中村顕治
今回は家族のことについて書こうと思う。以前、編集長からいただいたサンプルテーマにも「家族のこと」というのがあったのだが、やはり、ずっと、ためらいがあった。いずれは書かねばならないことと思いつつ、先延ばしにしてきた。しかし、突然それを書く気になったのは、外からの強い刺激があったゆえだ(その具体的な事柄はのちに触れる)。僕は目下、独居老人。ガールフレンドはいるが、一緒に暮らしているわけではない。だから、仕事中に高い木の上から落ちたとか、湯舟で心臓麻痺を起こしたなんてことになると、いわゆる孤独死という可能性もある、そんな老人生活の告白である。
ただし、すでにおわかりいただいていると思うが、僕は暗い日々を過ごしてはいない。ガールフレンドの言葉によれば「原始人」。見かけ、体裁にいっさいこだわらず、ボロい服を着て、雨漏りのする家に住み、自分の手足だけで、無邪気に、けっこう楽しく生きている。これから書こうとしていることも、けして暗くはない。むしろ、明るく、ポジティブにこれまでの人生を振り返り、自分の何が悪かったのか、独りになってからの30年はどうだったか、悪いことばかりだったか、家族を失って良かったことはないのか・・・それらを隠さず明朗に書いてみようと思う。
「結婚生活を維持してくれるのは、愛なのか? カネなのか?」、そんな言葉が作家の文章だったか、人生相談の回答だったかにあったと記憶する。さてどっちなのであろうか・・・僕もここで、あらためてそれを考えながら書くことにする。読んでくださるアナタにも、愛であろうかカネであろうか、考えながら読んでいただければ嬉しい。ただし記述の中にはひょっとしたら「ビー音」の鳴るような事柄も含まれるかもしれない。しかし、ビー音を予感した結果、まるで書かなかったり、控えめに書いたり、脚色したりでは、意を決して書いたなんていってもあまり意味がないだろう。だから、正直、ありのままを書く。書き上がった文章がどう扱われるか、それはすべて編集長のご判断にゆだねられる。
すでにここまでの連載で、僕が30代、上司からのパワハラを受け、それが脱サラ、田舎暮らしのキッカケとなったことはご承知であろう。僕はどうやら、ストレスに強い、というより、かなり鈍い体質らしく、パワハラに苦しんだ6年余り、胃痛だとか食欲不振だとかの不調はなかった。出社拒否ということもなく、自転車で駅まで向かう時には「よっし、今日も1日を元気に乗り切ろうぜ」と、顔を平手でバチバチ叩いて気合を入れてから自転車にまたがった。オフィスに入ったら大きな声でおはようございますと挨拶もした。上司からのパワハラで自ら命を絶ったというニュースを新聞やテレビでしばしば見る。そのたび、ストレスに鈍感な自分の体質を幸いだったと思い、マラソンと家庭菜園と、ほどほどの酒で日々の苦しみを「うまく散らした」自分をほめてやる。
会社勤めを辞めたのは上司のパワハラ・・・確かに事実ではあるが、それに便乗した面も多分にあると、トシを取るにしたがって思うようになった。これもすでに何度か書いてきたことだが、子供時代の僕は少し変わっていたかも。虫や動物が好き。不器用なくせに大工仕事が好き。普通の子ならば熱中するゲームなんかにはあまり興味がなく、生き物の飼育や工作でひとり遊びすることが性に合っていた。また、ボンヤリとした輪郭ではあったが、種をまいて野菜を育てる、果物の木を植える、鶏を飼う、そうしたことへの強い関心も中学生になるかならない頃、すでに芽生えていた。
結婚してから公団住宅に8年暮らした。僕はベランダにかなりの土を運び上げ野菜の種をまいた。洗濯物を干すのに邪魔よ。そんなに土を運び込んだら今にベランダが落ちるわよ・・・妻のクレームには耳も貸さずベランダ菜園に熱中した。その後、近隣の農家から小さな畑を借りて初めて地面での野菜作りを経験した。実は、その農家との出会いは僕が新聞の折り込みに入れた「畑を売ってください」というチラシだったのだ。素人が農地を買うことは不可能。僕はまだそれを知らなかった。チラシを見たその農家の人が農地法なるものを教えてくれ、それほど好きならばうちの畑を貸してやる、そういう話になったのである。その頃の妻は、自分の夫となった人は土いじりの好きな男・・・まだその程度の認識であったろうと思う。この借りた菜園では僕と一緒に妻も汗を流していた(以後、すでに法律上は他人だが、かつての妻を「妻」という人称で呼ばせてもらう)。
我が家庭における日常が大きく変化した、その第一は長野に建てた山小屋であったろう。今にして思えば僕もウブだった。名目は1000坪だがぶっとい白樺の木が生えた斜面だらけ。インチキ不動産屋に騙された。それでも僕は会社の休みに通い、親しい友人の手を借りて小さな小屋を建てた。問題はその時の僕の心の奥。誰にも言ってはいないが、ひそかに、団地からそこに移り住み、バス停まで徒歩30分、バスで1時間ほどかかる松本市あたりに仕事を見つけて山暮らしをしたいと考えていた。かなり無謀である。電気も水道もない。熊が出てもおかしくない。そんな山中に妻子を置いて男が働きに出るなどとは・・・。
そして僕は32歳になろうとしていた。まさに「田舎暮らしの本」が創刊された頃だ。最初の田舎暮らし物件に出会う。土地は200坪。いまふうに言えば6DKの家。ただし築50年。北風が容赦なく吹き込む惨状だった。この時、自分がやりたいことをやるために、我が子に初めての転校を僕は強いることとなる。息子は小学3年、娘は1年。学校は利根川の対岸にあり、村の子供たちは毎朝、定員13人の渡船で通学した。公団住宅での暮らしから見ると日常生活は一変した。妻は子供を乗せた自転車で2キロの道を買い物に行き、ある時、子供と買い物の品もろともヤブに転落したという話をずっとのちになって聞いた。しかし、総じて、この最初の田舎暮らしは楽しいものだったと言えようか。ただし、はるか昔の領主を「水戸様」と呼ぶ土地柄。僕は会社に行って週末しか家にいないが、専業主婦の妻は四六時中、古いしきたりの村での交際を強いられていたらしい。子供たちの苦労もかなりであったらしい(当時の僕は念願かなって有頂天で、家族の気苦労には無頓着、全てはのちになって知ったことだ)。
何本かの果樹を植え、野菜を作り、犬、猫、山羊、アヒル、チャボを飼う。最初の田舎暮らしがこうして始まった。起きたらまず大型犬の眉山と山羊とともに川沿いの道をランニングした。駅までは3キロ。通勤用に買ったドロップハンドルの自転車を毎朝、利根川から吹き付ける風をものともせず走らせ、帰宅はたいてい9時台だった。手に入れた物件は1000万円。10年ローンを組んだ。そんな僕のサラリーマン生活にやがて異変が生じる。上司が変わった。何かで衝突したわけじゃない。僕は従順な部下だったと思う。しかし、新しい上司は粘着質だった。僕へのハラスメントとともに、他の部下はいっそう可愛がる・・・そんな図式が出来上がった。この上司は単に僕の上司にとどまらず、社内ナンバー2の取締役の肩書も持っていた。だから、他の部署の部課長級も唯々諾々という現実があった。もはや僕は孤立無援、無力な男だったが、幼い子二人を抱えた父親として働き続けねばならなかった。他に転職するという能力も勇気もなかった。
苦しい日々が続いた。どうにか精神の平衡を保つことが出来たのは、週末に行う野菜作りとマラソンだった。日曜ごとにどこかの大会に妻と子を伴って出向き、タイムの更新が果たされる喜びが僕のくじけそうな心を支えた。フルマラソンで念願の3時間を切ったのはその頃だった。だから、表面の顔に変化はなく、周囲の人はみな僕が平穏に暮らしていると思ったであろう。だが精神の圧迫感、鬱積は時間とともにどんどん堆積していった。前にも書いたが、上司を殺す夢を何度か見た。現実にはそんな勇気など自分にはない。自ら命を絶つ勇気も、人の命をあやめる勇気もない。日常の、心の奥の苦しみが積み重なるにつれ、肥大していったのが、まさしく田舎暮らしだった。わずか10歳くらいに芽生えた、野菜とか、果物とか、鶏とか、そういったものと交わりながら生活する夢が、会社勤めの苦しさと挫折感に比例するかのごとく、どんふくらんでいったのである。
その頃はまだ、現在のように田舎暮らし物件を紹介してくれる便利なメディアは存在しなかった。頼りになるのは新聞の3行広告だった。ああ、これはいいかも。候補を見つけるたび、僕は地元の不動産屋に連絡を取り、主に千葉県の海岸部に足を運んだ。いつも妻が一緒だった。僕の行動に異論をはさむことはなかった。映画でも旅行でも、何を見るか、どこに行くか。すべては僕が決め、妻はそれに従った。男は仕事、女は家事と育児・・・僕の思考様式は旧世代のものかもしれない。こう書いて、思い起こすことがある。僕は社内結婚である。そして、妻となったその人は、実は、僕がパワハラで苦しんだ上司のかつての部下だったのだ。当時、社内結婚が多かった。結婚したらどちらかが辞めるなどというルールはなく、むしろ会社は部課さえ違えば継続勤務を歓迎していた。そうした中、結婚すると決めると同時に、僕は自分より年上のその彼女を退職する方向に導いた。外で働くのは男ひとりで十分だとの考えのもとで。
女性の結婚退職はおそらく僕の妻となる人が初めてのケースではなかったか。さてこれは、ずっと、ずっと、のちになっての、しかも、何らのエビデンスもないままの我が勝手な想像なのであるが、二十代の若造のくせ、えらく生意気なことしやがって・・・上司には、妻を退職に導いた僕への憤激みたいなものが胸に長くくすぶっていたのではあるまいか。僕は、自分の担当である月刊医学雑誌の発行はきっちりこなしていたし、嫌われる、いやがらせを受ける、そんな理由は他に心当たりがないから。
男は仕事、女は家事と育児・・・先ほどずいぶんカッコイイことを書いてしまったが、現実はそう甘いものではなかった。当時の僕の、まだ安い給料では、その三分の一が3Kの公団住宅の家賃に消え、妻は食事作りにも苦心した(ようだ)。毎度、毎度、モヤシってこともあったよねえ・・・笑いながら妻は言ったことがある。それをバックから手助けしてくれたのが妻の実家だった。子供たちが寂しいだろうからとカラーテレビを買ってくれた。ことあるごとに子供たちへという名目で援助の手を差し伸べてくれた。男は仕事・・・などとカッコイイことを書く僕も、安月給の20代、かような幸運でもってどうにか暮らしを成り立たせていたのである。
一緒になった日から数えて50年余、別れてからは30年・・・その妻への、もしかしたら愛のかけらなのか、あるいは当時の暮らしの切なさか、今こんな記憶がひとつ浮かんでくる。円形の歩行器に乗っている幼い娘にスプーンで食べ物を口に運んでやる。それが床のカーペットにこぼれ落ちる。掃除を兼ねて、妻は、こぼれ落ちたその食べ物をふだんから自分の口に入れていたのだという(まさしく、もったいない精神の究極だ)。ところがある日、うまく子どもの口に入らずこぼれた物だと思って拾い、自分の口に入れた、それは・・・娘のおむつからこぼれた小さなウンチだったらしい。さわやかな笑顔に、かすかな涙を浮かべながら、このエピソードを妻が僕に語ったのは、たぶん、その珍事から10年も時を経た頃であったろう。
いま現在暮らす4部屋20坪の家と1500坪の土地という物件を新聞の広告で見つけたのは38歳の秋だった。それまで、かなりの物件を妻と一緒に見てきた。高台から海が眺められる、ロケーションにおいては申し分ない物件ばかりだったけれど、土地が狭く、僕の気持ちを動かさなかった。1500坪という広さを広告で目にした時、自分の将来、運命が決まったように思う。10年ローンを組んだ家はまだ4年の支払いが残っていた。不安定要素だらけでありながら突き進む。我が生来の性格であり、亥年生まれの宿命だろうか。地元の不動産屋を通して売りに出す。かなりの人が下見に来た。なかには、あの、当時有名だったウィッキーさんという方もいた。しかしなかなか買い手は決まらなかった。手付金100万を支払ったままどんどん時間がたつ。万事休すか・・・そう思い始めた矢先、買い手が現れた。当時の僕は「自然食通信」という雑誌と深い関わりを持っていた。初めての本を出してくれたのもこの出版社だった。購入希望者はその「自然食通信」の読者だったのだ。売り渡し価格でもってローンの残債を払い、現在の土地家屋も一括払いで決済できた。転居は4月4日。子供たちの新学期ギリギリに引っ越しを完了した。家財道具だけでなく、引っ越しトラックには山羊、犬、猫、鶏も乗っていた。こうして、僕は自分の夢に向かって足を踏み出した。と同時に、子供たちには二度目の転校を強いることとなったのだ。
地方に支店を持つ大企業とか、中央官庁の公務員とか、そういう人を親に持つ子供は幾度も転校を経験した・・・そんな話を見聞するのは珍しくない。それと違うのは、僕は自分の好きなことをやるため。もしくは苦境を脱するため。もっと大きな違いは、大企業とか官庁とかに勤める人に比べると、経済的な柱のないままでの転居、転校だったことだろう。5年生だった娘は学年1クラスだけという小学校に入り、中1の息子は自転車で5キロの道を学校に通った。幸いだったのは、買った家が新築同様だったこと。結婚以来、初めて体験するまともなマイホームに妻は上機嫌だった。実家から頻繁に訪れる義父、義母、義姉は、実家の庭にある水仙などの球根をどっさり持参することもあった。それを庭に植える妻の顔は輝いていた(その水仙はたくましく繁殖し、過去の出来事を知ってか知らずか、毎春、庭を埋め尽くすほどに咲く)。
二度にわたる転校。あの頃の僕は子供たちの胸の内を想うことがなかったけれど、やはり辛いことが数々あったようだ。のちに妻から聞かされたことだが、息子がシャツのボタンをひとつ残らず引きちぎられて帰宅したことがあったという。「標準語をしゃべる生意気なヤツ・・・」それがイジメの理由だったらしい。新居に移った僕は、最初の田舎暮らしよりもさらに長い通勤時間となった。駅まで自転車を飛ばして15分。単線の電車で千葉駅まで行って、快速電車に乗り換えて、大手町から地下鉄に乗って・・・片道2時間半というロングラン。それ自体は苦ではなかった。新聞も本もタップリ読めた。だが、200坪の土地から1500坪という飛躍を遂げた僕の心には、会社を辞める、百姓として生きる、そうした念願が具体的にふくらむようになっていた。胸の底に生じたそのことは、まだ妻には伝えなかった。その頃、夫婦としての関係はまだ良好だった。農業系の新聞に僕は随筆を書いたりしていたのだが、その挿絵は妻の筆によるものだった。O型とAB型という組み合わせの夫婦。僕がいちばん苦手とする数学や絵、それが妻の得意分野だった。
僕は通勤電車の中で、読みかけの新聞や本から目を離し、ボンヤリと算盤勘定をするようになっていた。さほどの額ではなかろうが、まあ、そこそこの退職金は出るだろう。それと、今現在、貯金通帳にある金額を合わせると、さて、何年くらい生活していけるか。月15万円として3年・・・3年あれば、百姓としての暮らしをなんとか軌道に乗せることが出来るかもしれない。あれこれ考え、迷いながらの通勤が1年余り続いた。そして決心した。会社を辞めよう・・・。一身上の都合により・・・下手な字でそう辞表を書いた。後任は・・・社内のベテラン社員はそれぞれ目前の仕事に懸命だった。後任は若手で、編集者としてはまだ十分でない人に決まった。その人が独り立ちできるまでという話になり、僕は辞表を書いてから半年ほど会社に通い続けた。
そして、その日がついに来た。思いもかけず、会社は僕の身分には不相応に違いない立派な送別会を開いてくれた。あのパワハラの上司も顔を出してくれた。僕が会社を辞めて農業を始めるらしいということは、すでにこの上司の耳にも入っていたようだ。そして・・・この送別会から7年ほどが過ぎた年のことだ、先代社長の死去が僕のもとにも伝えられ、偲ぶ会に出席することにした。神田駿河台の山の上ホテル。そのロビーに腰かけている時、かつての上司が向かいの椅子に腰を下ろした。そして言った。あなたには悪いことをした・・・。唐突だった。僕はかなり照れ臭い気分だった。
送別会当日の話に戻す。僕は千葉行きの快速電車の吊革にぶらさがり、ボンヤリと夜景を眺めていた。これが最後か、ネクタイ締めて、電車に乗るのは・・・喜びの一方にセンチメンタルなものもあった。駅前に預けてある自転車にまたがり暗い家路を走りながら、僕は感動的なシーンを想い描いていた。帰宅して、玄関に入るなり、頭の中での予行演習を実行した。台所にいたらしい妻が廊下を小走りに近づいてきた。僕は妻を抱きしめた。妻も、長いことご苦労様、そう言って僕の背中に腕を回した。だが、心なし、僕の背中に回した妻の腕には思ったほどの力がこもっていなかった・・・いや、その時はそう深く考えたりはしなかった。力がこもっていなかった・・・そう思ったのは、離婚して、何年もたってからだった。夫の意思は尊重したい。でも、どうやって生活を保てばいいのか、本当に農業で親子4人が暮らしていけるのか。妻の心の底には不安が渦巻いていたかもしれない。そのぶん、僕の背中に回した腕の力が微弱だった・・・。
家庭生活が少しずつきしむ、その前兆はまず子供たちの日常に現れた。娘は中3、息子は高2になろうとしていた。どこの家庭にもあろう思春期を迎えた子と親のギクシャク感は、それまで、残業や休日出勤で家にいる時間の短かった父親が朝から晩まで家にいる、そのことで一般家庭よりも増幅したかもしれない。コロナ禍で父や母の在宅勤務が増える、それによって家族同士の疲労感が増す・・・何かで読んだ記憶があるけれど、家族同士もベッタリよりも、ほどほどの距離があったほうが良いのかもしれない。
僕が会社を辞めて二度ほど、それまで僕のやることにいっさい抗わなかった妻が、正面から異論を唱えたことがある。ひとつは娘のこと。娘は太っていた。当時は具体的な数字を知らなかったが、娘が家を出た後、片付けをしていたら高校時代の記録が偶然あれこれ出てきた。身長160センチ、体重63.5キロ。そう記されていた。どうやら、自室で、ひそかに甘い物をタップリ食べていたらしい。若い頃から現在まで、体重はずっと50キロ台という僕は、運動すれば太らない、特にランニングは肥満に効果的という信念のようなものを持っていた。それで、日曜の朝はお父さんとランニングする、そう娘に約束させた。実行できたのは2週だけだった。3週目の朝、すでに表で準備して待っているのに娘は出てこない。やっと出てきたと思ったら、なんとも不機嫌、イヤイヤ感がにじみ出ている。それで僕は「決めたことはちゃんとやるんだ」と叱責した。そこに割り込んできたのが妻だった。いやなものを無理矢理させたってしょうがないでしょ。自分の考えを押し付けないで!! 初めて聞く妻の乱暴な声だった。
もうひとつの異論はカネのことだった。現在の村に移り住んでまもなく、養鶏で生活している僕より10歳くらい年長の人と知り合いになった。若い頃は普通の会社勤めをしていたというから、その意味でも僕の先輩だった。何度か互いの家を訪ね合った。そして、うちで少しばかり飲み交わした時、彼から借金の申し出があった。金額は100万。いずれ入る予定のカネはあるのだが、今どうしてもつなぎのために必要、半年だけ都合つけてもらえないかナカムラさん・・・。もう3年に及ぶ親しい付き合いだった。酒が入っていたこともあったろう、僕は承諾した。そのことを妻に伝えた。そしたら妻は、烈火のごとく怒った。あなたは何を呑気に考えているの。すぐ断りなさい!! 暮らしの先行きに不安を抱いている妻から見ると、どうにもピント外れな夫のふるまい・・・自分のアバウトさに気づいたのも、やはりずっと後年になってからだった。
息子にも手を焼かされた。彼の部屋は当時流行していたゲームのソフトが常に散乱。勉強なんぞしている様子はない。そして、ある時、彼が在籍している高校近くの警察と、担任の教師からそれぞれ僕に呼び出しがあった。まず警察。息子は授業をサボり、ゲーム喫茶みたいなところにいたらしい。そこで、「今は授業時間じゃないのかい、学校に通報するぞ!! 」という店主の声で逃げ出そうとして息子はガラス戸を壊した。担任教師は僕にこう言った。今のままでは卒業できません・・・。僕は平身低頭しつつ頼んだ。私がなんとかしますので、よろしくお取り計らいのほど。数学・理科はからきしダメだが、英国社ならなんとかなる。息子の教科書と同じものを手に入れ、畑仕事が終わった連夜、僕はにわか教師として奮闘したのだった。
映画監督の安藤桃子さんは5歳の時、父に「10歳になったら将来何になるのかを宣言せよ」と通告されたという。以下は朝日新聞「一語一会」からの引用となる。冒頭、僕は、「外からの強い刺激があった」と書いた、その刺激2つのうち1つが、これから引用させていただく安藤桃子さんの体験と言葉なのだ。僕は我が子に二度も転校を強いた、さらに自分流の思考をも彼らに強いた。そのことは、家庭崩壊の原因となり、彼らから今もって自分が避けられている理由ではなかろうか、ずっとそう考えていた。しかし・・・。
その父とは、俳優で映画監督の奥田英二さん(71)。母はエッセイストの安藤和津さん(73)だ。父はとりわけ長女の自分を「分身」ととらえ、食事の仕方から礼儀作法までスパルタ式で厳しく教え込んだ。その上で固定観念をぶち壊せと迫る。例えば高級レストランに連れて行くなり「お前が偉いわけじゃねえ、苦労が足りない」と下積み時代を延々と披露する。娘相手のキャッチボールに元球児の威信をかけて剛速球を投げ、娘の顔に当たって鼻血が出ても「子供みたいに顔面で受けるんじゃねえ! と怒る。ただの一般論に「それは誰が決めた? 誰がそんなこと言った!」とかみつく・・・。
まだまだ父と娘の格闘場面は記事において続くのだが、これほどまでの父からの干渉を受けつつも、安藤桃子さんは朗らかに言うのだ。父のおかげ。そんな「俺」を見て育ったから娘は進化したんです・・・。世に、親の干渉でつぶれる子がいる。親の干渉をそこそこいなしつつ、その干渉を肥やしにして成長してゆく子も一方にはいる。僕が強いた二度の転校に僕はもはや言い訳しない。だが、彼らの中学・高校時代に僕がなしたことは、安藤桃子さんの父親への述懐に比べたら、特大のピザとビスケット1個くらいの違いがある。反省の心は今も抱いているのだが、僕はその「一語一会」を読み、世の中にはもっとすごい話があるではないか、正直ホッとしたのである。
それでも、新天地における僕の行動は、今にして思えば過激、過大に過ぎた・・・深い反省の心をもってやはりそう思う。とにかく、やりたいと思うことをすぐやってしまうという性格は、いつの時代も、まずは家族に負担をかけるものであるらしい。今となればそれに気づくが、会社を辞めて何年かは家族の心に無頓着だった。新たに大型犬を飼い、山羊を飼い、果樹の苗木を次々と買って植える。僕の頭の中にはこれ以外のことは存在しなかった。そして、家庭崩壊の根本事項も、どうやらそこにあったらしいと、僕が思い当たったのは3人が家を出て、はるか年数がたってからだった。
僕は妻を女として見る目と心を喪失していた。いつの間にか性の対象ではなくなっていた。自分でも確かな記憶はないのだが、現在で言うセックスレスの期間は5年くらいあったに違いない。パワハラによる心身の不調はなかった・・・そう先ほど書いたのだが、サラリーマンとして追い込まれた日常で、僕に限らず、男が、真っ先に芽を摘まれるのはその性欲ではないかと今は考える。そして、念願かない、会社を辞めて百姓暮らしに入ったら入ったで、野菜の種のこと、果樹の苗のこと、家畜のこと、明日の作業予定のことで僕の頭はいっぱいだった。それにさらに重なったのは狭い家と子供の年齢でもあったろうか。襖ひとつを隔てたところに中学、高校の子供たちがいる。夫婦の交わりにはブレーキがかかる。僕ならずとも、それが障害となった夫婦は案外少なくないかもしれない。
野菜と卵を買ってくれるお客さんはボツボツ現れてきていた。しかし生計を成り立たせるような金額ではない。前に書いたように、僕は仕出し弁当屋でバイトしたり、英語塾を始めたり、もがき、奮闘していた。そんな折、妻が車の免許を取ると言い出した。免許を取ったら、ほどなく、外に働きに出るとも言う。それもやむなしと僕は思った。二人の子供は、不出来ながらも、じき大学には行かせねばならなかった。何十万というカネが必要だ。現状の家計では、そんな余裕はない。妻は建設会社に就職した。前に数学と絵が得意と書いたが、彼女は就職してさほど時間のたたないうちに二級建築士の資格を取った。さらに一級を目指して頑張るという。いまだ稼ぎの少ない男として、この流れに異論を唱える資格はなかった。
働きに出た妻の日常は大きく変わった。帰宅は8時、9時。そして、最大の変化は家庭内別居という事態に至ったことだ。子供部屋にするため、一部を倉庫としても使うために、母屋から30メートル離れたところにある古い家をその1年ほど前に買っていた。そこに妻は移り住んだ。僕から離れたかったか、毎晩の遅い帰宅を負い目に感じなくてすむからか、彼女の胸の内は今もわからない。明確なことは、ほとんど日付が変わる時刻に帰宅するようになったことだ。深夜近く、僕は母屋から外に耳を澄ますクセがついていた。近隣には家がない。だから車の音で妻の帰宅だとわかる。こうして変則的な「家庭内別居」はいつしか日常化した。妻の実家ではその事実をまだ知らなかった。電話がかかってくる。ちょっとお待ちください、そう言ってから庭に走り出る。実家から電話だよ・・・ドア越しに声をかけ、彼女も小走りで母屋の電話口にやって来る。奇妙な暮らしだった・・・。
離婚してかれこれ10年が過ぎた頃だったろうか。道路沿いで仕事をしているところに近所の高齢の女性がやってきた。現在は10数軒あるが、僕がここに引っ越して来た時には3軒しかなかった家。その1軒の老婦人だった。よもやま話をしばしした後、彼女は、もう昔のことになってしまったからいいと思うけど・・・・そう前置きしたのが別れた妻のことだった。老婦人には、妻と同じ業界、しかもほとんど同じ地域で働く娘さんがいた。その娘さんが、何度も、男性とともに飲食店に出入りする妻の姿を見たという。つまり、僕にとっては単に帰宅の遅い妻だったが、老婦人と娘さんの間では、我が家の崩壊状況がリアルタイムで把握されていたことになる。
しかし、この話を聞かされた僕の心は、ざわつくとか、いらだつとかということは全くなかった、時間がたっていたから、もう過去のことだから、そういった理由ではなかったと思う。むしろ、そういう状況を作ったのは自分だという反省の心の方が強かった。もはや身内ではなく、別れた人だから言ってもよかろう。彼女は美人だった。年齢も40代。言い寄る男がいても不思議ではない。長く夫の頑固一徹のふるまいで緊張状態を強いられた女性が働きに出る、しかるべき稼ぎを手にするようになる。そして、同僚や仕事先の人間と飲食を共にすることもある・・・。そこから男女の関係となる場合がもしあっても、世間では何ら不思議なことではない。そこに至る道筋をこしらえたのは、他でもなく、オレ自身だったのだ。妻を女として見ることを怠り、願うことは、植えた果樹の苗木がいっときも早く実をならせること、考えるのは真冬でも野菜を途切れないようにするにはどうすればいかということ、それだけだった。二人の関係はもはやこれまで・・・妻がそう考えたとしても不思議ではなかった。その日、近所の老婦人が語ってくれた「内緒話」にほとんど驚くこともないまま耳を傾けたのだった。
さて、これから書く、そして引用させていただく話が、僕の「外からの刺激」、その二つ目である。師走に入った頃の「天声人語」。主題は僕と同じ年齢で亡くなった放送作家・喜多條忠氏のことだった。名作『神田川』の歌詞は手もとにあったチラシの裏に30分で書き上げられたものだという。歌に描かれたのは喜多條さん自身の恋。早稲田の学生街にある狭いアパートで同級生の女性と暮らした・・・。僕くらいの年齢ならば、洗面器に入った石鹸がカタカタ鳴る、あの銭湯の場面に誰もが胸を熱くして聞いたであろう。天声人語はこう書く。
早大を中退し、放送作家として働き始めた。25歳で書いた「神田川」で人生が動く。手がけた歌が次々に流行した。一方で家庭を顧みず、競艇や競馬の街を転々。愛想をつかした妻は、幼子2人を置いて家を出たという。「生きることは遊ぶこと、そして書くこと」。かつて本紙の取材にそう答えた。無頼派の詩人は74年の人生を濃く太く生き切る。時代を鮮やかに映す多くの名曲が残された・・・。
僕は45歳になっていた。ボツボツとお客さんは増えているとはいえ、単価2000円では売り上げはまだ知れていた。それよりも困ることは、今はごく普通に行われる宅配便が一般的ではなかったことだ。仮にそれが出来るとしても、お客さんに送料を負担させるわけにはいかない。農家としてどうにか動き始めた当初、僕は片道1時間半を要する所までも自分で車を運転して配達していたのだ。そして・・・「悲劇」は起こった。出先から帰ると、家には誰もいなかった。いつも通り家にいたのは猫と犬と山羊だけだった。「神田川」と同じ、僕は妻に愛想をつかされたのだ。妻の決意に子供らも賛同し、3人は最低限の身の回りの品だけ持って去って行ったのである。
今思う。喜多條さんは競艇や競馬に熱中し、家庭を顧みなかった。それに比べたら、ギャンブルとはまるで無縁だったオレなんかまだマシな男ではないのかい・・・いったんは天声人語を読んでそう思った。だが、待てよ。白と出るか、黒と出るか。丁か半か・・・会社を辞めて百姓になろうとした夫の姿は、妻の目にはギャンブルそのものだった。たまには大穴を当ててイヤリングのひとつも買ってやっていれば時間稼ぎもできていたかもしれない。しかし現実は・・・・もはや僕の負けは明白であった。そして、ふと、僕はこうも考えるのだ。広い世間には、ミュージシャンになりたい人、アートで身を立てたい人、作家になりたい人、プロのアスリートになりたい人、IT関連で起業したい人、夢に向かって情熱をたぎらせる人は数多い。だが、その夢を現実にする人はどれほどの割合だろうか。仮に現実のものとなっても、そこに至るまでの苦しみや経済的な苦労は小さくはなかったろう。思えば、それらはいずれも、前向きな「人生のギャンブル」なのではあるまいか・・・。
かくして男の一人暮らしが始まった。おそらく、心身ともわが生涯において、あれは最も不健康な時代であったろう。まずは食べ物。プロ級の腕だった妻の食事から見ると、もはや食事とも言えない粗末さ。本職である畑仕事とは別に、ゴミ出し、洗濯、掃除、布団干しの日々・・・ノルマでないのは育児だけ。料理が手抜きになるのは当然のことだった。皮肉にも、そうした状況の中、口コミでお客さんの数はだんだんに増えていった。いかに配達で出かける時間を短縮するか。早く家に戻ってやるべき作業をやらねばならない。その焦りで車の運転が粗雑になっていたのだろうか。軽微なこすり事故だが、3回ほどやってしまった。
でも今となればそういう過去も懐かしい。20何年を経た現在の僕は、家事の切り回しには格段の上達を得た。天気の良い日、ランニングに出かける前に洗濯機を回しておく。帰宅したら、洗濯物を干しつつ、布団も干し、珈琲メーカーや電気ケトルや調理鍋を太陽光発電につないでおき、ゴミステーションに向かう。手を洗って居間に入るころには朝食は仕上がっている。料理のレパートリーだってうんと増えたぜ・・・。人間、窮すれば通ず、かつ、何事もなせばなるらしいのである。
さて、今回の話はここまでとしよう。パソコンのキーを叩く僕の手もだいぶしびれてきたから。いや、そんなことよりも、かようなミゼラブルな話を長々と聞かされる読者の心の方が僕の手よりもずっと疲労感がまさっているに違いない。ただ、僕が書こうとしていることは、まだ終わりではない。四楽章に例えると、離婚後の独り身となった男の暮らしという一楽章が残っている。それを次回に持ち越す。次回は別の主題だが、その冒頭に最後の楽章は書くことにする。
ただし、第四楽章の最終部分に書くつもりの事柄について今ここで、少しばかり触れておく。僕は死ぬ前に妻と子に会いたい。迷惑をかけた、すまなかった、そう謝りたい。許しを請うためではない。許してくれなくてもいい。感動的な和解のシーンを期待するわけでもない。ただ、心のひっかかりだけを解消して死にたいのだ。新年早々、僕は75歳になる。間違いなく人生の第四コーナーだ。有名人の死亡記事を目にするたび、自分に残された時間がさほど多くはないことを知る。
30年会っていない我が子はいずれも50歳に近い年齢になった。人の一生が、思うに任せない凸凹道であることを、もう十分にわかる年齢かと思う。そんな彼らに、ごめんよ、お父さんは自分のやりたいことを追いかけるあまり、おまえたちには苦労させてしまった。そう一言だけ伝えたい。もし再会のチャンスが得られるとなったら、僕は手に持てるだけの野菜や卵や果物を彼らに届けようと思う。じつは、妻も子も、僕が作ったものをほとんど食べてはいないのだ。とりわけ果物は、彼らが家を出た時にはまだ苗木だったのだ。それが今、柿もプラムもキウイもミカンも、どっさり収穫できるようになった。これを食べてみてくれ・・・少し照れ臭い場面でもあるが、そう言って僕は、もし可能ならば、3人とハイタッチでもして、じゃ、これでなと最後の別れをする。そして猫のシロが待つ我が家に帰る、そんなふうに考えているのだ。
12月中旬の野菜だより
いよいよ冬本番という寒さが到来した。今日12月14日、曇天から小雨。日中の気温は6度だった。たとえ晴天の日でも、午後4時にはもう光は消えてしまう。寒さ自体のキビシサは1月にかけてのこれからだが、百姓の気持ちとしては今が最も辛抱のしどきかもしれない。世間はクリスマスムード一色なんだが、僕は全く違う意味でクリスマスを待ち焦がれる。すなわち、僕にとってのサンタクロースは「冬至」という名のそりに乗ってやって来るのだ。そのサンタが目の前に姿を表すと、さあ、光が戻ってくる。明日からはチビリチビリとではあるが日照時間が長くなる・・・・そう思う、喜びが募るのだ。
さて、今この時期、僕が最も時間を取られ、精を出すのは果樹の剪定である。脚立を使って切らねばならない木だけでも50本はあろうか。果物に関しては、あまり大きなことは言えないのだが、来年の実成りを左右するのはこの剪定作業にかかっている。その基本としては、花芽がどこまであるかを確認し、花芽のないまま長く伸びた枝(徒長枝という)は15センチほど残してカットする。この残した15センチに来年花芽が付いて再来年の実となる。切るのは徒長枝だけでなく、たとえ花芽を持っている枝でもクロスしているような混雑部分は切って数を減らす。実が肥大した時、接触するほどの狭い間隔だと傷むからだ。この下の写真はプラムである。僕の指先に見えるのが花芽で、小さなひと粒がひとつの花、すなわち最終的には一か所に平均5個くらいの実となる。
まだ家庭菜園レベルという方でもブルーベリーを植えているという人は多いのではないか。現在、僕のブルーベリーは紅葉の真っ盛り。晴天の日に見るこの鮮やかな赤はとても美しい。しかし、いつまでも見とれていてはいけない。これも剪定しないと良い実は付かない。すでにこの時期、来年の花となる蕾がはっきりと見える。一方で、花芽のない徒長枝は旺盛に、すさまじい数で伸びている。それをバサバサと切り捨ててやろう。同時に、年数のたった枝の表面は黒くなっているからすぐわかるのだが、それらも地際からバッサリと切り捨ててしまおう。
さて、話を野菜の方に移そうか。現在畑にあるものを、これからさらに募る寒さの中でどれだけ維持できるか。これも自給自足において大事なことである。一例としてブロッコリー。僕のブロッコリーは今が最盛期。大きくなったものを順次、お客さんに送ったり、自家用としたりしている。そのブロッコリー、中心を取った後に春まで脇芽が出続けることはどなたもご存知であろう。しかし、その脇芽も、手入れ次第で大きくなったり、小さいままだったりする。うまくやれば、脇芽といっても小さな電球くらいのサイズにはなる。どうすればいいか。まず、ゆっくりと効いてくる堆肥をタップリ施してやろう。そして、この時期のブロッコリーは北風にあおられて根周りが浮いてしまって弱体化していることが多い。ゆえに、施した堆肥をまぜ込むようにして、けっこう高く、株周りに土を盛ってやることだ。そうすることで、風に揺られるダメージを減らし、株に活力が出る。
前に書いた、ビニールトンネルの上から古い毛布や布団を掛けて作っているピーマンとインゲンは、今日現在まだ収穫できている。ピーマンはすでに何年も経験しているのだが、インゲンを師走まで作るというのは今年が初めてだった。まさしく夏野菜であるインゲン。それが夜間の気温5度という条件でも、やや小ぶりとはいえ、立派に出来るのだということを僕は確認した。ビニールトンネルの上から掛けた毛布、布団、シートなどの枚数は5。これでもってビニールトンネルの中は10度ないし13度を維持する。これだけの温度があれば、インゲンは花を咲かせ、実を着けるということを僕は知ったのだ。夏のものに比べるとささやかだが、真冬のインゲンがこれほど美味であるとは思わなかった。
あと、やはり防寒を施して作っているイチゴも、少しずつ実になりかけている。まだ青いが、次回には赤い実の写真を載せられるかもしれない。
他に目を移すと、僕の畑には普通のレタスとサニーレタスも今トンネルの中にある。普通のレタスはまだ小さい頃に何度か激しい雨に叩かれて芳しくないが、冬至を過ぎて少しずつ光が戻れば結球してくれるはずだ。もう一方のサニーレタスは順調だ。最後の写真のサニーレタスは植えるのが最も遅かったぶん。大きく育ったものは別の場所にある。キク科であるレタスは、ブロッコリー、キャベツなどのアブラナ科と違い、虫が付かないところがいい。
今日現在、僕の畑にある作物を羅列してみる。これから本腰を入れて野菜作りに取り組みたいと思っている方には参考になるはずだ。さっきまで取り上げたピーマン、インゲン、ブロッコリー、レタス以外には・・・。
タマネギ、長ネギ、ニンニク、ラッキョ、人参、大根、ゴボウ、カブ、ホウレンソウ、小松菜、白菜、キャベツ、チンゲンサイ、エンドウ、ソラマメ、セロリ、ヤーコン、キクイモ、サトイモ、ヤマイモ、タアサイ。
そして、僕は本論で使った写真のように、大きなハウスを今組み立てているのだが、そこで、立春になろうとする頃、苗ものを作る。ハウスだけではまだ冷えるから、ハウスの中にビニールトンネルを仕立て、夜間にはそのトンネルの上に毛布などを掛けてやる。そうして育てる苗は、トウモロコシ、トマト、ピーマン、ナス、マクワウリなど。また同じハウスの中ではジャガイモの芽出しもやる。以上、少しは参考になるのではないだろうか。
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中村顕治(なかむら・けんじ)
1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
https://ameblo.jp/inakagurasi31nen/
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