10月21日。「どう生きるのか。どう生きようと、おまえは決意するのか」。本格的な朝の冷え込みは明日かららしい。今日は長袖1枚で仕事できる穏やかさである。出荷用のナスとピーマンを取りに「苦心して」ハウスに潜り込む。苦心してと言うのは、アドリブで急ごしらえしたこのハウスにはきちんと開閉できる扉がないせいで、背中をうんと丸くして地面を這うようにして潜り込むからだ。早春に種をまいて4月に植えたナスとピーマン、それぞれ概算で20本ずつ。あの酷暑の中では傷むものが多かったが、1か月前から旺盛に実をつけ始めた。しかし、10月に入るや一気に秋が深まったという感じで、露地のままでは師走まで収穫という我が目論見は達せられそうにない。ということで、サイズはバラバラというパイプを総数50本埋め込み、幅6メートル長さ10メートルのビニールを掛けた。それでも裾部分に隙間があるのでさらに1枚ビニールを足した。すぐそばに柿の木とユズの木があるので、それをよけてパイプを差し込み、ハウスはあちこち曲がっている。そして昨日、時ならぬ強い南風が吹いた。左右にゆらゆらと煽られていたのでロープを掛けたりもした。見かけはどうにもひどいけれど、ハウスの中は外気温よりも10度くらい高い。来月になったら夕刻、さらにシートをかぶせて朝の最低気温5度にも耐えるようにしてやる。
豊作のピーマンはお客さんにタップリ送ってあげる。少なくとも15個、多い日は20個。そして、傷のついたもの、小さいものは自家用とする。あの酷暑をバテずに僕をなんとか乗り切らせてくれた食べ物はいくつかあるが、次の写真の下がその一例である。仕上げは単純。ピーマンを手でちぎり、ミツカンの「うめ黒酢」というのに漬けてひと晩冷蔵庫に入れておく。前回書いたように、8月のランチタイムの室温は毎日35度だった。それを押しのけてくれ、パワフルに働かせてくれたのがこのピーマンの黒酢漬けだったのだ。このミツカンは安くはない。近くのスーパーで税込み900円する。それを1本3日というペースで消費した。でも我が体力維持における貢献度は高かったと思う。
荷造りを終え、暗くなりかけた畑でギリギリまで奮闘した。今年は小松菜もほうれん草も、葉物野菜はうまく育たなかった。3週間前にまいたチンゲンサイ。その間引いたものをビニールトンネルに移植してやろう、真っ暗になるまでになんとかやり終えよう・・・1時間半ほど奮闘したのである。
荷造りしながら読んだ今日の朝日新聞「多事奏論」。編集委員という肩書を持ちつつ、九州の山奥でコメ作りと狩猟生活をする近藤康太郎氏。たまに東京に戻ってくるとキンキラなハリウッド映画を見ることにしている。いわく。「意地である、吝嗇である、交通費の元を取るのである・・・」。最近見たのはアメリカで大ヒットした映画「バービー」とのこと。
けものにも「死はない」。けものは自分を、「いずれ死すべき存在」などと自覚しない。けものにあるのは、生だけだ。どんなに追い詰められても決してあきらめない。逃げて逃げて逃げまくる。生きて生きて生きまくる。勇敢で、不屈で、諦観や悟りとは無縁、「いま/ここ」に存在することへの確信。それは、死という事象を知らないから。死を自覚しないからだ。猟師をしていると、血に汚れた手でそれが分かる。
僕は猟銃、猟師については全く無知だから近藤氏のこの言葉を完全には理解できていないと思うが、でも、おおよそ胸には伝わってくる。人間という動物は外からの知識を持ち、その知識でもって死というものの輪郭を知っている(ような気になっている)のだ。
逆に、死を自覚できるのが人間だ。あらゆる生命体は、一瞬たりとも同一状態を保てない。「有る」ということは、刻一刻と「無く」なっていることと同義だ。刻一刻を生きている。それは、刻一刻と死につつあるということ。だからこそ、バービーたちと違い、逃れられない死を知るわたしたちは、「おまえは、どう在るのか」を問われる。AI時代の「人間らしさ」は、そこにしかない。どう生きるのか。どう生きようと、おまえは決意するのか・・・。
近藤氏の格調高い、哲学的命題ともいえる問いかけにまっすぐ答えることは僕にはできない。ただ、「おまえは、どう在るのか、どう生きるのか・・・」その問いかけには、「おまえ」の一人である僕はこう答える。ひとつでも多くの食べ物を確保するため、惜しみなく手足を動かし、汗を流します。そこに厄介な気象条件が立ちはだかります。とり分け最近の気象は手ごわいけれど、なんとかそれに立ち向かう。我が手仕事は丁寧さに欠ける。ですが、目の前の状況に迷うことなくとりかかれるのが我が唯一の取柄。瞬時に全身が動き始める。意識を含め、自分のすべてが眼前の対象物に向かう・・・僕はこの時がけっこう好きなんです。この生き方が自分に合っているんです。
もうひとつ、近藤氏の論述に触れる。もう数か月前になるか、同じ「多事奏論」。タイトルは『なぜ侍なんだ、百姓ジャパンでよくないか』。選手はそれぞれが力を発揮した。優勝という栄誉に輝いた。しかし、侍という文字を冠するチームには僕もほのかな違和感を持っていた。日本という国を象徴させるためにサムライというのはイージーではないかという気がするのだ。近藤氏はまず、江戸時代、侍は人口の1割にも満たない支配階級だった、ほとんどは農民であった、そう言う。さらに、坂本龍一さんの「だって、人を殺す人じゃないですか侍は」という言葉を引きつつ、こう続ける。
百姓のほうがずっと上等だ。だって、食べ物を作ってるんですよ、人を生かす人だ・・・。いまの世界で将来に目を向ければ、食料不足が懸念されている。食べ物を取り合って殺しあう地獄絵図さえ杞憂ではない。とりわけ食料自給率の低い日本である。だったら侍ジャパンじゃないだろう。農民だ。めざすは国民皆農・・・これは「百姓ジャパン宣言」である。
世界の大舞台に立つのに「百姓ジャパン」ではあまりに泥臭い。それでは、スタンドや家のテレビの前で黄色い声を張り上げて声援を送るミーちゃん、ハーちゃんにもそっぽを向かれるだろう。何か良いチーム名はないだろうか、みんなで考えてみよう。
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