7月12日。強い光はやや途切れた。これから1週間、大陸からの寒気で不安定な天気が続くらしい。ただし、蒸し暑さは今日も変わりがない。明日は雨模様との予報ゆえ、人参をまくことにする。冬越しの人参のまき時は8月になってからだが、今まいておけば秋半ばには収穫できる。レタスを作っていた場所に深くスコップを入れ、下の方から出てきたゴロゴロの土を両手でほぐす。人参のプロから見たらなんとも原始的な手法である。大々的に人参を作る農家はトラクターで耕し、まず燻煙剤を入れて土壌消毒をする。それから自動の播種機で種をまき、途中、二度くらい消毒作業をする。それでもって立派な、僕のものの倍くらいはある人参が出来上がる。
仕事を終えて、ストレッチしながら広げた夕刊。そこで「43年の野宿生活 生き抜いた少年」という大きな記事に感動するとともに、僕は少しシュンとした。群馬県桐生市の障碍者支援施設で働く加村一馬さん(75)は貧しい家庭に生まれ、風呂にはあまり入れず、学校では臭い、汚いといじめられたという。親からの虐待もひどく、もう耐えられないと、学生服のまま逃げ出した。そして家から40キロの洞窟をすみかとした。生き延びるために川の水を飲み、ネズミ、ヘビ、イノシシ、昆虫、なんでも食べたという。家から逃げ出した最初の夜は線路脇で野宿した。そこに、家でかわいがっていた愛犬シロが加村少年を追いかけてきた。そのシロとともに洞窟で暮らすこととなる。高熱にうなされ、もうろうとした時、そのシロが布切れを川の水に浸して看病してくれた・・・なんとすごい人かと感動するとともに、子供のころから犬好きの僕は、このシロとのエピソードではホロッとした。
7月13日。雨だ。なんと久しぶりか。昨夜の雨はかなりの量だった。埼玉あたりでは危険情報が出たと聞くが、当地は、ずっと乾いていた畑にほどよいくらいの降りであった。しかし、朝のランニングの時いったん雨は止んでいたのだが、仕事を始めて間もなく、再び勢いつけて降り出した。今までの借りを返す、そんな感じ。今日の気温は30度を下回っている。さて朝食。皿の中央にあるのは大豆モヤシである。寒い季節には商品にするため、自分で食べるために連日モヤシ製造機を稼働させていた。何か月ぶりかにモヤシを作ろうかという気になったのは、ポットに種をまくために倉庫から取り出したついで、モヤシも作ろうと考えたためだ。冬場は循環させるタンクの水は3日に一度の交換でいい。しかし暑い今は1日で水はあぶく状態になる。手間が増える。
幸せと気付く幸せ豆の飯 早川洋江
その大豆を口に運びながら思い出したのがこの豆の句である。昨日の読売新聞「四季」。句それ自体とともに、長谷川櫂氏の解説が僕のココロを打った。
「恋に恋だと気づくのが恋」という歌仙(連句)の恋の付け句があった。同じように幸せもまた気づくまでは姿が見えない。それまではその人のすぐそばの木のかげでまどろんでいるのだ。小さな子どものように。句集『石舞台』から。
「良い」孤独。「悪い」孤独。悪い孤独は何ゆえに悪いのか。それは、意識が、自分との比較、嫉妬、恨み、攻撃の対象として他人に向かうからである、同時に、自分への「肥やしの投入」という努力をしないからである、そう僕は考える。僕自身にも羨望、嫉妬の対象は存在するはずだ。収入の額。住む家の美しさと豪華さ。ビジネスにおける名声・・・。しかし、不思議と我がココロはそういうところに向かわない。鈍感と言っていいほどに。どうしてなのか。僕は自己肯定感(換言すればあきらめ、まっ、オレの能力はこんなものさというアッサリ感)、それがかなり強いらしいのだ。会社勤めでも、家庭生活でも、百姓になってからの自然災害を含めた数々の障害でも、絶体絶命という悲壮感には至らなかった。生じた障害から生まれたプラスの面にむしろ意識が向かった。例えば、3年前の台風で3×12メートル、かなりの手間とカネをかけて作った鶏舎が倒壊した。柱に打ち込まれた長い釘を辛抱強く外し、トタン屋根をどかし、土台のブロックを掘り出すだけでも何か月も要した。でも僕は考えたのだ。背の高い鶏舎があることによって周囲の果樹は光を遮られていた。これで果樹は喜んでいる。倒壊した鶏舎を始末することで畑の面積を広げることだって出来たし・・・。
サラリーマン生活の最後の数年、上司からのパワハラは、相手を殺す夢を見るほどまでに我が精神を蝕んでいた。でも、百姓になってからの僕は青く高い空を見上げながら思ったのだ。あのパワハラがなかったら、オレはこの「人生の楽園」にはたどり着けなかったかもなあ。神様はうまく導いてくれたものさ。マラソンもそうだ。会社勤めでの鬱屈から逃げるため、走ることにさらに没入した。オレの人生はこの先どうなるのか。その不安をごまかすため、現実の辛さから逃避するため(酒ではなく)、僕は走り続けたのだった。結果、フルマラソンを2時間台で走れるようになった。それだけでなく、走るという単純な行動が精神を健康に保つ素材だということにも気づいた。
他者と自分との比較、嫉妬、恨み、攻撃。そんな心模様にガッチリ縛られるようになったら、孤独はどうにもならない暗闇でしかない。前に、脱サラで農業を始めた人が7年で行き詰ったという話を書いた。その彼の日常は、嫉妬、恨み、攻撃に塗りつぶされている。政治家、地元の公務員、近隣の人々、さらには有名人、各分野での成功者、果ては田舎暮らしを始めた人にまで、手当たり次第に批判の論評をする。その一方で、自分の遠い祖先の偉大さまで持ち出す。IQ192の自分には数学の教師はバカに見えた。会社勤めの頃には東大や慶大を出た部下がいたが、みんな賢くはなかった、アホだった、そんなことを繰り返し言う。それを聞いて僕は思うのだ。ああ、この人は学歴のコンプレックスがあるのだな。有名人や金持ちに嫉妬しているのだな。自分でも処理しきれない焦燥感に包まれているのだな。わが身の孤絶が悲しいのだな。暮らしが行き詰まったのなら立て直しの努力をすればいいではないか。鬱屈を他人にぶつけたってどうにもならないじゃないか。これはまさしく「悪い」孤独のパターンである。
昨日から今日にかけての雨。それを待ってましたと蚊も喜んだのか。夕暮れの仕事は蚊の猛攻撃を受けながらであった。荷造りのあと雨は止んでいたので帽子をかぶらずに作業をしたのだが、薄くなった頭髪に狙いを定めたかのごとく、集中的に頭皮を刺されてしまった。でもやりたいと思っていた作業はほぼ完了した。熱い湯に浸かり、夕刊を広げた。そこに、ああ、これも「悪い」孤独がなさしめたことかもしれないなあと思える記事があった。48歳の男が、小田急ロマンスカーに9300件もの架空予約をした。ごていねいにも窓の大きい、景色の良い「展望席」を。どうしてそんなことをしたのか。職場におけるイライラがあった。過去にロマンスカーに乗った時、車掌や乗務員の対応に腹を立てたことがあった・・・。48歳にもなった男のやることかい・・・そう思う一方、僕はひとつの風景を想像する。自室にこもり、スマホかパソコンかで、来る日も来る日もロマンスカーの予約を入れる。男の横顔は陰湿な達成感に満ち、心なし紅潮している・・・。僕は今夜の新聞で初めて知ったのだが、男は「乗り鉄」なのだという。「撮り鉄」は知っていたが、乗り鉄という言葉もあったのか。僕は男に言いたい。架空予約の喜びくらいでは未来に展望は開けないぞ。走れ。汗をかけ。青い空を仰げ。本を読め。小田急ロマンスカーに乗ったくらいで「乗り鉄」を自称するなんて、男としては小さすぎるんじゃあないかい・・・。
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