2月2日「ビニールハウスの中で避難生活をする人々の厳しさを実感する」。なんとキビシイ朝であることよ。昨日の、桜の季節から真冬に一転します・・・との天気予報で覚悟はしていたのだが、その覚悟をはるかに上回る今日の寒さである。光はゼロ。すべてを包み込んでジーンと滞留する灰色の空気の冷たさが全身を刺す。今日は野菜の防寒カバーは外さないほうがベターかな。朝の見回りをしつつ、ビニールハウスのそばに立って思い出したのは能登の被災地での避難生活だった。愛犬や愛猫と離れたくないなどの理由で行政指定の避難所を避けて暮らす人たちがいる。そのひとつの例が農業用のビニールハウスである。空間は広い。プライバシーも守られる。だが問題は寒さだ。今日みたいな光のない日は辛い。ましてや、雪が降り、当地とは比較にならないくらいに気温が低下する能登でのビニールハウス生活は高齢者にとっては生死に関わる。
東京の人口が2年続けて転入超過になったというニュースを耳にした。コロナ発生当時は転出超過であったらしいが、再び元の東京に戻りつつある。やはり東京はいい。何でもある、人間の要求を満たしてくれる便利で魅力的な都会だ・・・いったん東京に背を向けた僕ではあるが、素直にそう思う。そう思わせるのは、元日の地震発生以来、克明に伝えられる被災地の状況。倒壊した建物の悲惨な姿のみならず、そもそもの生活環境である。険しい山。深い木々の間を縫うようにして走る細く曲がりくねった道。東京には新しいホテルやタワーマンションが次々建設されていると聞く。ふたつを比較すると、これが同じニッポンなのか・・・僕にはそんな気さえする。総体的に日本の人口は減少する。まず不便で気象条件の厳しい地方から徐々に、確実に人の姿が消える。東京だけは、首都直下型地震のような巨大な天災が襲わない限り繁栄を維持するだろう。願うのは、その東京がひとり勝ちの喜びにひたるのではなく、「弱者」である地方に手を差し伸べること。かつて東京人であり、いま地方人である僕は、冷え冷えとしたビニールハウスを覗き込みつつ、そう思うのだ。
日本の人口はこれから減り続ける。はるか上空から見下ろす夜の日本列島はどんな風景であろうか。うんと明るい所、うんと暗い所。まさしく明暗である。冒頭に書いたように、ベビーブームの時代を生きた僕にはやがて現在の半分になるという人間の数には物寂しさが感じられる。人混みが好きではない、人と接する時間はセーブして、なるべく独りでいる時間を保ちたい。そう思う男のクセして、これは矛盾にも思われるが、頭の中に、にぎやかに畑を走り回っていたニワトリが、1羽減り、また1羽減りして、いつしかその姿をほとんど見なくなった、そんな風景が重なるからかもしれない。
人口が半減する。それは、かつて展開されていた人々の人生が半分消えてしまうことを意味する。母の体内にあった卵子と、父の体内にあった精子が出会うことなく、人間としての姿でこの世に生まれ出て来ることなく・・・すなわちそれは、ご破算なのではなく、初めからなかった白紙とされる。いや、自分なんか生まれてこない方がよかった、産んでくれと頼んだ覚えなんてない・・・親ガチャとか人生ガチャとかいう言葉があるらしいが、そうつぶやきながら生きている人もどこかにいよう。でも、たった1回限りの命、人生だ。美味しいものを食べる。映画を見る。音楽を聴く。旅をする。カラオケを熱唱する。オンラインでゲームする。裸で異性と抱き合う。命あり、この世にあるということは、そこそこ味わいのある、一度は体験しておいても損のない事実なのではあるまいか。不本意な事象に出会いつつも、それをはねのけ、どうにか生きて行く。そこに、ヤッタゼ!!という満足感が滲んでくる、これが生きるということではあるまいか・・・。現在ならば1億2千万ほどある命と人生が2100年には半減する。すなわち、もしかしたらアナタや私、僕の人生が、76年後にはまるで最初からなかった、白紙とされることにもなるのだ。驚きというよりも、なんだかとても寂しいこと、哀しいことと、やはり僕にはこう思えてしまう。
数日のうちには雪が降りそう。わたしは思い出す/去年のことを。暖炉のそばで あの悲しみのことを フランシス・ジャム
フランシス・ジャムは百年前のフランスの詩人。スペイン国境ピレネー山麓の村に住み、素朴で力強い詩を詠み続けた。いま暖炉の火の前で思いだしているのは、過ぎ去った日の「古い悲しみ」。(読売新聞「四季」長谷川櫂氏の解説)
どうにも寒い。激しく動いて体温を上げよう。ずっとほったらかしにしてあった幅5メートル、長さ20メートルの土地を耕す。ほったらかしにしてあったのは秋から冬には日が切れる時間が長く、うまく使えないからだ。しかし太陽の位置が高くなるこれからは有効活用できる。僅か半年ほっといただけの畑はすさまじい。ツル性雑草の太い根っこが張り巡らされている。そいつを爪の幅の広い鍬で力任せに殴打する。そこで思い出す。前に何度か引用させていたたいた朝日新聞の論説委員で、コメ作りや狩猟をやっておられる近藤康太郎さん。このたび耕さないコメ作りに挑戦したという。思い立ったらすぐに・・・それを近藤さんは「ノー・プラン・イズ・マイ・プラン」と茶化す。僕は、あっ、オレと同じだと笑う。しかし、苦労しているようである近藤さんも。「雑草も敵じゃない」はずが・・・耕さない農、楽勝? 余裕一転「地獄」・・・記事のそのタイトル・見出しが苦境をよく表している。
5時に仕事を終えた。いつものストレッチと腹筋をそそくさとやって、47度の風呂に飛び込んだ。熱い風呂は体に悪いとその道のドクターは言うが、寒さと疲労を抱えた我が体は並みの温度では回復しない。そして、風呂の湯に鼻の位置まで漬かりながら考えたのは、ペギー・オドネル・へフィントン著『それでも母親になるべきですか(原題WITHOUT CHILDREN:The long history of not being a mother)』(新潮社)のことだった。評者、歴史学者の岡美穂子さんは冒頭こう書く。
私が思春期の女子だった頃、「アグネス論争」なるものがあった。今では日本の文壇を代表する作家である林真理子氏と、香港出身の可愛らしくも自分の意見をはっきりと言う歌手アグネス・チャン氏との間に生じた、職場に子どもを連れてくる是非をめぐる、メディアを巻き込む激しい論争であった。当時未婚であった林氏は都会的で尖った女子の代表の雰囲気を漂わせていたが、子供心に、愛らしいアグネス・チャン氏が目に涙を溜めて訴える様にひどく同情した記憶がある・・・。
ああ、そういえばそんな「事件」があったなあ。そして、当時、僕はどちらに軍配を上げたのだったか。率直に言うと、あれは子どものいない林さんのやっかみゆえだと僕は感じた。上記の本の翻訳者・鹿田昌美さんはすでにオルナ・ドーナト著『母親になって後悔してる』をも翻訳しているらしい。そして岡美穂子さんはこう述べる・・・
「母性」は女性にとって自然に備わっているもので、子どもを産んだら育児の責任は女性が背負うべきだ、という暗黙の了解に疑義を唱えるという点で両書は共通している・・・最も印象的であったのは、近年アメリカでは「母親」は名詞ではなく、「母親をする」という動詞として考えられる傾向があるということだ。それによって「出産」という行為をともなわずとも、様々な形で育児に携わることが可能になる、という考え方は、私が知る限り、日本ではまだ周知されていない。少子高齢化社会での「子を持つこと」の意味を考えさせる一冊である。
母親が名詞ではなく、「する」が付いた動詞として考えられる傾向があるという言葉に僕はまず感心、驚く。そして・・・思う。もう以前から何度も耳目にしている「母性とは、女性に必ず存在するというものではない・・・」との意見には、たしかにそうだと同感する。例えばワーストは、産んだ我が子に何日も食べ物を与えない、熱湯をかけたりする・・・僕が考える母性というイメージからそんなことはとても信じられない行為だ。ひるがえって、うちの庭にいるチャボ・ニワトリはどうだろうか。どれにも豊かな母性がある。食べる物もトイレも我慢して21日間卵を抱き続けることは前に書いたが、野良猫がそばに寄って来ると羽を広げて猫に立ち向かう。それでも残念ながら猫に食われてしまうことがある。ヒヨコをくわえて走り去った猫の後を追い、鳴き声を発しながら、我が子がどこかにいないかと、母鳥はヤブの中を探し続ける・・・。
人間とチャボ・ニワトリとの違いはどこから発するのだろう。生きている社会の違いだろうか。その社会を構成するファクターの数の違いだろうか。チャボ・ニワトリが生きる社会は単純である。対して人間社会にはじかに関わるファクター、意識の向かうファクターが指折るのも難しいくらいある。そのことに加え、ここまで書いてきたように、人間は、その生活空間を定時的に離れて向かうべき仕事、職場というものがある。たぶんそれは、知らず知らずに野性というものを削り取り、せっかく産んだ我が子を自らの手で苦しめる、いやそれ以前、交尾、出産、育児というプロセスにさえも影響を与えてしまうのではないか。僕はそうとも思う。ただし誤解しないでほしい。チャボ・ニワトリを絶賛し、人間社会に批判的な目を向けるというが僕の本意ではないから。もし母性が女性一律のものではないとしても、社会参加をし、単に給料を得るだけでなく、他の人々の暮らしに貢献しているのであれば、子を持たない、独りで、あるいは夫やパートナーと二人でともに日々を楽しく、充実させながら生きたいという思いは尊重されるべきだ。
我がふるさと祝島には1000年以上の歴史がある。都を出て、関門海峡を抜けて大陸に向かう船の、最後のランドマークとされた島は万葉集でも歌われている。その長い歴史を持つふるさとが今や人口300人足らずという苦境に立たされている。命あるものはやがて果てる・・・人間ならずともそれは定めか。僕の目の前には今、高台に建つ、すでに廃校となったらしい中学校の校舎、そのグラウンドのわきに咲いていた淡い紫色の槿(むくげ)の花、そして眼下に見える瀬戸の青い海、その風景が映し出されている。
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この記事を書いた人
中村顕治
【なかむら・けんじ】1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
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