中村顕治
今回は食べ物について、あるいは料理について書きたい。これは、前回のテーマと関係する。前回はテーマ全てを書き終えられなかった。四楽章に例えて、最終楽章が残ったままとなった。その最終楽章とは、30年前、妻と子供らに愛想を尽かされ、悲しくも、みっともなくも、40代半ばで独り身となった男が、その後、どのように暮らしたか。「突然炎のごとく」訪れた哀れな生活の部分だ。今回は、前回ペンディングとなった最終楽章を書くのだが、それは、とりわけ食生活に焦点を当てながら書こうと思う。人間、やはり、何をどう食べるかは大事。特に、精神的苦境に立たされた時、悲嘆に暮れて食事をおろそかにしたら苦境がますます苦境となり、そこから這い出すことさえ難しくなる・・・自分の経験を通してそう思うからである。
一般的に、農業はオフィスワーカーに比べると体力の消耗が激しい。加えて、機械がいっさいない人力頼みのこの百姓にとって、日常的なカロリー摂取は必須である。前回、独り身となった後の食生活はひどいものだったと書いたのだが、それは、世間で言う「料理」のさまとはかけ離れた、(かつて誰かが僕の作る食事を見て山賊料理だと言ったのだが)、姿がひどいという意味で、食材そのものは百姓の特権、世の中の標準よりはいくらか豊かであったろう。食うために、ひたすら、何年間か、誰も見ているわけではないゆえ、山賊料理で腹を満たしていたのだ。そんな僕の食事も、歳月とともに少しずつ料理の体をなすようになったかも。その一端を写真で示しつつ、食の大切さ、合わせて体を動かすことの大切さを今回のテーマとしたい。
そして・・食べる物について書くと同時に、ときには、過去30年間にあった素敵な出会い、素敵な女性たちとのことも「ビー音」が鳴らない範囲で書いてみようかとも考えている。妻子に見捨てられた男もその後ささやかな幸せに恵まれた。どうやら、捨てる神あれば拾う神もあるらしい・・・バタバタと過ぎ去った30年という歳月。その間に出会いの機会を得た数人の女性のことを、もちろんノロケなどというものでは全くなく、クールに、人生における出会いの妙、そして男と女の理想的なかかわりとはいかなるものか、自分の心や体は離婚以後どんなふうに変わったのか、そういったことを考えながら明るい気分で記してみたいのだ。
一枚目の写真は、12月20日、今シーズン最後の収穫となったピーマンとインゲンである。この日までの数日間、最低気温は連日零度近くだった。いずれの野菜にも夕刻、厳重な防寒をして朝を迎えさせるのだが、ついにこの日、見切りをつけねばならなくなった。そのままでも、まだ何日かもつであろうが、これ以上寒い思いをさせるのは可哀想・・・当日の朝、夜の冷え込みを必死に耐えたというその顔を見て、もはやここまで、そう決断したのである。まっとうな出来のものはお客さんに送り、写真は不出来なものの寄せ集め。僕はこれを、生姜をいっぱいすりおろし、豚肉とともにカレー味に仕立てた。けっこう美味であった。12月20日収穫はピーマンの場合は過去のタイ記録、インゲンは新記録であった。
いきなり独身生活に戻って、何が大変だったか。やるべきことの多さである。そうか、家庭の主婦というのは、こんなにも多くのことをやっていたのか・・・百姓仕事との兼務で「主夫」業を始めた僕はそう思った。百姓の暮らしには会社員よりも多くの洗濯物が出る(梅雨どきは靴下だけでも1日3回取り換える)。それを洗って庭いっぱいズラリと干し、畑仕事の合間に取り込む。部屋や庭のゴミを集めて集積所に持っていく。布団を干し、取り込む。台所の流しは、もうこれ以上は入らないというくらいの皿、茶碗、鍋でいっぱいになったところで、まとめて洗う。ついでにガス台の吹きこぼしもふき取る。浴槽もこすらなければならない、便器の汚れもきれいにせねばならない、廊下に雑巾がけせねばならない。掃除機なんて使ったことがなかったゆえ、今もってぎこちないのだが、少なくとも来客時には朝からガアガアとやらねばならない・・・そんな合間に三度のメシを作るのである。山賊料理もいたし方なかった。
日暮れの早い今は、だいたい6時くらいに部屋に戻る。もうあたりが見えないというところまで畑仕事をし、毎日のノルマである腹筋と懸垂とストレッチを30分くらいやると6時なのだ(夏場だと7時半だ)。浴槽に湯がたまるまでの15分間くらい、昼間のうちに下ごしらえしておいた野菜を肉と合わせ、さてどんな味付けにしようかと考える。醤油、カレー、ソース、オリーブオイル、クリームシチュー、ゴマ油、それと10種類くらいのドレッシングが買いそろえてある。僕は食べることにかなり情熱を傾ける。生まれたのが貧しい時代だったせいか、腹いっぱい食べたいという欲求がある。忙しいからカップラーメンですませておくか・・・そういうことはしたことがない。最近のラーメンは1200円もするものがあって、もはや貧しい食べ物ではなくなっているらしいけれど、昭和30年代、カネのない若者は50円のラーメンでとりあえず腹を満たしていた。そのトラウマがあるらしく、僕は家でも店でもラーメンを口にすることはない。
夕食には必ず肉と魚の料理を1品ずつ作る。生まれた家が魚問屋だったという理由とともに、摂取する蛋白質はどちらか片方ではなく、両方が望ましいと考えているからだ。魚は残念ながら、農村地域である当地のスーパーには僕が願う種類が少ない。それゆえ、アマゾンや楽天を通してドカンと10キロセットを購入し、冷凍庫に保存しておく。丸ごとの魚をまとめ買いするのは、頭や内臓などの食べ残しがチャボの餌になるからだ。魚をさばくテクニックは父親の包丁使いをいつも見ていて覚えた。ついでに書くと、世の中には冷え性に悩む人はけっこう多いらしいが、細身の体でありながら、僕は寒さに強い。気温5度で強い北風、そんな日はキビシイものだが、支障なく畑仕事が出来る。こうして書いている今夜の室温も3度ちょっとだが、どうにか耐えられる。筋肉量と関係するらしい。人体の保温に寄与するのは筋肉。筋肉を増やすと代謝が上がり、免疫力の増大にもつながるということなのだ。その筋肉を保持・増強するには肉や魚の蛋白質が必要と考え、僕は必ず2つの料理を作るのである。
さて、今日の朝食は、茹でたホウレンソウにシーチキンをまぜ、ユズをすりおろしたおかず、それにクリーチーズをのせたライ麦パンだった。僕はパンにもけっこうこだわる。白いご飯にはほとんどこだわりがないが、パンの味にはちょっとうるさい。で、こうして食卓に黒い色をしたパンが乗ると、思い出すのはロシアの黒パン、そして、モスクワでのあれこれの経験である。僕はおよそ20年にわたりロシア語を勉強した。主にテレビやラジオでだったが、サラリーマン時代、東中野にあるマヤコフスキー学院という夜の学校に通ったこともある。講師は早稲田露文科の先生で、生徒もほとんどが早稲田の学生だった。
どうしてロシア語か。若い頃、バイト先で知り合った僕よりひとまわり上の人の言葉が影響した。その人は言ったのだ、「言葉の響きでいちばん美しいのはロシア語だ・・」と。その人は作家として世に出ることを目指していた。鎌倉の自宅を尋ねると、壁に小さな紙がいくつも画鋲で留めてある。ワープロもパソコンもない時代、頭に浮かんだ小説の場面を走り書きして壁に貼っていたのだ。
僕がロシアに足を向けることとなったのは離婚と関係する。ロシアに行ってみたいとの願いはずっと胸の内にあった。だが、会社を辞めて百姓になったという我儘に加えて外国旅行なんてできるはずはなかった。しかし離婚でもって僕の心が変わった。先立つものはカネである。飛行機はロシアのアエロフロート。繁忙期を外せばJALの半額くらいでモスクワに行けた。そうはいっても万という単位のカネだ。それをどうやって稼ぎだしたか。
百姓仕事が軌道に乗るまで、僕が中学生の英語塾をやっていたという話は前に書いた。授業は主に学校の教科書に準じた内容だったが、もう一歩先、英検3級を受けたいという生徒もかなりいた。そういう生徒のために毎週日曜の午前、特別授業を設定した。授業料は・・・合格したらもらうヨ、不合格者は不要だヨ、お母さんにそう言っといて・・・とした。これまたやりくりがハードな時間であったが、飛行機代を稼ぐために必死。幸いにも3年間くらい、不合格者はほとんど出なかった。もうひとつの幸いは、かつての生徒で今は高校生になっているO君が愛犬の散歩をするバイトに快く応じてくれたことだ。それで家をあけることが出来た。
モスクワで親しくなったのはバレリー・ショルーノフという人物。彼はモスクワ大学のフランス語教授だった。ソ連崩壊で大学に見切りをつけ、外国人を対象として語学教室を開き、民宿のようなものも営んでいた。その彼と、僕は夜ごとウォッカを飲む仲となった(ついでに書くと、水のことをロシア語ではヴァダーという。呑兵衛な男がごまかしと言い訳で、こりゃ酒ではないよ、水みたいなもの=ヴォートカだよという言葉を考え出したとの説がある)。そのバレリーがモスクワ市内のガイド兼、お茶友達として何人かの女性を紹介してくれた。北ベトナムでの勤務経験がある公務員とか、国会図書館勤務とか。彼女たちはいずれも英語が堪能だった。そんな女性たちの中にカルベンコ・ラリッサがいた。両親は離婚。自分自身も離婚。母親と暮らしていたが、新たな家庭を持っている父親を強く慕っていた。
その彼女と気持ちが通じ合った。僕が帰国後も、頻繁に手紙や電話をくれ、一度ニッポンに行ってみたいとなった。そして来た。彼女は当時飼っていた犬のマサオと毎朝散歩に行くのを楽しそうにやってくれていた。だが・・・来日3か月、目を覚ますと姿がなかった。あちこち探したが、すでに成田空港に向かった後だと知った。心身ともに逞しさを欠くデリケートな人だった。季節も悪かった。6月というのはロシアでは最高の季節だ。対してニッポンの6月は梅雨。湿っぽく、やっと晴れたと思えば高温だ。おそらくカルチャーショックとウェザーショックが彼女の気持ちを狂わせたのだろう。モスクワに帰ってからも手紙が立て続けに来た。もう一度ニッポン行きたいというニュアンスもあった。しかし僕は断念した。たぶん彼女の心身はここの生活には堪えられない・・・と。
僕が太陽光発電を始めてからそろそろ4年になる。これまでの投資額はかなりだし、メンテナンスにもけっこう手間もかかるのだが、やはり有益なものである。災害で停電となっても憂えることはない。電気代も月額5000円ほど節約できる。仕事の合間、商品にならない野菜を洗い、切り、その太陽光発電に接続した鍋に投げ込んでおく。上の写真のように、朝のうちにやっておけばランチ用が、昼間にやっておけばディナー用が畑仕事をしている間に出来上がるのだ。大根を洗って切る。カボチャの皮をむく。ヤマイモを金たわしでこする。大豆を選別する。どれもけっこう手間である。しかし・・・不器用で、計画性にも欠ける僕の唯一の特性は、そんな作業を面倒くさがらないことだ。例えば荷造りの時。お客さん用に掘り取った芋や豆や大根などから、商品にならないものをさっと仕分けして、ただちに鍋に投げ込み、煮ておく。そしてすぐさま畑仕事を再開するのだ。
太陽光発電を始めてから、さまざまな調理器具を買った。僕の特質は、面倒くさがらないことと別にもうひとつある。熱中するとトコトンやってしまうことである。太陽光発電そのものにけっこうなカネをかけた上にさらに部屋を占領するほどの料理器具・・・やりすぎかと自分でも思わないことはないのだが、買いそろえた数種類の圧力鍋、そしてケトル、蒸し器、果物乾燥機、モヤシ製造機などが、料理への情熱を高めた、娯楽と研究を兼ねた楽しいこと、それが料理ということになったのだ。今では食事だけでなく、キウイ、ユズ、ポポー、サルナシなどのジャム作りもやる。
この上の写真、スプーンですくっているのはポポーのジャムだ。秋の初めに熟すポポー。足が速く、木から落下して3日もしないうちに傷みがくる。もったいない・・・それで今年はかなりの量のジャムを作ってみた。仕上がりまでの時間が少なくてすむだけでなく、他のジャムと比べてナンバーワンの味である。今年は冷蔵庫に入る器に限りがあったが、来年は、しかるべき保存容器をいっぱい買ってジャム作りに精を出そうと考えている。
ベーグルに初めて出会ったのは20何年か前のことだ。それまではベーグルという呼び名さえ知らなかった。場所はニューヨーク。ニューヨークマラソンのフィニッシュ地点でボランティアの人たちが差し出してくれたのがベーグルだった。それまで、もう10年ほどフルマラソンを走っていなかった。そんな僕が突然ニューヨークに行って走ろうという気になった、その理由は自分でもよくわからない。もしかしたら、独居生活でしぼみかけていた自分の心を復活させたかったのかもしれない。ここでも問題はやはりカネで、ツアーは最安値コースを選んだ。ホテルは相部屋。レース前、レース後のオプションツアーもなし。ニューヨークへの出発前、ともかく長い距離を体に覚えさせねばならないと、畑仕事を終えて暗い道を走ったりして準備した。30キロ地点までは快調だったのに、そこから先にバテが来た。やはり強行軍がまずかったかなあ・・・それと、相部屋の青年のいびきに悩まされたのもマイナス材料だったかも。他人と同宿すること自体がストレスだが、なんとその青年、ものすこいいびきをかいたのだ。僕はよく眠れないままのレースだったのだ。
レースとしては不本意だったが、ここでも思いがけない出会いがあった。Sさんという女性と言葉を交わした。聞くと、日本国内はもとより、ハワイやオーストラリアでのマラソンも走ったことがあるという。40代後半。若い頃に離婚し、シングルマザーとして働きながら2人の子を育てている人だということも後でわかった。この出会いからしばらくして、仕事の休みの日に彼女がうちに来て、一緒に走るというお付き合いが始まった。スピードはないが、さすが、フルマラソンだけでもかなりの数の場を踏んでいるだけあって、アップダウンの多い道でも音を上げることはなかった。
ランニングというと、普通は足腰の筋肉が鍛えられる、そう考える人が多いが、足腰の筋肉以外にも、なんと、脳が活性化されるのだということを僕は何かで知った。20代半ばで始めたランニングで、これまでの走行距離は15万キロくらいになるだろうか。ランニングは僕の暮らし、我が人生の基本部分で、天気が悪いから、寝不足だからという理由で今日は走るのをやめとこう・・・ということは全くない。ただ、自分の脳がほんとに活性化されているのかどうかは不明だ。ついさっきまでに手にしていた物を探し回るということは頻繁だから。それでも・・・あと10日で75歳になることを思えば、少なくとも、足腰の筋肉とともに脳も、ランニングが自分の老化をいくぶん遅らせているであろうことは確かな気がする。
冬の今、台所で食事の準備をするたび思う。寒いなあ、暗いなあ、それに比べて積水ハウスはいいなあ・・・。我が家は玄関が西、台所は北。台所仕事には昼間でも電気が必要なのだ。もっとも、我が家に限らず、昔の家はたいてい北側に台所があったのではないか、光を取り入れるのは居間や寝室が優先だということで。離婚して何年間か、その寒くて暗い台所で「自炊」すると、否応なくもの悲しさが募ったものだ。もし、ブルブルと来る寒さの中で働いて、畑から上がって、「アナタ、お風呂になさいます? それともお食事を先にします?」・・・そんな声が聞こえてきたら男ってどれだけ幸だろうか・・・。でも運命は受け入れる、自分でまいた種は自分で始末せねばならない。暗くて寒い台所で僕は奮闘を続けた。
作るのが面倒だから外食するという考えは思い浮かばなかった。店が遠いというせいでもあったろうが、野菜をタップリ食べたいという僕の願いをかなえてくれる店はなかったからだ。そのうち要領をつかんできた。風呂のガスを点火し、鍋をコンロに掛けて、風呂が沸くまでの時間、食卓を整え、風呂上がりに着るものを準備する。畑仕事で汚れたものを洗濯機に投げ込んでおく。そして湯舟で新聞を1紙読んで出てきた頃には料理がほぼ仕上がっている・・・。
食事作りの要領は良くなったけれど、寒くて暗い台所は昔のままだ。家がだんだん傷んできたぶん、冬の寒さは離婚直後よりずっと増したかもしれない。そんな僕の胸に浮かぶのは、積水ハウスをはじめとした住宅メーカーのゴージャスなCMだ。広々とした輝くようなカウンター。そこに調理器具が整然と並び、大きなシンク、立派過ぎる食器洗い機、天井から下がる洒落た照明・・・・なんたって、僕が感動するのは明るいことだ。カウンターの正面には大きなガラス越しに庭の緑が陽の光に映えているのだ・・・。僕は五右衛門風呂と、飯はカマドで炊くという時代を知っている。カマドの後ろの壁は真っ黒で、薪の煙が部屋に充満している・・・そんな時代からたった60年だ。この生活変化は、もしかしたら産業革命による社会変化にも匹敵するほどのものではないのか。積水ハウスのCM、あの甘やかな歌が好きだということを以前書いたが、広くて明るくて美しい、まさしく超モダンなキッチン・・・テレビでいっとき、僕は素敵な夢を見させてもらうのである。
ちょっと話を横にそらすけれど、夫婦共働きが一般的となった今、男女平等の一環として家事の分担というのも多くなってきたらしいことを、僕は新聞やテレビで知る。そして、(ついに)、男の方の育児休暇というのが普及しつつあるらしいことも聞く。これは、僕の感覚では、明るく美しく広い、あの積水ハウスのキッチン以上の生活革命だ。男は外で仕事、女は家事育児、そんな思想に自分は染まっていたんだということを前回の原稿に書いたけれど、こうなると、僕みたいな人間は絶滅危惧種に指定されてもおかしくない。
育児まで含めた男女平等の家事分担。それを素直に喜び、頑張る男性がいる一方、なかなか大変、キビシイと、正直に気持ちを吐露する人も少なくないということを、アンケート調査を読んで僕は知った。家事の大変さは、なんたって、やるべき項目の多さであろう。ひとつひとつは「小」であっても項目が多いと人の心は疲れるものだ。僕は、一歩間違えばゴミ屋敷・・・その土壇場でなんとか踏みとどまり、掃除洗濯をし、ゴミを出し、三度の食事を作ったけれど、男女平等という理想論だけでは片付かない大変さが現代の若者の肩にかぶさっているであろうことは想像できる。
そして、ひとつの問題点に僕は目が行く。それは、皿洗いでも掃除でも洗濯物の取り込みでもいい、すべての作業に判定を下す人がすぐそばにいるという点だ。男にとっては妻、ときには妻にとっての男。人の心がキメ細かさを持っていればいるほど、相手方のなすことに不満が募る(ごく最近「家事やらない夫に不満」という新聞の記事を見た。妻が洗濯物を畳んでと頼むと、畳みはするがそこにほったらかし。おむつを取り替えてと頼むと、汚れた方のおむつはそこに投げ出したまま・・・)。だから僕は思うのだ。完璧を求めない、偏差値ならば55くらいで合格としてあげたらどうだろうかと。洗った皿の端にカレーの痕跡が残っていても、取り込んだ洗濯物がきれいに畳まれていなくとも、アハハッと笑ってすませる。僕の事例が参考になろう。目を凝らせば洗った皿にはジャガイモのかけらや小さな魚の骨が付いていたりする。洗濯物は分離も畳みもせず、軽トラの荷台から取り出した大きな段ボール箱に、その日洗ったセーター、シャツ、パンツ、靴下をどんどん投げ込み、部屋に運び込む。使う時はそこから必要なものを探し出せばいい・・・。
この粗雑さは、そばでジャッジを下す人がいないから出来たことである。そして、こうした粗雑な日常生活が人生の根幹を揺るがすなんてことは僕の場合にはなかった。僕は晴れたら、部屋の惨状には目をつぶり、布団干しと洗濯を最優先する。離婚後の悲しみの中でさえ、万年布団にはついぞ縁がなかった。毎日、太陽の匂いのする布団に寝ていたし、段ボール箱には洗濯された衣類が山ほどあって、昨日のシャツやパンツを今日も使うなんてことも皆無だった。それで風邪ひとつ引くこともなく、独身生活を乗り切ってきたのである。世に「人間、ホコリでは死なない」という、やぶれかぶれめいた言葉がある。期せずして僕はそれを実証したことになる。あの、葛飾北斎は生涯93回の引っ越しをしたらしい。弟子が描いた絵には桜餅の入っていた籠や寿司の包みなどが散乱する。食事の準備や掃除もせず絵に没頭、部屋がどうにもならないほどに汚れたら引っ越しする。それが93回という転居になったのだそうだ。いかなる人生においても優先順位というものがある。僕は畑仕事が第一、その次に食事、布団干し、ランニング・・・部屋の掃除は最後尾の項目だった。独身だからこそ出来たことである。そばでジャッジを下す人がいないという暮らしは、部屋の中はダーティーでも、心の中は意外なほどクリーンで平穏で、アグレッシブ・・・僕の小さな発見である。
積水ハウスの話にちょっと戻そうと思う。ゴージャスなキッチンそのものにも感動なのだが、キッチンカウンターの目の前に光の降り注ぐ庭がある、風にそよぐ緑がある。あのテレビCMが流れるたび、それに僕は魅了されたのだ。ひるがえって我が家。寒くて暗いキッチンをよそに移すなんてことは今さら不可能だが、珈琲を沸かし、パンを焼き、食べる・・・その場所にたっぷりの光が当たっているなら十分じゃないか・・・これが、太陽光発電を始めてからの4年間、大小合わせて4つのテラス(もどき)、茶室(もどき)をDIYで作った理由である。どこに行っても電気が通じている。その条件を作るため、ソーラーパネルからのケーブルが頭の上も足元も這いまわっているというのも部屋の汚れに劣らずひとつの惨状ではあるが、でも、朝日をいっぱい受けながらの食事は人の世の小さな贅沢だ。寒くて暗い台所で作った食事を、これから後の仕事の段取りを考えながらひたすら口に押し込んでいた「あのころ」に比べると珈琲やパンが美味しいのみならず、気持ちもふっくら香ばしい焼きたてのパンみたいになるのだ。
今日は朝食の野菜はキャベツとサツマイモで、夕食にはサトイモと豚肉の煮物を作った。サツマイモは写真のように、小さく切ってオリーブオイルで揚げる。ふかし芋や焼き芋も悪くはないのだが、朝食にマッチするのはこのオリーブオイル揚げである。俺の芋はマックのフライドポテトにも負けないぞ・・・(本当はマックなんて国内では行ったことがない。僕が行ったことがあるのはモスクワ。ソ連崩壊後、社会の変化を真っ先に表したのがマクドナルドの登場だった。それまでのロシアには、予約なしでふらっと入って行けるカフェやレストランがなかった。だからマックは重宝だった。先に書いたロシアの女性たちとのランチに僕はマックを利用したのだった。)
いきなりの独身生活に入った頃の僕は、サトイモの皮は包丁でむいていた。ぬるぬるして包丁が使いにくいし、さらには、僕が食べるのはお客さんには出せない小さなやつとかヒネたもの。あるとき僕は思いついた。まるごと茹でてみよう。それがうまくいった。茹で上がったものに指でちょっと力を入れるだけでクルッと皮はむける。なんだ、今までの苦労はなんだったんだ。このやり方は時間の節約にもなる。泥だけ洗い落とし、鍋に入れ、太陽光発電に接続しておけば、畑から上がるころにはすっかり煮えているのである。シンプルには、すりおろした生姜と醤油味で食べるが、豚肉と煮るもよし、カレーにするもよし。
ああ、それともうひとつ、この下の写真、ヤマイモのこと。普通ヤマイモといえばすりおろして食べる物。僕も初めはそうしていたが、ある時、ふと考えた。スライスしてオリーブオイルとかゴマ油とかで焼いてみよう。焼き上がったら塩コショウかマヨネーズで食べる。美味なのである。ワインのつまみにもフィットするのである。
「おんなは・・・外に働きに出ると、たいてい、はじけちゃうものなんだよねえ」という名言を残した珠ちゃんのこともここで書いておこうと思う。じつは、珠ちゃんは『田舎暮らしの本』の読者だった。プレゼントに当選した彼女に僕は野菜セットを送った。そしたら丁寧な手紙が来た。それからしばらくして、野菜のことを少し教えてくださいという連絡があった。少しばかりの家庭菜園をやっているが、もっと勉強したいのでということだった。
そして、2年後だったか、3年後だったか、手ごろな物件があるので一緒に見に行ってほしいとの申し出があった。偶然にも我が家から車で40分くらいの所。僕は不動産屋との交渉にも力を貸し、家の片付け、庭の整頓にも協力した。家は3DKだったか、庭は30坪くらいあったか。何かの事情で家財道具もそのままに何年も放置されていた物件らしく、僕は家の中のガラクタを片付け、雑草に覆われている庭を野菜の種がまけるところまできれいにしてあげた。
珠ちゃんにも不幸な過去があったらしい。知らぬ間に夫はギャンブルかなんかで大きな借金をこしらえた。住んでいた家を手放さなくてはならなくなった。それで、それまで専業主婦だった彼女は働きに出ることになったという。問わず語りに僕も妻とのことを口にし、すでに家庭内別居状態だった妻との別れが外に働きに出てからの暮らしで決定的になったということを珠ちゃんに話した。そこで返ってきた言葉が、「女は外に働きに出るとはじけちゃう・・・」だった。おそらく、珠ちゃんにも心当たりのあることだったのだろう。彼女は背が高く、グラマラスな美人だった。お世辞抜きの称賛の言葉が幾度もかけられたことだろうし、なかには言い寄る男もいたことだろう。
日々、すぐ近くで顔を合わせる男は夫だけ。それが専業主婦の一般的なカタチである。一緒になって10年、20年たち、子供も2人か3人いるという暮らしの中、いまさら夫は、愛しているヨ、君は美しいヨなんてことは言わない(もちろん言う人も少しくらいはいるだろうが)。アメリカなんかでは特に、愛しているヨは日常必須語らしいと聞くが、何かの本でアメリカ人の男性が書いているのを僕は見た。いつもいつも、愛している、愛している、そう言うのは、正直、疲れるのだ・・・と。わきにそれたが、美しいとも愛しているとも言わなくなった夫に比べると、専業主婦から転身して行った職場の男たちは違う。言葉には出さずとも、その目が、君は美しい、素敵だと言っている。それでもって、彼女が自分の魅力を初めて知るという場合があったとしてもおかしくない。いくらかの下心があったにせよ、女性としての自分に称賛の目が向けられることに、人間、悪い気がするはずもない。珠ちゃんの言う「はじける・・・」にはそういった意味が込められていたのだ。
12月27日、朝晩の、いや、日中も、冷え込みがさらに厳しくなった。この先、気温はまだまだ下がるという。野菜たちの防寒を徹底しないとダメになるな。この日、半日は果樹の剪定に費やし、残り半日は幅540センチ、長さ50メートルという大きなビニールを引っ張りまわし、暗くなってもライトをつけて野菜たちを寒さから守ってやる作業に励んだ。午後6時に仕事を終えて寒暖計を見たら3.4度だった。ああ寒いはずだ。この上の写真は黒大豆と普通の大豆のミックス。昼間のうちに煮ておいて、今日の晩酌のつまみとし、辛子マヨネーズで食べた。僕は商品としても自家用としても、来年春までまかなえる大豆を確保している。その大豆を1日おきくらいに食べている。
今しきりと「代用肉」という言葉が新聞・テレビで使われている。大豆で作られた肉がレストランでも出されるようになっているらしい。僕は週1回くらいスーパーに行くが、牛肉、豚肉が夏頃からかなり値上がりしてきたことを売り場で知る。畜産での二酸化炭素の排出はかなりで、牛のゲップにも相当含まれているらしいから、本物の肉から大豆で出来た代用肉にシフトするのはさまざまな意味で良いことなのかもしれない。ただし、日本人が食べる大豆のかなりの割合が輸入品だ。代用肉がさらに脚光を浴び、世界的需要が高まると豆腐や味噌にも影響が出るかもしれない。それはともあれ、肉と魚、そして大豆の蛋白質が筋肉を作り、体温を保持し、免疫力を向上させる・・・それは確かなことのようである。
さて、僕は今、スー・スチュアート・スミス著『庭仕事の神髄=老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭』という本を読んでいる。著者は高名な精神科医で、自らのガーデニング経験を精神科治療と結び付けての労作である。この本を読みながら、僕は、不意にやってきた悲しき独居生活をどうにか乗り切った、そのひとつの役目を果たしたのが果樹の剪定であったと、寒風は吹き抜けるが、空はどこまでも澄んで青い、そんな中で思ったのだった。前にも書いたが、高い脚立に乗らないと手の届かない果樹だけでも50本以上ある。その50本を重い脚立を抱いて移動し、枝を切るのだ。果樹1本あたり、切るべき枝は100本を下らないであろう。ときには脚立だけでは届かず、片足を脚立に、もう片足をいま切っている果樹の幹に乗せるといった、けっこう危険な作業もやる。
世に「無心」という言葉があるが、さまざまある畑仕事で、果樹の剪定はまさしく無心で行う作業である。無駄な枝はそっくり切る。花芽をつけている枝は無駄に伸びている部分だけを切る。長い経験で、いちいち考えることはほとんどなく、目でとらえて、瞬時、迷うことなくどんどん切っていく。ほんのわずか、手を止めての小休止は、この寒風の中、春の開花をじっと待つ硬く小さなつぼみに目をやる時だ。独身生活になってからの数年間、暗く寒い台所で食事の準備を毎日やった、それとともに、毎年欠かすことなくやらねばならない作業が2か月にわたるこの剪定だった。当時は深く考えたりしなかったけれど、いまこうして『庭仕事の神髄』のページをめくると、自分を苦境から脱してくれたのはこの剪定だったのだな・・・そう思えてくる。剪定の時の目の前の風景は「狭小」なのだ。よけいな物が見えない。よけいな音が聞こえない。心が静まり返る。ときには、仰向けになって切った、けっこう太い枝が顔に向かって落下して慌てたりもするが、自分が動かす剪定挟みのパチンパチンという連続音は・・・何に例えるといいのか、僧侶が叩く木魚の音ほど大きくはなく、庭の築山が見える畳部屋で奏でられる琴の音ほどに美しくもないが、精神を、深く、静かに、単調ではありながら心地よいリズムでもって癒してくれるのだ。周囲の樹木そのものが人の精神に丸みをもたらす。加えて、樹木1本1本に向かい合い、挟みを使うという作業は言葉を持たない樹木と一体となった喜びが伴うのだ。雑念、失意といったものと、いつの間にかほどよく距離を取ってもいる、それが剪定作業みたいなのだ。もちろん未来への希望もそこには重なっている。小さく硬いつぼみを目にして来年の収穫を想う・・・落ち込みかけていた男を救ったのはどうやらそのささやかな「希望」だった。
まだ書いておきたい女性は何人かいる。しかし、もうそろそろ今回のまとめに入らねばならない。割愛させていただいた女性たちには感謝の言葉を贈りたい。短い時間ではあったが、甘く、胸ドキドキの時を僕は与えてもらった、彼女たちは明るい光となってくれた。誰の人生にもつまずきがある。それでも人は、どうにか乗り越えて生きてゆく。人は、他者との出会い、関わりでもって自らの人生を自省することがあり、難渋しかけていた日々の暮らしを快復させることも出来る・・・出会いのあった女性たちの笑顔や仕草、それをいま思い出しながら、僕はそう思う。
割愛したくない女性が最後に登場する。目下のガールフレンド、僕にとってのおそらく最後の人となるであろうフネのことだ。ある時のこと、彼女から電話がかかってきた。魔女か、老婆か、そんなダミ声の声色で、「もしもし、誰だかわかるかい?」電話の主はそう言った。とっさに僕は答えたのだった。わかった、これはサザエさんちのおばあちゃんの声だ・・・。声色は続けた。そうだ、よくわかったな、あたしだよ、フネだよ・・・。以来、彼女の呼び名はフネなのである。僕への呼び名は、珠ちゃんからの「親方」というのを例外とし、他の女性たちはみな「さん付け」だった。しかし、フネだけは、僕を呼び捨てである。まずは原始人と僕を呼び、時にクソジジイとも呼ぶ。メールが来た時の呼び名は「うんと寒いが、ナミ屁、元気にしてるかい、水道は凍っていないかい・・・」である。サザエさんちのフネ、その夫の名前は波平だよね。しかし、ところかまわずオナラをする、もしかしたら女の前でオナラをするなんて男は少ないのかもしれないが、僕はスコップ仕事で力をこめるとオナラが出る。我慢したら仕事にならない、体にも悪い。派手に出す。すぐ後ろにフネがいる。でもって、メールでの呼称は波平ならぬナミ屁なのである。
口が悪い。ひどいじゃないか、原始人だなんて、クソジジイだなんて。しかし、このトシでわかったのだ。人間と人間との関わりは、使用する言葉の表面では測れないと。背後に親愛の情さえあるとわかれば、クソジジイでもオイボレでも構わないのである。一緒にメシを食ってもすこぶる美味なのである。
読んでくださっている方々に向けての、しめくくりの言葉。もしアナタが、いま仕事上でも、プライベートでも、沈鬱な状態にあったと仮定して、食事と運動には手抜きをしないでと僕は提案したい。このふたつは、動物としての人間の大原則である。ナーバスな状態では食欲はなくなるし、運動なんてする気にもならない・・・というのは確かに僕にもわかる。だが、沈鬱な状態から抜け出させてくれるのは、まさに、しかるべき食事、日々の運動なのである。食べて、動く。空を仰ぐ、風に吹かれる。苦しい日々の中でもこのプロセスを実行していると、不思議に人の心、そして筋肉も再生するのだ。その効果は、おそらく、風邪を引いた時の鎮痛薬や解熱剤よりも、緩効性ではあっても確実な効き目がある。心も体も、狭い空間に閉じこもらせてしまうのがいちばん良くない。外に出よう。青い空を見上げよう。鳥の声を聴こう。帰宅したら、手際よく、野菜とベーコン炒め、そしてチーズトーストでも作り、熱い珈琲をいれて、昨夜、ちょっと気持ちが暗くなりかけて、パタンとページを閉じてしまったあの本の続きを読んでみよう・・・。みなさん、どうぞ良いお年を!! 来年もよろしく。
12月下旬の野菜だより
秋の終わりに出された長期予報では、今年は暖冬ということで、僕は少し喜んだ。だが間違いだった。逆だ。むしろ例年よりも厳しい寒さだ。我が暮らしには今それでふたつの不便が生じている。まずプロパンガス、ひねっても点火しない。次にポータブル蓄電器は、ソーラーパネルにつないでも充電作業に入ってくれない。買った時、説明書にはたしか、可動域はマイナス5度からプラス45度の範囲と書かれていた。だとすると、多少の誤差はあるかもしれないが、最低気温はそのあたりまで毎日下がっているということになる。
かくして連日、防寒作業に奮闘する。前日夕刻に掛けたシートや古い布団などを外して光を入れてやるところから1日が始まる。上の写真、中はイチゴ。だいぶ花が咲いている。しかし、零下の気温が何日も続くと授粉の能力は低下する。すでに授粉している青い実は傷みがくる。
防寒シートの上は霜で覆われ、引っ張るとカラカラと音を立てて氷が落ちてくる。右へ左へと移動する僕は、ガチガチに凍った土の上で靴底がスリップし、転倒しそうになることもある。防寒の設備を施していない、丸裸の大根、ソラマメ、エンドウなどは、思わず、抱きしめてやりたいくらい白く凍り付いている。それでも、寒さで死ぬなんてことがないのが植物。なんという強靭さであろうか。人間ならば一夜で死ぬ。ソラマメに関して言うと、以前、寒さから守ってやろう、そうすれば収穫も早まるかもしれないと、ビニールトンネルやハウスの中で栽培したことがある。しかし、アブラムシが大量に発生し、収穫量は露地よりも少なかった。だから今はすべて露地だ。
僕は出荷用のサトイモを掘る。実をもぎ取ったら、こうして親株をすぐさま穴に埋める。穴の深さは40センチ以上。埋めたら土の上からスコップで叩き、近くに枯草があったらそれで覆ってやれば凍死することなく春には芽を出す。
ブロッコリーとカリフラワーは、けして寒さに弱い野菜ではないけれど、零下の気温が何日も続くと花蕾部分が傷む。特にカリフラワーは低温に弱く、凍傷で黒くなる。そこで、ここでも、すでに掛けてある透明のビニールの上から連日、分厚いシートで防寒してやる。次の写真が日中の姿。その次の写真が日暮れになった時の姿。野菜というのは、概して、気温そのものよりも、夜間の冷気がじかに当たることで傷んだり、生長が阻害されたりする。ゆえに、頭の部分をしっかり覆ってやれば、たとえマイナス何度かの寒さの中でも耐えられる。
キャベツ、ホウレンソウ、サニーレタスなどは寒さには比較的強い野菜だ。それでも、品質を保ち、成長を促すためには防寒の設備を要する。次の写真はハウスの中の春キャベツ。前に書いたが、露地では春キャベツの収穫は4月になる。それを僕は2月には商品となるようハウスに苗を植える。すでに結球が始まっている。
ホウレンソウにも今の時期はビニールトンネルを掛けてやる。大きくなったものを選びながら抜き取り、ついでに小さな草を取り、そっと、そっと指先で根元に土を寄せてやる。一般的に、店で売られているものは濃緑で、葉っぱは厚く、幅広だが、それはたいていアクが強い。この写真くらいの大きさの時が、味はマイルドで、いちばんおいしい。
冬は、気温が低下するだけでなく、冷たい北風も頻繁に吹く。気温5度で10メートル近い風となると、動いていても体温を奪われる。それで水仕事でもしようものならちょっと悲惨である。そろそろ限界という頃、熱い珈琲をいれ、お菓子をつまむ。シアワセな時である。苦難の後の幸せは、たとえ小さいものであっても、その喜びは実体よりも大きく、嬉しい・・・野良仕事でのみならず、これは人生万般でも言えることではあるまいか。
今日のお茶タイムには、ささやかなれど、オマケがついた。イチゴである。11月にビニールハウスに苗を植えた。それから2か月。かなりの花が着いている。草取りを兼ね、つぼみのある株は地面から離すようにして持ち上げてやる。と同時に用意した枯草をつぼみや青い実の下に敷いてやる。かなりの難儀、根気のいる作業だが、それでも、こんな寒さの中に見るイチゴの花は、いささか世間では手垢の付いた言葉とはなれど、「勇気」と「希望」と「元気」を僕にもたらしてくれる。
今年もあと残り2日。福袋、帰省、観光旅行、初詣・・・いずれも僕にはかかわりがなく、大晦日も元日も、ふだん通りにランニングし、珈琲とパンの朝食を終えたら畑に出て働く。この下の写真は、ハウスの中に人参をまく準備をしているところ。ハウスの中は、晴天ならば30度くらいまで温度が上がる。今まくと4月に入るころには小さいものが食べられる。
他に、年が明けたらジャガイモを植えるための下準備がある。立春まであと30数日。寒さはもう少し続くが「光の春」がやってきて、僕の心も春めく。早咲きの梅の花がほころび、フキノトウが顔を出すと、百姓になってよかったな、田舎暮らしっていいもんだな・・・そう思う。
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中村顕治(なかむら・けんじ)
1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。
https://ameblo.jp/inakagurasi31nen/
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