2月29日「ふるさと祝島に札幌から移住した人がいるというニュースに驚く」。
2月が終わりである。ついこの前、正月を迎え、77歳の誕生日であったのに、あっという間に2か月が過ぎた。今年はうるう年。閏の年といえば、まずオリンピック。そして、ふるさと祝島では神舞(かんまい)が行われる。都から豊後に帰る途中、嵐に襲われた。その船の人々を祝島の住民が救助し、世話した。神舞は豊後の人たちからのそれへの返礼が起源である。
エンドウとソラマメのトンネルにもぐり込む。ちょっとした隙間から鶏が入り込み蹴散らかした。そのケア。ついでに草を取り、エンドウには支柱を足してやることとする。例の、毎夕毎朝、布団や毛布を掛けたり外したりをしているビニールトンネルだ。その苦労でようやく得た熱を少しでも有効活用したい・・・ソラマメとソラマメの間にジャガイモを植えた。いま発芽したばかりで、ソラマメ・エンドウとは競合しないだろうとの計算だが、さてどうなるか。
仕事を終えて、ストレッチしながら、軽トラのフロントに押し当てた夕刊を読む。いつものルーチンだが、ふだんとはちょっと違う気分で新聞を急ぎめくる。「現場へ!!」という連載。26日から始まったシリーズ『反原発の島を歩く』、その島とは僕のふるさと祝島のことだ。それについて触れる前に別な記事のことを先に書く。10日ほど前、同じ朝日新聞の朝刊に「房総の太陽 農作物にも発電にも」という大きな記事があった。ソーラー発電に力を入れている僕は興味を持って読んだ。ご存じの方もいるかもしれない。無数のソーラーパネルを並べた畑で作物を作るという手法があることを。パネルは3メートル以上の高さに設置し、パネルとパネルの間隔は広げる。こうすることで広い土地を耕作と発電、双方に活用できるというわけだ。残念ながら、3メートルを超す高い位置にパネルを設置するというのは僕の技量では不可能で、パネルは畑から外れた狭い斜面に窮屈なかたちで設置してある。
さて、その朝日新聞の記事に登場するのは千葉県匝瑳市にある従業員10人ほどの会社「ソーラーシェアリング」に勤める田中蓮さん(26)という女性だ。京都大学大学院で環境経済学を学び修士号を得た。同級生たちはみな大手の企業に就職したが、再生可能エネルギーと農作物を合わせて生み出し、持続可能にしたいとの情熱から、また「自分の好きなことに飛び込みなさい」という両親の言葉から、現在の道を選んだのだという。記事を読み進むうちに僕はビックリした・・・。
「働かせてもらえませんか」。高校生の頃には、中国電力による上関原発の計画で揺れる山口県・祝島の農場に自分で手紙を出し、無給で1か月、島の食べ残しを集めて豚の餌を作ったり、食堂を手伝わせてもらったりした。その間、原発に賛成する人、反対する人、どちらの話も聞いた。「地域のため」という思いは共通なのに、エネルギーの選び方によって地域に分断が生まれてしまう。大学や大学院で、原発や再生エネルギー、地域経済を学ぶうちに「地域を守るためには、若者が働ける仕事、就きたいと思える仕事があることが何より大事」と気づいた・・・。
驚きだった。10代の少女が見知らぬ土地に行って豚の餌を作る・・・その情熱が素晴らしい。かつ、少女が選択した土地が僕のふるさとであったなんて・・・。そんな僕の驚きの情が消え去らぬうちに始まったのが『反原発の島を歩く』だった。反原発の運動を語る時、すぐさま引かれるのがふるさと祝島だ。反対運動はすでに40年に及ぶのだ。以前読んだ本の中に、「長州人は、その思想が右であれ左であれ、妥協せずに突き進む・・・」という記述があったのを記憶するが、祝島の反原発運動はそれかもしれない。また僕自身の40年前での「百姓志願」、そこから続く現在の田舎暮らし、この“しつこさ”も長州人の血のせいかもしれない・・・。
僕の子ども時代の1割にも満たない人口のふるさと。さびれただろうなあ、寂しくなったんだろうなあ・・・そんな勝手な僕の思い込みとは違い、人口こそ少ないが、違う意味での活気がどうやらあふれている・・・朝日の記事を読んでそう思った。上関原発の建設計画は福島での事故を契機にいったん白紙状態となった。ところが、原発予定地のすぐそばに、使用済み核燃料の中間貯蔵施設建設の計画が生じた。町長はそれを受け入れた。いったん沈静化した祝島の反対運動に再び火が着いたというのだ。その運動に情熱を傾ける人たち、上は91歳、下は33歳、それぞれの苗字に記憶はあるが、その方たちがどの集落の人なのか、ふるさとを離れて63年という僕には残念ながら思い出すことが出来ない。記事の中で驚いたことがある。島でカフェを営む堀田圭介さん(58)という方は2012年、妻と2人の子を連れて札幌から移住して来たというのだ。移住というのは大なり小なり生活環境の変化を伴うものだが、寒い、大都会でもある札幌から周囲7キロの小さな島(僕は子ども時代、霜を見たことも、霜という言葉さえも知らなかった)、そんな瀬戸内海の島への移住はかなり大きな暮らしの変化を伴ったのではあるまいか・・・ふとそう思った。いつの日か、そのカフェにふらりと立ち寄り、移住発案の時から現在の暮らしまで、珈琲カップを手にして堀田さんのお話を伺ってみたい・・・。
本論とは外れるが、記事を読みながら感じたことがある。島の人の言葉の引用が、祝島弁ではなく関西弁になっていることだ。例えば・・・(カッコ内は僕の頭に残っている祝島弁である)。
また振り回されて、みんなの心が揺らぐ。こんなことがなければ、みんなええ人なのに。(みんなえい人なのに)
ようよう原発問題が落ち着いたのに、またこげなことをする。中国電力は私らが死ぬのを狙うちょる。(またこがいなことをする。中国電力は私らが死ぬるのを狙うちょる)
もう腹が立って、ほかの所の「ゴミ」を、きれいな所に持ってこんでええ、あっちもこっちも汚さんでもええのに。(きれいな所に持ってこんでえい、あっちもこっちも汚さんでもえいのに)。
ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聞きに行く 石川啄木
記事を執筆した朝日新聞の記者を揶揄するわけではない。僕に、1000キロ離れた畑の上からふるさとを思い出させてくれた、そのことにむしろ感謝する。ただ祝島弁の些細な部分にこだわるのにはかすかな理由がある。ふるさと祝島で暮らしたのは14年、対してこの千葉には46年。使う言葉にせよ、生活様式にせよ、僕の暮らしは祝島から千葉にほとんど上書きされているはずに違いない。なのに、不思議なことは、記事を読みながら、少年時代に耳にした言葉の言い回し、そのリズムや香りのようなものがふわりと立ちのぼってきたからである。
原発建設の話が持ち上がった41年前、上関町の人口は7000人だった。しかし今は2258人らしい。そのうち祝島は280人。僕の子ども時代、祝島だけでも600戸、人口3600人だったことを思うとまさに「限界」の町だ。原発を受け入れるか、絶対反対を貫くか・・・どちらもが郷土愛から発している。賛成派は、このまま手を打たないと町は消滅する。だから国からの交付や電力会社からの寄付金で活性化を図ろう、町を存続させよう、そう考える。反対派は、海を汚すな、そんな危険なものを持ってくるな、美しいふるさとを守ろう、そう考える。『反原発の島を歩く』、その4回目である今日、以前、町役場は木造で、トイレは汲み取り式だったが、現在はコンクリートの立派な庁舎になっている・・・そう記されていた。例え話として適当かどうかわからないが、上関町における原発賛成・反対の構図は、われら個人の暮らしに重ねて考えるとわかりやすいかもしれない。何かあったら、身も心もヤバイ、しかし、もらえる給料は高額という仕事があるとする。一方に、心身にヤバイことは何もない、しかし得る収入は生きてゆくのにカツカツという仕事があるとする。アナタならどうする? 貧しい人、カツカツの暮らしをしている人のトイレは汲み取り式だ。まとまったカネがもし入ったら水洗トイレにしたい、同時に暗いキッチンの窓を大きくして、外の光を取り入れ、景色がよく見えるようにもしたい・・・そう考えることも自然の情であろう。じつは我が家もずっと汲み取り式のトイレだった。しかし、以前は何かと来客が多く、これじゃあ訪ねて来てくれる人に悪いなあ・・・僕は一念発起して水洗トイレに改修した(けっこうカネがかかった)。ただし、現実は今も汲み取り式のまま。なぜか。床と同じ高さに埋め込まれている便器の上に洋式便座を乗せた。水で流せるようにした。でも、水で押し流されたモノは下の大きな壺に溜まるだけで、都会みたいに知らぬ間に遠くに流れ去って行くわけではない。というわけで、僕は今も年に1回、かなり距離のある畑の隅に作った大きな穴まで、特大のバケツに汲み取ったモノをどっこいしょと運んでいる。そこに、折に触れて枯葉を投入し堆肥にしている。もし原発建設が持ち上がった時、祝島で暮らしていたら僕はどうしただろうか、賛成か、反対か・・・。便利できれいな暮らしがゼッタイ・・・そう言いつつ原発には反対という人に正直、僕はちょっと違和感を抱く。SDGsという言葉を知っている、口にしている、それだけで環境保持に一役買っている、こう勘違いしている人には首をかしげる・・・そんな僕が選んだ道とは、自分で使う電気は自分で作るという手段としての太陽光発電だった。
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