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田舎暮らしの本 5月号

最新号のご案内

田舎暮らしの本 5月号

3月1日(金)
890円(税込)

© TAKARAJIMASHA,Inc. All Rights Reserved.

畑から見る東京/自給自足を夢見て脱サラ農家37年(22)【千葉県八街市】

中村顕治

 今回も編集長からいただいたテーマのひとつである。中学3年で東京に出て、アパート暮らし、そして会社勤め。合算して27年間が僕の東京での生活である。そして今は、軽トラで駅まで15分、特急電車で東京駅までが58分という地に暮らしていながら、その東京は遥か遠い場所になっている。叔母に見送られ、山陽本線柳井駅から乗車した夜行の急行列車は東京まで14時間余りを要した。東京は遠かった・・・しかし今、若い僕なら走ってでも行けたであろうその東京の方が、夜行列車の一人旅よりもロングディスタンスのようにも思えてくる。

 当然ながら、百姓になってから仕事に追われ足が遠のいたのだ。直近、東京に出向いたのは7年前。昔の同僚数人との食事会が銀座で行われた。その時点ですでに、街や駅の風景、乗車券の買い方、改札の通り抜け方、あらゆるものが東京通勤時代とは変わっていたけれど、その後の変化はさらに激しく、もしかしたら今の僕は東京で迷子になるかもしれない。実際の東京をこの目で見ることはない。すべてはテレビや新聞を通してだが、我が意思通りに東京の街を移動できるかとなると、自信はまるでない。

 5月9日。GWが終わった。そして一気に静けさが戻ってきた気がする。この言い方はちょっと変かもしれない。元々、この田舎に、僕の周囲に、喧騒なんて存在しない。でも、何か、昨日までの空気とは違って静かになったような気がするのだ。GWの間、テレビのニュースでずっと、駅や空港や高速道路の混雑を見ていた。観光名所の人の波を見ていた。知らず知らず、それに影響されていたか。そして連休が終わった今日はそうしたニュースがパッと消えて、バーチャルで感じていた「喧騒」も僕の脳から消え去った・・・ということもあるかもしれない。だが静けさの主因は天気かもしれない。朝からずっと雨なのである。しかも気温が低い。5月とは思えない。気象条件は悪いが、今の季節、百姓にはなすべき作業が10本の指では足りないほどある。上の写真のごとく、頭から雨のしずくを垂らしながら僕は作業している。東京では、あるいは会社勤めの人にとっては、日常から脱出できる晴れやかな時、それがGWだが、百姓にとっては忙しさがさらに増す、そういう時なのである。天気さえ良ければそんな多忙もなんということはないが、GWの終了とともに訪れた冷たい雨の日・・・それが、喧騒から転じていきなりの静けさとなったと感じる我が心理なのかなと思う。

 5月10。思いもかけない晴天に恵まれた。朝の空気はひんやり。毛糸の帽子にマフラーというスタイルでランニングに行くほどだったのに、朝食をすませた頃、一気に晴れたのだ。ひとり歓声を上げつつ、布団と毛布をズラリと干した。そして、めちゃくちゃ枝を伸ばしたキウイの花に光を当ててやるため、大がかりに枝払いをやった。それから荷造りをすませた夕刻、焚火の現場に向かった。なかなか燃え上がってくれない。途中でやめてしまうのは悔しい。もう少し、もう少しと意地を張っているうちに、なんと時計は8時20分を指していた。

 その焚火の、この赤い炎が思い出させたのは新大久保である。ああ、東京はどんどん変わってきているな・・・僕にそう思わせる街やモノはいくつかあるが、最もインパクトが強かったのは新大久保だ。そこに韓国エリアが生まれ、韓国ドラマや歌手やアイドルの人気と相まって、若者たちでにぎわっていると知った、あの時の驚きはなかなかのものだった。どうしてそんなに驚くのか。

 若い頃、僕は東京・中野に住んでいた。西武新宿線で高田馬場に出て山手線に乗り、新宿や御茶ノ水方面に向かう。東京以外の方に説明すると、高田馬場と新宿の間にある、山手線の中では当時は弱小と言ってよい駅、それが新大久保である。次は新宿というあたりで、窓越しの(たしかそこは土手になっていた)眼下にかなりの数の男の姿が見える。寒い冬にはいくつものドラム缶に激しい炎が立ち昇っている。首にタオルを巻いた男たちはその火にあたりながら立ち尽くしている。遠目にはそれがなんだかわからない。あとで、この地域に住んでいる友人からそのワケを聴いた。彼らは日雇いの男たちなのだという。ドラム缶の火にあたりながら、仕事のクチがかかるのを待っているのだという。ドラム缶の火は寒さをしのぐためのみならず、拾い集めた残飯を煮て食べるためでもあったと友人は教えてくれた。

 そんな記憶が残る新大久保が大変身を遂げた。コリアンブームが到来し、若者でにぎわう。しかし、テレビの画面だけでは詳細はよく分からない。今日、僕はグーグルに「新大久保」と打ち込み、検索してみた。韓国横丁と題された飲食街はまことにきらびやかであった。僕は韓国ソウルには駆け足で1回しか訪れたことはないが、ネット掲載の写真を見るかぎり、ソウルの街がそのまま再現されたのが今の新大久保、そんな印象だった。まさか、あの新大久保が・・・いずれの都市でも、古いものは廃れ、新しいものが生まれる。それは同じだが、東京ほどそれが激しく、大きく変遷する都市は他にないのではあるまいか。ドラム缶の炎に手をかざしていた首タオルの男たちは・・・空の彼方から新大久保の変貌を驚きの目で見下ろしているかもしれない。

 中学卒業間際、社会科見学ということでバスを連ねて行ったのが東京湾岸だった。当時はそこに多くの工場があり、東京湾の水質は最悪と言われていた。社会科見学で訪れたトンボ鉛筆の工場では鉛筆をもらい、何とか石鹸の工場では石鹸をもらった。この経験の他に、中央区、墨田区、江東区といった場所に僕はけっこう関わりがあった。勉強はキライと言って高校を中退し、のちに社長と呼ばれるところまで出世した僕の弟は運送会社に見習いとして入ったのだが、彼が住み込みで働いていたのは中央区勝鬨だった。あるいはふるさと祝島の同級生M君は國學院大學の神道科を出て、ふるさとの神社の神主を継ぐために修行をしていた、それが同じく中央区にある波除神社と言われるところだった。さらに従兄はアフリカ方面で大きな魚を獲る船の乗組員だったが、彼の乗った船が寄港するのも東京湾の晴海だった。他にもいくつか関係があって、僕は、渋谷、原宿、六本木といった東京の山の手にはサラリーマン時代もついに縁がなかったけれど、下町と言われる場所にはけっこう馴染みがあったのだ。

 その中央区、江東区、墨田区が大変貌を遂げた。これまた現場には一度も行ったことはなく、上空を飛ぶヘリコプターが映し出す映像からだけの知識なのだが、水も空気も薄汚れた街、若い頃のそんな記憶しかない僕にとって、まさに、変身、変貌としか言いようのない変化であった。林立するビル、タワー、あるいはブリッジ。こりゃ日本のマンハッタンだ。以前の原稿で、北海道の田舎から大学入学で上京し、渋谷のスクランブル交差点でもらした18歳女子の言葉「同じ日本とは思えない・・・」を紹介したが、東京のすぐそばに暮らしている僕でも、東京湾沿いの風景からは同じ感慨を抱くのだ。

 5月11日。なんと、本日も晴天である。万事に言えること。期待していなかったことが生ずると、その喜びは大きくふくらむ。ランニングから戻るなり、畑仕事の前に洗濯機を回す。梅雨に入ると僕は毎日最低2回着替えする。その梅雨のために、晴れたとなればありったけの衣類を洗濯し、ストックしておくのだ。明るい光の中でシアワセなのである。晴れたというだけで人生の幸福感が募る。なんと安上がりな人生だろうか。思えば、この幸福感は会社員時代にはなかったね。田舎暮らしゆえに得られるのだとも言ってよい。布団7枚、洗濯物40枚が干せる緑の中のポッカリと空いた広い空間。そこに無造作に、洗濯バサミなんぞ昔から使わず、どんどん引っ掛けていく。百姓の今だからこそ味わえる安上がりな幸福感なのである。

 朝食しながら、朝日新聞で歌人・俵万智さんの「日向夏のポストから」を読む。その冒頭は、これぞ東京だと僕が感じる文章だ。ちょっと長いが引用する。省略すると東京の風景が薄れてしまうから。

この春は、久しぶりに東京を満喫した。松尾スズキさんのお芝居を下北沢で観て、その足で松尾貴史さん経営のカレー屋さんへ。六本木で「Chim↑Pom」の展覧会に行き、ヒルズでお寿司。アメ横でスニーカーを買ったのちに、蔵前のビントゥバーのカフェで一休み。又吉直樹さんと対談もした。18歳で上京し、25年住んで、15年前に東京を離れて以来、ずっと地方で暮らしているが、いやーたまに来ると、やっぱり東京は楽しいなと思う。

 この短いセンテンスで、東京の素晴らしさがキリッと描き尽くされている。見事に「何もない」この田舎との対照が描き出されている。皆さんもご存知のように、俵万智さんは東日本大震災をきっかけとして石垣島に移り住んだ。その後、息子さんの中学入学と同時に宮崎県に移った。なぜ地方に移り住んだのか。俵さんは子育てがきっかけだったと書いている。息子さんが3歳まで通った東京のど真ん中の幼稚園には土の園庭がなかった。石垣島から宮崎県に移り住むことになったのは、息子さんが山奥にある全寮制の中高一貫校に行きたいと言ったからだという。俵さんはこうも述べる。

東京にも地方にも、それぞれの魅力があるし、人生のステージによって受け止め方は変化する。現在の自分の感覚だと、東京の良さは「つまみ食い」がちょうどいい。いっぽう地方の良さは、地味だけど飽きのこない白米だ。

 お芝居に、カレーに、展覧会に、ヒルズでのお寿司に、アメ横での買い物に、蔵前のカフェに・・・僕の感覚では、これはとても「つまみ食い」なんかじゃなくて、立派で高級なフルコースだという気がするけど、何にせよ、東京からわずか50キロという我が町に、これと同じものは何ひとつとしてない。駅から6キロという僕の住む村には寿司屋、カレー屋さえもない。芝居小屋、映画館、展覧会の会場は言わずもがな。だから思うのだ。東京はフルコースの街だと。

 そして、俵万智さんのエッセイを読み終えて僕は考えたのだった。人体に例えると、東京は「頭」、そして田舎は頭以外、頭から下の「体」、つまり手足、腰、背中なのではないかと。さらに考える。東京という大都市のプランナーはどこのどなたであろうか。見事に、人々が欲しがるものを作ってくれる。それのみか、先回りして、たぶん、これを作ればみんな、喜ぶであろうと思うようなものをも準備する。もちろんそれは経済法則に従ってのことではあろうが、人々が退屈せず、面白がり、思考し、それでもって活気にあふれる場所「東京」となっていることは間違いない。僕は東京タワーに一度も登ることがなかったのだが、比喩として、東京で暮らす人々はその地上300メートルの展望台にいる、百姓の僕はそれを見上げながら地面に立っている。僕のそばにあるのは太陽の光と5月にしてはひんやりとした風、それにウグイスとコジュケイとキジの鳴き声だけだ。明らかに「高級フルコース」の東京には周回遅れどころか何周も先を越されている。なんたって、田舎のお品書きには料理の数が少ないものね。俵万智さんは地方とは飽きのこない「白米」みたいなものだと書いているが、ふだん、パンにはうるさい、だが米にはこだわらない僕ゆえのこともあって、白米に例えられる田舎がチョッピリ哀しく切なくも思われるのである。

 5月12日。午前中は布団が干せるくらいの光があったが、ついに午後からは雨になった。明朝はかなり降りが激しく、しかも2日間降り続くのだという。まっ、仕方がないな。オマケみたいな晴天を3日間ももらったのだから。しかし、このままズルズルと5月が終わり、そのまま梅雨入りだなんてことになったら困るなあ。本来なら、今の時期はタップリの光を受けて野菜たちが大きく成長していく時なのだから。そして僕の衣類は・・・パソコン部屋にLLサイズの段ボール箱が7つ積み上げてある。きちんと畳むどころか、セーター、モモヒキ、パンツ、ズボン、靴下が冬の寄せ鍋料理みたいにゴッタで投げ込んである。洗濯物をきちんと仕分けて、畳んで・・・という、これにかかる時間を僕は、1本でも多く草を取る、1粒でも多く種をまく・・・そっちに使いたいのだ。それはともかく、段ボール箱7つ分の衣類があれば、長雨で、1か月の籠城となっても困らない。さあ、降るなら降れ。

 つい最近、どの新聞かで、タワーマンションでは洗濯物が外干しできないという記事を見た。僕の野菜のお客さんにも、墨田川近くの25階に住んでいる方がいるが、なるほど、景観を損なうからなんだね。僕は、イタリア映画なんかで、白い石造りの家と家、その間にロープを渡し、衣類やシーツが燦燦たる光を浴びて揺れているという風景が好きなんだが、東京の都心の何十階という高級マンションではそうもいかないのかな。ベランダというベランダに布団や下着がズラリと干してある風景は想像するだに壮観なのだが、やはりだめなんだろうな。

 ナカムラ殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の10日も降ればよい・・・。衣類乾燥機がない。布団乾燥機もない。除湿器もない。雨が10日も、しかも激しく降り続けば、野菜はかなりダメージを受けるし、この畑の主の暮らしも困窮する。湿っぽい布団に体を潜り込ませるのは、非文明に慣れている僕といえどもやはり不快だ。この点、高層マンションに暮らす人々にはそれはきっとない。衣類乾燥機も、布団乾燥機も、食器洗い乾燥機もあるに違いない。

 こんなことを書いていて、ふと、だいぶ昔のことを思い出した。東京で「マンション」という言葉がしきりと使われるようになった時代のことである。それまでは〇〇荘、〇〇アパートが普通だった。さらに時をさかのぼって、僕が東京に来た昭和30年代、住んだのは〇〇アパートでもなく、「〇〇様方」だった。〇〇のところには、田中でもいい、山田や斎藤でもいい、大家さんの名前が入る。昭和30年代、集団就職列車でも知られているように、日本全国の若者が東京で働くために田舎からやって来た。その住居需要に応えるため、間数にゆとりがある家の主は部屋貸しを始めたのである。トイレはぽっとん、台所のガスは2つだけで、下宿人は交代で使う。電気製品であったのはラジオと安いトースター。そこで実家や友人とやりとりする手紙の住所の最後は〇〇様方だったのだ。もうひとつついでに書くと、ラジオ英語講座の先生が、ラジオだから顔は見えないが、なかば苦笑するような感じで言ったのを僕は覚えている。マンションという言葉は本来「大邸宅」という意味なんですよネ・・・。その頃、東京にもまだ正しい意味でのマンションに相当する建物はなかった。しかし、今は立派に存在する。その風景を僕はテレビで見て知るわけだ。あるいは野菜の注文を受けて、その住所の最後の数字が1635であったり、2603であったりすることで知るのだ。すごい。一度26階の窓から東京の街を見下ろしてみたい・・・。

 5月13日。終日の雨である。やるべきことはいろいろある。さあ濡れるぞ。心を決めて畑に向かう。幸い気温は低くないから濡れても寒くはない。午前中の仕事を終えて、ランチの前、着ているものをすべて脱ぎ、洗濯機に投げ込む。投げ込んでもそのまま。洗えないことはわかっているが、まっ、こうするよりしょうがない。泥と雨に汚れた衣類を脱ぎながら、ふと思い出したことがある。衣類乾燥機の使用を控え、外干しにすれば電気を節約できる。乾燥機1回の使用で発生する二酸化炭素は400グラムらしいのだが、その発生を抑えることができるというのだ。このことに目をつけてアプリを開発したのは島津製作所。気温、風、湿度などの気象データを基に洗濯物の乾きやすさを予測し、外干しに適した時間を知らせてくれるのだという。

 午後の作業。雨が強くなったのでハウスの中に移動する。ここにはナスとカボチャがある。今年の初めまであったヤマイモはすべて収穫したつもりだったのだが、土に隠れていたムカゴはすごい数だったらしくヤマイモだらけ。ナスにもからみついている。それを撤去する。食用になるものをまず優先し、小さいが、助けてやれるものは他の場所に植えてやる。膝をついて這いまわりながら、不意に思い出した言葉がある。「人の暮らしの豊かさは、地面からの高さと距離に比例する・・・」。だいぶ前に読んだ本なので書名も、どなたが書いたものかも記憶にないのだが、筆者はたぶん農業に心を寄せる方だったと思う。つまり、この言葉の意味は、地面とじかに接する百姓が高さの底辺で、高層マンションの上階に行けば行くほど経済的には恵まれているということだ。僕はこれでもってひがんだりすることは全くない。地面に足を着けて生きるという生き方が自分には合っていると思うから。ただ、この言葉の表現は客観的に見て、なるほど、当たっているかもなあと思う。

 急にこんなことを言い出したのは、今朝、ランニングを終え、朝食しながら見たテレビが物価高騰をテーマにしていたからだ。食品もガスも電気も値上がりする。特に電気なんかは25%も高くなるらしい。僕は3年前に東電から楽天電気に切り替えた。その楽天電気も6月から11%の値上げを通知してきた。太陽光発電のおかげで僕は数百円の負担増ですむが、オール電化で暮らしている友人なんか大変だろうなと思う。

 今朝のテレビは日本国内の状況を伝えたのち、ニューヨークでの状況を現地特派員が発信した。ニューヨークで働く人は、例えば23歳の若者でも月給39万円と日本の若者よりも高給らしいが、それでも、もともと30万円だった3部屋マンションが今は51万円。3人でシェアしていた1部屋当たりの家賃が17万円になったというのだからすごい。で、今日は・・・こんなことを書いていて、僕の頭に浮かんだのが黒澤明監督作品、1963年公開の『天国と地獄』だった。製靴会社の常務を演じるのは三船敏郎で、高台の豪邸に住んでいる。その豪邸をはるか見上げる谷底みたいな貧民街の下宿に暮らしているのは山崎努の演じる23歳の青年だ。あいつは「天国」に住み、自分は地獄に暮らす・・・そこから恨みが生まれ、常務の息子を誘拐する(実際には間違って、常務のお抱え運転手の子どもを誘拐してしまう)。

 犯人は身代金3000万円を要求する。東京発の特急こだまに乗れ。洗面所の窓から現金の入った鞄を列車が酒匂川の鉄橋にかかる時に投げろ・・・・。東海道新幹線が出来る以前という時代である。冷房完備という列車はまだほとんどなかったが、大阪行きの特急こだまにはあった。そして、冷房列車であるゆえ窓は開かない。唯一、物を外に投げ出せるのは洗面所の窓だけ。その窓が7センチだけ開く。犯人の要求は、7センチの幅をすりぬける鞄に現金を詰めて列車から投げろというものだった。

 僕は61年前、初めて乗った東京までの夜行列車を経験して以来、鉄道が好きになった。14時間の一人旅は心細さよりも楽しさ、ロマンチックの方が優った。その鉄道好きがだんだん高じて国内の長距離列車のほとんどを乗りつくし、最後はシベリア鉄道ということになったのだった。そんな僕ゆえに、鉄道でのトリックを使った『天国と地獄』は三国連太郎主演の『飢餓海峡』とともに忘れられない邦画の秀作である。未見の方がいたらぜひおすすめする。

 山崎努は『天国と地獄』でデビューした。作品の設定ではインターン、研修医だ。頭脳に優れてはいるが、一方では豪奢な高台に暮らす金持ちへの、嫉妬と恨みを抱く。そんな男を見事に演じている。まさしく、僕が先に書いた「地面からの高さと距離が生活の豊かさに比例する」を軸に据えたサスペンス映画なのだ。映画のエンディングに近い頃、白黒映画の画面に「オーソレミオ」の音楽がかぶさる。今でもその音楽の響きが僕の記憶に残る。

 5月14日。テレビのニュースで、東京・錦糸公園でラテンのフェスティバルが行われていると伝えられていた。東京以外の人にはわかりにくいかもしれないが、駅でいえば錦糸町、東京スカイツリーのそばだと言えばたぶんお分かりだろう。もちろん僕は東京スカイツリーに行ったことはなく、錦糸町にも久しく足を向けたこともないが、テレビのニュースを懐かしく感じながら見たのは、錦糸公園で野球の練習を何度かしたことがあるからだ。勤めていた出版社には野球部らしきものがあった。全出版社が参加する野球大会が年に一度あって、そのための練習として錦糸公園のグランドを借りていたのだ。はるか50年以上も昔だ。失礼な言い方になるが、当時の錦糸町は薄汚れた感じの街だった。それが大きく変わったのは東京の他の街と同様であり、東京スカイツリーはあの一帯の輝くシンボルになったと言ってもよいだろう。

 都市が発達し、膨張する。そこには必ず背の高い建物やタワーが出現する。東京タワーは戦後の復興発展を遂げた東京のシンボルとなった。東京スカイツリーもおそらくそうなのであろう。人間、たまには、高い所に上り、周囲を見渡してみる必要があるのだろうか・・・ふとそう思う。ふだんの僕は地べたばかりを見て暮らしている。住んでいる家も平屋だから二階の窓から下を見るということもない。もちろんたまには空を見上げることもあるけれど、ほとんどの時間は、草を抜くために、種をまくために、発芽した大根やブロッコリーを間引くために、下ばかりを見ている。もし東京タワーやスカイツリーに上って上から東京の街を見下ろしたらどんな感じがするだろうか・・・何か心の変化があるだろうか。少しばかり似た場面が時々ある。屋根の修理のために屋根に登る。あるいは日当たりを邪魔している大木の枝を落とすため、7メートルの梯子を立てて登る。たかが7メートルではあるが、それでも、たしかに、ふだん見ている風景とは違い、いくらかの感情や思考の変化を自分にもたらすことがわかる。

 5月14日。午前中は雨。午後からそこそこの晴れ。荷物発送の前にひと仕事やっておこう。サクランボを野鳥の被害から守るために使うネットがある。そのネットを今度はカボチャに流用する。カボチャはビニールハウスの中にあるが、そのツルを這わせるスペースがない。そこで、ハウスにすっぽりネットをかぶせ、カボチャを這い上らせようというわけだ。ネットに絡みついた草や枯れ枝を取り払うのも、背の高い、長さも長いハウスにネットを張り渡すのもかなりの手間なのだが、こうした作業に不思議と僕の心ははずむ。高い場所から地上を俯瞰する。その素晴らしさを想像することは僕にもできる。さりとて、わざわざそこに(例えば東京スカイツリーに)行ってみようかという気にはならない。地面に足の着いた暮らしが精神的にもすっかり染み込んだせいなのだろうか。それゆえ、カボチャのネット張りごときにも心がはずむのであろうか。

 会社勤めの頃、仕事でよく出入りしたのは皇居近くにあるパレスホテルだった。10人くらいの教授が集まり、定期的に医学雑誌の企画会議が行われる。会議が終了すると食事になる。出されるのは最高級のフランス料理のフルコースである。右と左と前方に何本ものスプーンやフォークが並ぶ。ボーイが白い布のかかった器をうやうやしく持参し、一人ずつ、好きなパンを選び取るよう促す。まだ温かいパンから香しい匂いが立ち昇る。下っ端の僕にも教授と同じフルコースが用意される。ぺえぺえの若い編集部員といえども、あからさまに食事のメニューをランク下げするのはためらわれたのであろうか。いや、そんなことよりも、品数の少ない客が大きなテーブルに紛れ込むのはサーブするホテル側にとってはやりにくいこと、そのせいであったかもしれない。

 ともあれ、こうして僕は、かなり若い頃から高級フルコースに馴染んでいた。パレスホテルだけではなく、駿河台の山の上ホテル、さらには関西出張の時には大阪のロイヤル、神戸のオリエンタル、京都だと山荘 京大和、ともかくそういったところで食事のマナーをしっかり教え込まれた。いい経験をさせてもらった。会社には今も深い感謝の念がある。

 そんな僕が、今では、イモ、マメ、カボチャを頻繁に口にする。お客さんには送れないヒネた人参や大根を捨てずに、洗い、切り、圧力鍋に放り込む。そして、左右がちゃんと揃わない箸を使い、少しばかり欠けた皿に、ゆであがったジャガイモをゴロゴロと載せ、カラシマヨネーズをドバッとかけて、慌ただしく食う。うっかり焦がしてしまったパンを口に押し込む。うっかり床に落とした食べ物だって勿体ない、拾って口に入れる。むかし教わったホテルの食事マナーでは、落としたものは自分で拾うな、ボーイに手で合図しろだったよね。でも、うちには呼ぶべきボーイはいないものな。チャボに合図しても、たぶんダメだろうし・・・思えば、半世紀前の自分と現在の暮らしとの落差たるやかなりのものだ。この数十年で、東京は高く、美しく、ロマンチックな都市に変貌した。一方こちらは百姓の身になり、低く、汚く、粗野になった。我がガールフレンド「フネ」の言によれば立派な原始人になったのである。でも、地べたを這いまわり、イモ、マメ、カボチャを欠けた皿で食べる暮らし、うっかり床に落としたジャガイモも食べる暮らし、それもさほど悪くはないのである。

 話変わって、今僕には興味深い「事件」がある。ふるさと山口県。その阿武町というところで生活給付金の誤送金があった。一人当たり10万円。その430人分を役所の担当者が一人の口座に送金したというのだ。それだけならなんということもない事件だが、4300万円を手にしたのが若い、よそからの移住者だったこと。しかも、たちまちにしてその金がどこかに使われた、もう元には戻せないと当の青年は言っている。そのことに僕は驚いたのだ。突然転がり込んだ大金にビックリし、一瞬は儲かったあと思うかもしれない。でも、それに手を付けてはいずれバレる。犯罪にさえなる。それにしても、20代という青年はよそから移住してどんな夢を抱き、どんな日常を送っていたのか。たちまちにして4300万円を使い込んでしまうような暮らしとはどんなものだったのか。興味深いのである。

 5月15日。曇り空。ひんやりした空気。今日もさえない空模様である。しかしここは、天気なんぞに負けるな、自分で両頬をバシバシと叩いてでも乗り切ろうぜ。お客さん用の人参を収穫したついで、ハウスを少し拡張する。人参を抜き取って空きスペースがだいぶ出来た。ここにトマトを植えようと思うのだ。ただし、そのままでは成長したトマトは頭がぶつかる。幸いビニールの裾にはまだだいぶ余裕があるので拡張が可能なのだ。このままグズグズと5月が終わり、6月に入ったらすぐ梅雨入り、そうなったら野菜には痛手である。とりわけ影響を受けるのはトマトかもしれない。ハウスだから雨を直接受けることはないが、日照が少なく、常に空気が湿っぽいというのはトマトがいちばん嫌う気象条件だ。

 荷造りを終え、ブロッコリーとカリフラワーに土寄せしてやり、ふだんより1時間早く部屋に戻る。そして、録画しておいたドキュメンタリー番組を見る。2020年カナダのドリフトプロ制作「究極の地産地消暮らしの1年」。場所は北極圏の300キロ南、ドーソン・シティというところ。人口およそ2000人。数年前、そこに通じる唯一の道路が地滑りによって遮断されたという。川向うのスーパーマーケットの棚は48時間で空っぽとなった。そこで、このドキュメンタリーの主人公スザンヌ・クロッカーは目が覚めたと言う、考えた。これからの1年間、ドーソン・シティ周辺で収穫されたもの、飼育されたもの、狩りで捕まえたものだけを食べて暮らす。

 彼女の夫はあまり乗り気ではない。息子と二人の娘もあからさまに不満を漏らす。いざ計画が実行されて、スザンヌが用意した料理に上の娘なんか吐き出してしまいそうになる。それでもスザンヌはやり通す。白樺の木に穴を開け、樹液を取り出し、シロップを作る。なんと、1リットルのシロップを作るのに80リットルの樹液が必要なのだという。塩作りにもチャレンジする。そんな彼女の独白がテレビ画面に流れる。

私たちが食べるものの97%は数千キロ離れた場所からトラックで運ばれてきます。世界中の多くの食料品店には食料の在庫が3日ないし5日分しかない。

 ストアー(店)という言葉の元の意味は「保管しておく」ということだ。しかし、何かの事情で生産地からの搬送が途絶えれば、ストアーがストアーとしての意味をなさなくなる。ちょうど今、ロシア制裁に端を発した輸入制限が行われている。石炭、天然ガス、原油、さらには小麦、魚類・・・つい先日僕は知ったのだが、農業で使う化学肥料の材料となるものもロシア産なのだという。人口が集中する大都市になればなるほど、遠隔地から運ばれるエネルギー物質や食料に依存する度合いが高くなるのは避けられないだろう。幸い日本はまだ紛争に直接巻き込まれることはないが、戦争でなくとも、大きな地震発生によるリスクは人口密集の大都市ほど大きい。僕はある時ふと想像したことがある。大災害で生じたけが人の数が、少ないうちは救助の手は速やかに届く。だが、けが人と、そうでない人の割合が五分五分、もしくはけが人の数の方が上回った場合、例えば途中で止まったエレベーターから脱出するとか、瓦礫の隙間からなんとか這い出すとか、最後に頼れるのは自分の知恵と力しかないということになる。

 先ほどのカナダのドキュメンタリーだと、けっしてその作業はラクではないのだが、それでも、彼らは凍った川に穴を開けてサケを釣り、鹿を捕まえ肉を得ることが出来る。東京では・・・ほとんど打つ手はないかもしれない。災害に備え、常に数日分の食料備蓄をと呼び掛けられるが、大停電が生じれば、夏ならばすぐ冷蔵庫の中身はダメになる。逆に、真冬に大きな地震が発生したら暖房は遮断され、寒い屋外で耐えざるを得なくなる。向こう何年間かで大きな地震が発生する確率はかなり高いと言われている。僕が住む房総半島もその例外ではない。うちには冷蔵庫が3つあり、単純計算で1か月、うまくやりくりすれば2か月くらいはもつと思うが、それも、太陽光発電のシステムが無傷であった場合のこと。最終的には、スザンヌ・クロッカーの言葉を借りれば「究極の地産地消」を覚悟せねばならない。長く保存がきくもの、なおかつ、種を売る店が地震で機能しなくなって、翌年の種を自分の手で確保できる野菜といえば、サトイモ、ジャガイモ、大豆、ピーナツ、カボチャ、インゲン、ヤーコン、キクイモ、アピオス、ヤマイモ。他に多年草として、フキ、アシタバ、ウド、アスパラ、タケノコ・・・プロパンガスが営業所から届かなくなった場合には、林から燃えるものを引っ張り出し、煮物をし、ドラム缶の風呂に入るだろう。水はどうする・・・雨水を貯める200リットルの貯水タンクが7つある。なんとかなるだろう。

 今、百姓の僕から見える東京はパラダイスである。限りなく知的刺激が受けられ、エンタテイメントも食事も最高位にある。テレビのニュースにしばしば映し出される東京都庁の建物、それは自信にあふれ、大きく胸を張りながらそびえ立っている姿にも僕の目には見える。長く東京で暮らし、何かの事情で地方に移住した時、初めて東京の「偉大さ」が理解される。そこにはなんでもあるのだ。You name it! なのだ。田舎といってもピンからキリまでだが、僕が暮らす田舎の村にはセブン-イレブンしかないもの。やはり東京は偉大なのだ。

 そして再び、自論を展開。東京は「頭」、田舎は「手足、あるいは腰、背中」だと僕は考える。頭で生きてゆける自信のある人は東京がいい。頭はイマイチだが、足腰には自信がある、そういう人には地方暮らしがいい・・・ただし、この論はあくまで僕自身のこと。他の、地方へ移住した人まで巻き込んで十把ひとからげにしようという話ではもちろんない。

 僕が東京に出向く唯一の理由だった昔の同僚との食事会。しかし、そのメンバーの二人が亡くなり、コロナという事情もあって、銀座での食事会は立ち消えになっている。だからもはや、東京に行く理由は全くない。もしかしたら、僕はこのまま死ぬまで東京の土(コンクリート)を踏むことはないかもしれない。その間も東京は、どんどん華やかに、美しく、ビビットな都市として発展していくのだろう。

ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの・・・。

 ここでの「ふるさと」とは、生まれ故郷の祝島ではなく、中学3年から27年間暮らした東京のことである。

 

5月中旬の野菜だより

 5月16日。天気予報通りに雨の朝である。気温は14度しかない。ランニングをすませ、朝食前にカボチャ畑に直行する。咲いている雌花は6つ。花粉を着けておく。それにしてもこの天気。もう何度も書いてきたが、ちっとも5月らしくない。今年の夏の収穫はどうなるか。イヤな予感がするなあ。世界情勢も不穏だが、百姓にとっては世界気象も不穏で気がかりだ。

 朝食をすませ、畑をひとめぐりする。ミカンの花が満開だ。一昨年が豊作で、昨年は不作。隔年結果ということであるならば今年は豊作ということになる。ミカンの木は35年前に6本植えた。うち2本は枯れ、1本は台木の勢力が優り、先祖返りということか、ユズもどきになってしまった。秋、色づいたミカンは僕にエネルギーをくれる。仕事の合間にもいで口に入れ、同時に青い秋の空に映えるその色を楽しむ。心身双方に力をくれる果物なのだ。

 ソラマメは、ほとんどアブラムシも付かず、順調に育ってくれた。昨日15日、まだちょっと早い感じはするのだが、「どうぞ初物を」とメモして初めてお客さんに送った。店でソラマメは、重量あたり最も高い野菜ではないだろうか。大きな莢から出てくる豆は2つか3つ。莢から外すとわずかな量でしかない。その今年のソラマメは、たぶん来月になる頃に収穫が終了する。跡地には何を植えるか。同じマメ科であるピーナツや大豆を除外するとなると、ブロッコリーかカリフラワーということになる。ポットで育てているその苗たちはその時まで待っていてくれるだろうか、徒長してしまうだろうか。思案しているのである。

 次の写真はハウスの中のキャベツ。露地のキャベツには憎たらしいほどの青虫がいて食い荒らしているが、換気のために裾部分にはネットを張っているためモンシロチョウも侵入できないのか、ここにはその被害がない。ただ、ちょっと苗の数を欲張りすぎたかな。みんな窮屈そうにしている。それが反省点。

 イチゴも連日、お客さんに送っている。自分でも仕事の合間にどんぶり一杯くらいを食べる。冬の間、なんとかイチゴをと思い、ビニールハウスやトンネルで栽培してきたが、ハウスの中にはとんでもない草が生え、雨は当たらず、晴れたとなれば一気に高温となり、イチゴが要求する条件を満たすのはなかなかに難しい。次の写真は屋上庭園での風景。かぶせていたビニールが風に吹き飛ばされ、雨がじかに当たるようになり、僕の当初の目論見とは逆になったのだが、皮肉なことに、イチゴたちはプランターの外に向かってランナーを伸ばし、大きな実を着けている。

 こう雨が続くと野菜の管理は難しくなる。次の写真は、使い古しのパイプとビニールを苦心して組み合わせて作り上げたトマトの雨よけハウスだ。長さは9メートルある。片側にトマトが15本。残りの片側には同じトマトを植えるには窮屈すぎるので、ナス科であるピーマンとナスが植えてある。いずれの収穫も10月までと仮定して、さて、その跡地には何を植えるか、あるいはまくか。考えておかねば。いや、それより何より、こう低温と雨が続くと肝心のトマトはどうなるのか。心配だ。

 鶏糞堆肥をドッサリ入れて、ポットで育てた苗を4月に植えたトウモロコシ。肥料はだいぶ効いたらしく、定植時の倍くらいに育ってはくれたが、やはり、この雨と低温はトウモロコシにとって芳しくない。トウモロコシは「肥料食い」と言われる。多肥を好むのだ。子どもの頃に食べた田舎のトウモロコシはあまり甘くはなかった。昔の農家はどんな肥料を使っていたのだろうか。現在はどんどん改良が進み、甘さと柔らかさを売り物にする品種が出回るようになった。そのぶん多くの肥料を必要とするのではないだろうか。苦労して育てたトウモロコシも、近年増えたらしいハクビシンやカラスに全滅されてしまうことが多い。だからこうしてネットで防御してあるのだが、場所はここだけでなく、他に3か所。すべてをやるとなれば重労働である。

 ランチ時、空はいくぶん明るくなったが、雨の降りは朝と変わりはない。果物を点検して回る。春の始め、梅、プラム、アンズはいっぱい花を咲かせ、期待を持たせたが、開花当時の低温が影響したか、着果率は良くなかった。加えて強風が吹いてせっかくの実を吹き飛ばしてしまった。次の写真はプラム。貴重な実をなんとしても大きく、無傷に育てたい。光を邪魔したり、実にくっついていたりする葉や枝をひたすら取る。そんな苦労をカラスのやつめが台無しにする。梅、プラム、アンズは期待薄だが、ジューンベリーとビワとクワは順調に育ってくれている。

 いつもの年であれば、まだまだ新緑と風の爽やかさを楽しめている時期だ。しかし、こう雨が続くと深い緑も鬱陶しくなる。例年、梅雨の間がそうなのだが、今年はまだ5月も半分というのに、僕の気分はまるで梅雨だ。せめて・・・と思い、あらゆる果樹の、今年伸びた枝の不要と思われるものをどんどんちぎり捨てるのだけれど、1本の木あたり1時間を要する根気を要する作業だ。ああ、もっと光を、晴れてくれ。そう祈る。

 さてと、雨は止んでくれそうにない。しっかり雨防備をしてそろそろ荷造りにかからねば。次の写真は、ふだん段ボール箱に野菜を詰める作業台だ。でも今日は使えない。雨の降り込まない場所での作業は窮屈なのだが、なんとかやりくりしよう。ひたすら働く。雨に濡れる。泥にまみれる。洗濯物はどんどん増える・・・しかし、これが人生である。

 

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中村顕治(なかむら・けんじ)

1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。

https://ameblo.jp/inakagurasi31nen/

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