの僕の考えだ。すなわち、自分の思い通りに生きられる、妥協や忖度をしないでいい、そうプラスの方向に視点を置いて暮らすのが「良い」孤独。対して、どうして自分はこんなにも寂しいのか、みんな楽しそうにしているのに、どうして自分ひとり、置いてきぼりにされているのか・・・そうひがむのが僕の考える「悪い」孤独である。
この悪い孤独状態をオートファジーの観点で見つめるとどうなるか。睡眠時間が短くて不規則、食べるものには無頓着、部屋に閉じこもることが多く、外で体を動かすという習慣が乏しく、運動不足。そして・・・これは僕の全くの推測なのだが、こういった人の場合、スマホとの接触時間は「良い」孤独感をもって暮らしている人よりもかなり長いのではないか・・・・。同じ孤独でも、「良い」と「悪い」の分岐点は、自分と他者との比較をし、そこから生まれる妬み、恨みの情を持って生きるか否かにあると僕は考える。自分は自分、他人は他人、サラッと自他を区分して生きるところに「良い」孤独は生まれる。
世の中に生じた事件、事故を含むさまざまな事柄の当事者に、SNSを通してバッシングするという例は継続的に生じている。例えば、池袋での車暴走で妻子を失った男性には「有名になりたいんだろう、カネが欲しいんだろう」との非難。あるいは女子プロレスラーを自殺にまで追い込んだ「死んでしまえ」との中傷。専門家の分析によると、匿名によるそうしたバッシングをする人は、現実の姿はごく普通の人間で、悪人ではないという。しかし共通項がある。彼(もしくは彼女)をそのような行動に突き動かすのは孤独感と正義感であるらしいのだ。僕の考える孤独とは、言うならば、自前の、DIYで作り上げた精神の箱の中に静かに納まって生きること。それに対して、たしかに箱らしきものには納まっているが、意識は常に外に向かい、少しいびつな「正義感」でもって箱の中から非難の声を見知らぬ人にぶつけようとする。我らの時代にも若さゆえの鬱屈はあった。しかしスマホみたいな「便利」な道具はなく、どうにか耐えて、ごまかして、自浄作用でやり過ごすしかなかった。その意味では、スマホとかSNSとかいうものは、ある意味、罪作りな道具だとは言えないか。瞬時にして世界とつながる素晴らしい道具なのだが、逆に「悪い」孤独感を増幅させてしまう玩具になっているようにも僕には感じられるのだ。
大きな植木鉢に植えてある百合が華やかに花を咲かせた。猛暑が続く中、畑の野菜にばかり気を取られていた僕は鉢植えの花に気が回らないことがよくあった。ハッと目にしたこの百合やミニバラやランは真っ白く乾燥した土の中で瀕死の状態だった。ああ、すまなかった。そう謝りつつ急ぎバケツの水で潤してやったことが何度もある。思えば、孤独にほどよい味付けをしてくれるのは花である。「良い」孤独に育て上げるのに必要な暮らしの中での肥料のひとつ、それが花と接する時間である。
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