今回のテーマは食べ物である。百姓の僕が日々どんなものを食べているか。そのことについて書く。これは同時に、ビジネスが半分、食料自給が半分という命題でもって農家となった男が、実際にはどれほどのものを生産し、いかほどの自給態勢を整えているかという記述にもなる。さらに言えば、自給自足を夢見て移住を考えている人の参考に、今回のテーマは、きっとなるだろう。
日々どんなものを食べているか・・・先に言い訳めいたことを書いておくならば、手間のかかった「料理」という名に、ほど遠いものを僕は食べている。料理の素養がそもそもない。かつ、毎日畑仕事に追われている。それでもってシンプル、ささっと出来るものがメニューの八割を占める。はるか昔、東京のアパート暮らしに前触れなしに女性が訪れたことがある。僕の食べかけの夕食を見て、まろやかな笑顔で言った・・・ふふっ、山賊メシだね・・・。さすが、その時よりは良くなってはいるけれど、テレビの料理番組とは天と地の差で、見てくれの悪さは今も変わりない。それでも、自慢できることはある。食材の豊富さだ。ざっと見渡して、今日の料理に使える食材は季節を問わず常に畑に30種類はあるだろう。
季節のものがウマいのは、人間が季節の中にいるからである。 獅子文六
胡瓜も茄子も今は夏でなくとも食べられる。お盆に仏壇に供える意味ももうないと作家は言う。促成栽培の進歩とともに「食味の乱脈」が起こるのも、体であれ心であれ「人間の諸条件」が元々季節の中にあるからだと。鮎やそら豆の味を飄々と描いた章をそんな大仰な言葉で締めるのは、昨今の異常気象にもつながる文明の乱脈をそこに見たからか。『食味歳時記』から。
朝日新聞9月12日「折々のことば」からの引用。解説は鷲田清一氏である。「人間が季節の中にいるからである・・・」。思うに、とりわけ百姓ほど季節にピッタリくっついて暮らしている人間はそう多くはないだろう。テレビを見ていると、桜が咲きました、ツツジが咲きました、アジサイが咲きました、紅葉がきれいです・・・と、スマホを手にした人々が、みんな笑顔で目の前の風景を写真に収めている。まさしくそれは、人間が季節の中にいる喜びをもって生きているという姿だ。百姓の暮らしはそんなハイカラでビッグなイベントとは遠い、いつも泥の上にいるから泥臭い。100×50メートルという限られた空間に閉じこもり、エンドレスに野菜や果物と向き合う。その単調さの中に季節が「勝手に」舞い降りてくるわけだ。たった50日前、全身が溶けるような猛暑だった。それがあっさりと、今は長袖シャツとセーターを重ねてちょうどいいという気候となった。そして、あと1か月もすると畑が霜で白くなる。追っかけ氷も張る。自分が季節の中で生きているということを、僕は皮膚を通して知るのである。
ほぼ毎日、山賊メシを食べている・・・。しかしごくたまに、見違えるような食卓となることだってある。ガールフレンド「フネ」が来訪した時だ。口は悪い。が料理の腕は一級品、それが僕を野蛮人と呼び捨てにするフネという人なのである。どこかでその彼女が腕を振るった豪華なディナーをチラッとお見せできるだろう。
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