掲載:2020年6月号
山の中で自給的暮らしを実践する父のもと、6人兄妹の次男として育った大森げんさん。農作業に明け暮れ、学校にもまともに行けなかった少年時代はキツイ思い出しかなかったというが、農場に研修生として訪れた梨紗子さんと結婚し、それから新しい暮らしが始まった。身の回りの自然とつながって、必要なものは自分たちでつくる、山の一家の自給的生活。
朝来市(あさごし)は2005年に生野町、和田山町、山東町、朝来町が合併して誕生。兵庫県北部に位置し、市域は山間部が多い。人口は約3万人。市内には鉄道と高速道路が走り、但馬・山陰地方と京阪神を結ぶ交通の要衝でもある。天空の城と呼ばれる竹田城跡が広く知られる。
草木と山の恵みで暮らす日々
兵庫県朝来市の北端に位置する糸井地域。小学校や郵便局のあるその中心地から北に延びる山道を入ると、車の往来はなくなった。3kmほど走ったところに、閉校になった小学校の分校があり、道を挟んだ向かいの谷に10軒ほどの集落が見えたが、ほとんどの家はカーテンが閉じられ、庭も荒れていて、人の気配は感じられなかった。そこからさらに山道を進み、豊岡市との市境に差し掛かるほんの少し手前で脇道へ入る。間もなく山肌にへばりつくように立つ小さな家が見えた。
入り口には「山の一家*葉根舎(はねや)」と屋号が書かれた手づくりの親しみあふれる看板が立っていた。大森げんさんとご家族が暮らす住まいだ。屋号は大森家の日々の暮らしを表している。妻の梨紗子さんが話してくれた。
「こんな山の中で暮らしていると毎日誰かに会うということもなくて、最も身近にあるものって自然の草木なんです。暮らしの道具やお料理やからだのケアなどにもとても役立って、日々草木の恵みをいっぱい頂いています」
農業を営み、薪を主なエネルギー源として自給自足に近い生活をする大森家にとって、草木は生活の一部。美術作家として活動する梨紗子さんの題材も植物だ。
「自給自足って言葉、昔は嫌いだった。それがどれだけ大変なことか知っているから」と言うげんさん。じつは、今の暮らしは大人になって始めたことではない。物心ついたときから自給自足で育ってきたのである。
学校よりも農作業。父と6人兄妹の自給自足
大森さんの住まいから2kmほど離れた山間の谷に、ポツンと1軒の空き家がある。げんさんの実家、あーす農場だ。
げんさんは4歳のときに、当時住んでいた兵庫県西宮市から家族でこの町に引っ越してきた。げんさんのお兄さんがアレルギー体質だったため、父が自分たちで食べ物をつくろうと決意しての移住だった。自給自足はそのときから始まった。田畑で米や野菜をつくり、ニワトリ、ブタ、ヤギなどもいて、水力やバイオマスによる発電も。農業機械は小さな手押しの耕運機1つで、田植えも稲刈りも家族総出の手作業。6人兄妹でげんさんは上から2番目の次男だったが、10歳のころに母親が家を出ていったこともあり、少年の日々は家の雑事と農作業に明け暮れた。
「朝から晩まで草取りしていた記憶しかない。それから週に1回石窯でパンを焼いて、冬は炭焼きもやっていました。炭材にする木を切り倒すのはノコギリ。1日がんばって6本倒すのが精いっぱいです。父が教育に否定的だったというのもあるんですが、食べるためには農作業をしなくちゃいけないから小・中学校もまともに行ってない。読み書きはちょっと苦手なんです」
そのことを笑って話せるようになったのは大人になって、しばらく経ってからだ。
中学卒業後は通信制の高校に通うが、そこでふと将来何をやりたいのか、何のために勉強しているのか、という根本的なことを考える。
「生活に必要なお金を得るために会社勤めをするつもりはなかったし、何か資格を取りたかったわけでもない。改めて自分が何をしたいのか、どうすれば生きていけるのか考えたら、結局食べるものがつくれればいいわけで、農にかかわる仕事をしたいと思ったんですよ。それで高校に行く意味を失って退学しました」
自給自足を実践していたあーす農場では、NGOとも連携して国内外から多数の研修生を受け入れていた。その縁もあってげんさんは19歳のときにパプアニューギニアの研修ツアーに参加。そこで出会ったのが梨紗子さんだ。
「ニューギニアの文化に興味があってツアーに参加したんですけど、そこで彼がちょっと変わった暮らしをしていると聞いて、そっちにも興味を持っちゃって。それで彼が暮らす環境を見たくて、参加者の何人かでツアーの打ち上げをあーす農場でやることにしたんです」
将来の自分を模索して通信制の高校を中退したげんさんと同じように、当時、美大で油絵を学んでいた梨紗子さんも、また卒業後の進路に迷っていた。絵を描き続けていきたいが、それで生計を立てるのは難しい。生活のためにアルバイトをする絵描きは多いが、お金のためだけに興味がないことをしたくはなかったし、それでいい絵が描けるとも思わなかった。そんなタイミングで訪れたあーす農場で梨紗子さんの心の隅に漂っていた霧が晴れた。
「緑あふれる山の清らかな空気とか、足の裏から伝わる軟らかい土の感触とか、穫れたてのみずみずしい野菜のおいしさとか、そういう自然の恵みに自分の細胞の一つひとつが喜んでいるような気がしたんです。暮らしに必要なものを自分たちでつくって、そういう生活のなかで絵を描いていけたら、それは素晴らしいことなんじゃないかって」
卒業後、あーす農場の研修生となり、翌年にげんさんと結婚。時期を同じくして家づくりも始まった。
「あーす農場に研修に来ていた子がこの近くに廃材で家を建てたんです。それを見て自分もやりたいなと思って」とげんさん。
そして、家づくりに必要なつながりを持つために解体屋でバイトを始めると、間もなく適当な物件の解体があり、その材料をそのまま家づくりに使えることに。
「親方に相談すると、柱や梁はもちろん瓦1枚までていねいにばらしてくれて、ほとんど移築に近い形で今の家を建てることができたんです」
それが2003年、げんさん21歳のときだ。あーす農場から独立し、自分たちの新しい暮らしがスタートした。
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