11月25日「凸版印刷は印刷の会社だと思ってません?」。覚悟していたほどの冷え込みではないが、やはり朝の気温はぐんと下がってきた。今日は果樹の剪定に半日を費やす。総数100本。地上に立ってやれるものはいいが、梯子伝いに高所で切る必要のあるものは事前の覚悟がいる。下の写真の果樹はプラム。もう10年くらい前になるか、大きく二股になっていた、その片側が暴風で地面に倒れた。しかしそこから直列に10本余りの枝が伸びてきた。植物の力、生きようとする意欲はすごいなと感心した。倒れた親の木は外側半分が枯れている(それゆえに倒れやすかった)。残った、生きている中心内部は、足元の土と水、上空からの光を糧とし、懸命に再生の努力をしたわけだ。今の時期、来年の花芽は準備されている。その花芽のある枝、ない枝を慎重に見分けながら単調なリズムで僕はハサミを使う。
荷造りを終えた午後4時、散乱した剪定枝の片付けを兼ねて焚火を始める。あの猛暑の中で、今日みたいに散らかったものを片付けるために焚火を試みたこともあるが、やはり無理だった。しかし今となれば、燃え上がる赤い炎が身も心も心地よく暖めてくれる。その炎を見つめながら、昨夜のテレビのことを思い出していた。テレビ東京は、オープンした麻布台ヒルズを詳細に伝えていた。文字通り技術の粋を結集させた都会のど真ん中の楽園だった。なんたって、僕が感動したのは、全面積の3分の1が樹木と花々による自然描写であること。東京の中心にこのようなものが出来るなんて・・・信じられないほどの完成度だった。さらに、そこには洒落たレストランがあり、最上級の珈琲やケーキが楽しめる。オープン初日ということゆえか、多くの人々が目を輝かせて集っていた。
その風景を見ながら、僕の頭には、あちこちで頻発している熊の被害が浮かんでいた。今年の熊の出没、そして人的被害は異例の数だという。玄関を開けたらすぐそこに熊がいた・・・。麻布台ヒルズとこの熊の話。別な意味で、僕にはひとつの格差社会かも、そんな気がしたのだった。麻布台は人工であるとはいえ、熊の出る過疎の村と変わりない緑豊かな自然の風景である。片や、命の危険が迫る地方都市の山間部、一方は、とびきりデザインされた美しい景色を愛でながらランチを楽しみ、挽きたての珈琲とケーキを味わえる、危険性ほぼゼロという環境。これぞ現代ニッポンにおける格差社会のひとつのパターン、そう言っても差支えはあるまい。
この麻布台ヒルズの話にはちょっとしたおまけがある。そこの最寄り駅は地下鉄日比谷線の神谷町。僕にはすこぶる懐かしいのである。僕がいた医学専門の出版社は全印刷物が板橋の凸版印刷への発注だった。しかし僕が担当していた月刊誌のみ、凸版印刷の下請け会社で行われていた。その会社が神谷町から徒歩10分足らずの場所にあったのだ。40年ないし50年前、神谷町駅周辺には田舎の風情が漂っていた。今回、麻布台ヒルズを建てた森ビルの建物はすでにいくつかあったが、そのビルの谷間に沈んだ東京の田舎、そんな雰囲気が残っていた。その印刷会社は7、8年前に廃業したと人づてに聞いていた。昨夜のテレビ東京での「楽園」を眺めながら、ああ、オレが何度も通ったあの場所は、この美しい風景のどこかに、静かに、埋もれているんだな・・・そんな感慨に僕は耽った。
僕が神谷町に頻繁に通ったのは「出張校正」のためだった。今ならパソコンで出来るのだろう。しかしまだその時代ではなかった。毎月校了は15日、東販への搬入が22日、書店に並ぶのが25日。このスケジュールが順調にいかないことがけっこうある。著者からの赤字訂正や急な追加の文章が多い場合、校了ゲラへの朱入れで終わりとするわけにはいかず、最終的な確認をする必要がある。しかし、念校のゲラが出て、それを届けてもらって、また送り返してという時間はもはやない。だから自分から印刷所に出向く。機械から刷り出されたばかりのゲラをデスクに広げ、確認し、OKのサインをして僕は帰宅するのである。たいてい、すでに東京の街には明かりが灯る時刻だった。そしてついでに書くと、すぐ近くには愛宕(あたご)神社がある。その85段の石段はまれに見る急勾配。印刷所に到着し、担当職員が、ゲラが出るまであと1時間くらいかかります、すみません・・・その言葉を聴いて、これ幸いとばかリ、僕は愛宕神社の石段を上り下りして汗をかいたりしたものである。マラソンに熱中している時代のことだ。
凸版印刷は印刷の会社だと思ってないですか?・・・。もし僕が聞かれたならば、答える。もちろん、そう思ってます。先ほど書いたように、僕のいた出版社は医学書の専門だった。全50巻の『現代内科学大系』というのは型破りの売り上げを記録した。どんな辺鄙な田舎の診療所にもそれはあると言われていた。これを皮切りに、外科学、小児科学、産婦人科学、皮膚科学、精神科学と続き、B5半、総アート紙の印刷はすべてが凸版印刷の受け持ちだった。膨大な量だったはずである。出版社も儲かったが、凸版印刷の売り上げにも少なからず貢献したはずである。それゆえであろうか、凸版印刷からは、重役クラスの偉い方々が定期的に来社し、頭を下げていた。かような歴史の中での経験があるゆえに、凸版印刷は印刷の会社だと思ってませんか?・・・そう尋ねるあのCMは、地下鉄神谷町駅とともに、僕にはるか昔を懐かしく思い出させるものなのである。
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