1月27日「子のためにただ子のためにある母と知らば子もまた寂しかるらん」。今朝も魚の池には氷が張っているが、昨日までの風は止み、肌に感じる光も柔らかい。朝食はホットケーキにしようかと思った。まずキウイをつぶす。卵を2つ割る。牛乳を足してまぜる。僕が使うトースターの上部は横長のホットプレートになっている。そこに流し込んだのであるが、量が多すぎたらしく周囲に吹き出し溢れ始めた。そして・・・片面が焼けたようなので回転させようとスプーンを入れたら分解してしまった。このありさま。でも味はよろしかった。
イチゴのハウスに入った。土がかなり乾いているので、まずタップリと潅水。そして丹念に草を取ってやる。半分くらいの株が花をつけている。そして見つけた。真っ赤なイチゴひとつ。大きい粒で、手の泥を払って口に入れたら甘かった。ささやかなれど幸福の一瞬だ。
子のためにただ子のためにある母と知らば子もまた寂しかるらん 三ケ島葭子(みかじま よしこ)
3日前の読売新聞「四季」で目にした歌だ。長谷川櫂氏は次のように解説する。
お母さんはあなたのためだけに生きている。それを知ったら寂しい思いをするでしょう。赤貧の淵で赤ちゃんに語りかける歌。この子とも引き離される運命が待っていた。昭和二年、四十歳で病没。
思えば、昭和の時代の母親は子のためだけに生きていた。僕の母も5人の子を産み、42歳で死んだが、ご馳走にも、娯楽にも、旅行にも縁のないまま、ただ、姑、小姑からのストレスを抱えての早い死だった。歌の作者が言う通り、我が子のためだけに生きる人生は哀しい。されど、都会はともかく、50年前、100年前の辺鄙な田舎に母の心を慰める何があったというのであろう。電話もテレビもない隔絶した空間の中で(僕の母の場合、2年か3年ごとに産んだ子に)、乳を飲ませ、おむつを取り替える人生で命を終えたのだ。ひるがえって現在、5人の子を抱える母はテレビの話題になるくらい僅かだ。ちょうど今、始まったばかりの中学受験がニュースで伝えられているが、母の情熱は我が子の「将来の成功」に注がれる。言うならば少数精鋭主義・・・この違いを生じさせたのは社会の発展、科学の進歩、そして、このふたつを土台とした人の心の進歩。進歩する社会の中で、いわゆる先進国と称される国々に共通するのは少子化だ。少し下品な言い方になるのはお許しいただきたい。なぜ昔は子沢山だったのか・・・だいぶ昔、この問いかけに、芸人だったか、夜のテレビの司会者だったかが、こう言ったのを僕は記憶する。暗くなっての楽しみなんて、テレビさえない時代だもの。炭の火鉢じゃ冬なんか寒くてたまらない。それで早々と寝床に入る・・・することはもう決まってるじゃないのさ・・・。ふざけた言い方だと思う人もいようが、ある意味、真理をついている。
さまざまな物が詰まった箱や桶が林立する玄関。そこを少し片づけることにした。売り物にならなかった小ぶりのサトイモがいっぱい出て来た。そいつを仕事の合間、太陽光発電につないだ電気の鍋に20個ばかり投げ込んでおいた。うまく煮えている。僕のやり方は包丁を使わない。丸ごと茹でて、くるっと皮をむく。よしこれを晩酌のつまみ1品としよう。タップリの生姜と芽キャベツとサーモンを加えてしっかり煮込んだ。生姜のスープは体によろしい・・・ただ、これまた今朝のホットケーキ同様、見てくれはどうもだが、味はなかなかであった。
唐突な話ではあるが・・・もしも、もしも、若い僕が出会った人が僕よりも高い年収を得ている女性であったなら、さらには、辞めたくない、バリバリ仕事を続けたい、彼女がそう願うのであれば、オレは「主夫」になってもいいぞ、掃除も洗濯もやる。子どものおむつを取り替えたり、抱っこして哺乳瓶をくわえさせたりするぞ。妻が会社から戻る時刻を見計らい、台所に立って夕食の準備をするぞ・・・アホな夢みたいな話だが、半分本気でそんなことを考えたことが僕はある。「主夫」のどこがいいというのか、家事や育児が大変なことはわかっているが、人と交わらないですむというところに最大のウェートを置く我が性格、それが主夫生活に憧れを抱かせたらしいのである。妻が会社に行っている間。やっと子どもは寝てくれた。洗濯物も干した。時間が出来た僕は、軽いランニングに出るかもしれない。ベランダに並べてあるプランターに小カブの種をまくかもしれない。珈琲をいれて、やわらかな音楽を聴きつつしばし本を読むかもしれない・・・それって間違いなく贅沢だ・・・思えば、こんな性格が、どうやら現在の百姓生活にも繋がっているらしいのだ。
料理も掃除も洗濯も、とても人様にお見せできるような腕じゃない。でもやること自体は全く苦じゃない。人生相談にはしばしば、会社オンリーの夫は帰宅しても家の事には無関心。パソコンを開いたり、ゲームに熱中したり・・・そんな妻の不満が綴られる。僕は自慢してもいいかもしれない。百姓仕事と家事全般をずっと両立させてきたのだから。育児だって・・・チャボと人間を一緒にするなと叱られるだろうが、長年その飼育をやっている僕は、いまヒヨコが求めているのは水か食べ物か。ちょっと歩き疲れたようだから、あるいは冷たい風に吹かれ続けて寒そうだから、母鳥と一緒にしばらく箱に閉じ込めておいてやろうか・・・。朝、箱から出すときも、おはようと声を掛けてから手の中に収め、そのまま牛乳の器のところに連れて行き、体を傾けてやって口を牛乳に漬ける。起きた時にはニワトリも喉が渇いているものだ。小さなヒヨコはすぐには庭にある牛乳の器に行き当たらないかもしれない。器は高さが10センチあるのでうまく飲めないかもしれない・・・この長年の経験は、きっと人間の「ヒヨコ」にも応用がきく・・・まっ、普通の人にはお笑い種でしかない話だが、仕事が好き、収入も高い。そんな女性と暮らせるのであるならばオレは「専業主夫」になってもいい・・・僕はそう考えたのである。ただし専業主夫ではちょっとカッコよすぎるかな。痩せている僕だから、細いヒモという言葉が適切だね。ヒモだって、パートナーが仕事に専念できる環境を整えて上げられるのならばいいんじゃないか・・・そう考えたのである。
この記事のタグ
田舎暮らしの記事をシェアする