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田舎暮らしの本 5月号

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田舎暮らしの本 5月号

3月1日(金)
890円(税込)

© TAKARAJIMASHA,Inc. All Rights Reserved.

土様様/自給自足を夢見て脱サラ農家37年(38)【千葉県八街市】

 中村顕治

 今回のテーマは土に対する百姓からの賛歌である。ゆえに「さまさま」というタイトルなのである。野球の世界には「村神様」という三冠王プレイヤーへの大賛辞があるが、それと肩を並べるくらい熱のこもった土への我が賛歌、これが今回の主題なのである。

 土というのはひとつの物体として、人間の暮らしに古くから貢献してきた。狩猟によって得られる動物の肉とともに、穀類、イモ類、野菜、果物、そのいずれもが土を基盤として生育し、個体の命と、個体から個体へという人類の命の連続性に大きな働きをしてきた。しかし、具体的な、物質的な、モノとしての土には抽象的な側面、つまり精神性もあるのではないか。アマチュア時代から通算すると44年になろうとする田舎暮らしの僕は、かつ、ガキの頃から泥んこ遊びが大好きだった僕は、今ふとそう思うのだ。すなわち、土が我々に与えてくれるのは、腹を満たす収穫物とは別に、その上に跪く者の、精神の浄化、安寧、さらには、じわじわと高まる労働意欲から生じてくる未来への(小さいけれど)明るい希望である。で、考えるわけだ・・・テレビや新聞やパソコンを通して見聞する現今の世間には、その「浄化」「安寧」「希望」がやや希薄ではないかと。もちろん個々人の責任ばかりでなく、背景には経済状況、労働環境、思うに任せない男女関係などがあろう。しかし、土べったりの、汚れた日々を暮らす僕には、人々の生活が綺麗すぎるから、便利すぎるから、泥だらけになるシーンが少なすぎるから、それが理由ではないかと思われる。人々は活発に動いている。便利な機器で大きな世界とつながっている。にもかかわらず、メディアを通して失望や、イライラ感や、怒りや、嫉妬が日々伝わってくるのはなぜだろう。土がもたらす浄化、安寧といったものが暮らしの中に欠けているせいではないか・・・

 若い人にはなじみがないかもしれないが、長塚節(ながつか たかし)という歌人・作家の作品に『土』という私小説がある。長塚節は茨城県の鬼怒川に近い農村の出身。貧しい農家の生活を自然や風俗、行事をまじえ、微細に描写した長編小説だ。初出は東京朝日新聞における連載で、長塚節を推薦したのが夏目漱石で、本に序文を寄せたその漱石は「面白いから読めとは云いにくい、読みづらい、泥の中を引き摺られるような気がする」と書きつつも、同時に、「なるほど、自然描写はあまりに詳細すぎて、話の筋を往々にして殺してしまう失敗を嘆じた位、彼は精緻な自然観察者である」とも述べている。これは百姓の僕にはよく分かることだ。もし僕が、今日1日の畑での作業をもらすことなく完璧に文字にしたなら、よほど「土」に心を開く者以外には退屈きわまりない文章となるだろう。それでもひとつ言えることがある。妻や子よりもはるかに長く交わった畑の土には、あるいは作物ひとつひとつの生育の過程には、さらには周囲の四季の風景には、どうにも離れがたい香しいフェロモンみたいなものがあるのだと。華やかで便利な表舞台ではなかなか体験できない静けさと味わいがあるのだと。長塚節が描く100年余り前の農村の暮らしはどこまでも貧しく、厳しい。しかし、土と交わることで初めて見える世界がある、そのことを教えてくれる作品でもある。

 2月27日。朝は薄く氷の張る寒さだった。しかし日中の光はいよいよ春だと感じる豊かさだった。我が愛猫ブチは、たらふく朝食をすませてから、屋上庭園に差し込む朝の光を受けて目を細めている。光さえあれば、猫も幸せ、野菜も幸せ。もちろん僕も幸せ。ハウスやトンネルにもぐり、レタス、キャベツ、ニンジン、ジャガイモのケアをする。1月半ばにまいたニンジンは順調に生育している。

 

 ハウスでの作業で遭遇したのがこの下の写真だ。暖かいハウスには寒さを回避してきた昆虫がさまざまいる。しかしほとんどは1月ごろには命尽きる。特にカマキリは命が尽きるのが早い。対してバッタは強い。かなり力強く跳ねる。しかし・・・僕の指先で跳ねたバッタは羽が茶色で、半分はちぎれている。それでも力強く飛ぶ。がんばれ、梅は咲いた、プラムの蕾もふくらんだ。春はそう遠くはないぞ。あと半月を生き延びれば思わず鼻歌も出る春に違いない。

 晩酌しながら見たNHKの7時のニュース。北朝鮮が農業に関する特別会議というものを行ったと伝えていた。農業に関する特別会議とはこれが二度目であるらしい。ただし会議の詳細は伝えられていない。韓国による情報分析では、北朝鮮の食糧不足は相当深刻で、餓死者も出ているらしい。それでいながら・・・惜しげもなく次々とミサイルを発射する。1発いくらするのだろう。発射するミサイル10発、20発、そのカネでどれだけの人の食料がまかなえるだろうか。地面を軽んじ、空高く打ち上げるミサイルをカッコいいと考え、さあどうだと胸を張る・・・どうにも安い世界観である。

 2月28日。早いね、時が過ぎるのは。2月も今日で終わりである。光はあって嬉しいが、どうにも風が強い。ビニールトンネルとハウスが悲鳴を上げてなんとか風に耐えている。あとで今日のその強い風は春一番だと僕は知る。

 午後3時半、仕上がった荷物を積んでクロネコ営業所に向かった。強烈な風で巻き上がった赤い土が視界を遮っている。我が町、八街はピーナツで有名だ。そしてもうひとつが「ヤチボコリ」である。誰が名付けたか知らない。いささか揶揄的。このヤチボコリが嫌で引っ越す人もいる。我が町の土は柔らかく、軽い。それゆえにピーナツの栽培に向いているというわけだが、ヤチボコリの原因はそれだけではない。2月から3月にかけてはほとんどの畑が休耕時期なのだ。畑の表面をふさぐ作物が全くない。乾燥が続き、強風が吹く。舞い上がった土で空には暗雲が漂うのだ。幸い、我が畑の土は舞い上がったりしない。真冬でも作物があるせい。同時に、保湿性が高く、強風で飛び散るほどに乾燥したりしないせいだ。

 荷物を出して、帰宅して、トウモロコシをポットにまく作業にとりかかる。今年は例年より多めに作ろうと思っている。まず今日のようにポットまきをする。出来上がった苗はビニールハウスに植える。次に4月、直まきする。ハクビシン対策にかなりの手間がかかるが、チャボたちの食料確保のため本腰入れて取り掛かろうと思っている。

 今日のポットはトレー6つで144。七分目まで土を入れ、種を落とし、手でほぐしながら土を掛ける。土は黒い。氷の張る日には冷たい。本格的な春を迎えて太陽の輝く日には温かい。そう、土は単純で、正直で、もの言わぬ、しかし素直なものである。日々、土と接していると、この、単純、正直、素直さというやつが土から人間に伝染してくるところが面白い。深々として雑念なし。こう言うと座禅か宗教めいてもくるが、土の本態は物質で、それ自体に精神性はない。でありながら、そこに膝をつき、手ですくい上げ、種を落とす者に、気づけば「精神」を伝達してくれている。単純と、正直と、素直が生きるのにいちばんラク、泥にまみれるのって楽しいでしょ、変に悩まずにすむでしょ・・・冷たい夕暮れの風の中、微笑みながら土が僕にそう囁いている。

 3月1日。朝の寒さはゆるんだ。風も、吹いてはいるが、昨日のようなことはない。昨日に続きトウモロコシを、さらにはインゲン、トマト、ナスなどもポットにまくつもりなので、先月開墾した竹林跡から肥沃な土を運び出す。例によってチャボたちが僕の作業を追って、打ち込んだ鍬の下から出てくるミミズを目ざとく見つける。

 さてと、今日は一石三鳥を目論んだ作業の展開だ。出発点はサトイモの植え付け。小芋を取ったあとの親株が袋に詰めて玄関に並べてある。それを植えてしまえば玄関がスッキリする。しかし今のままでは植える場所がない。サトイモも連作は嫌うので僕は3年くらいは同じ場所に作らない。キウイの下を候補地とした。キウイはやたら伸びた枝をかなり切り落としたので以前より日当たりは良くなった。しかし、切った枝、降り積もった葉っぱを放置したままではサトイモが植えにくい。そいつを一か所にまとめてしまおう。レーキでかき集める。レーキがうまく使えないところの枯葉、そして土にまじっていた細かなビニール類は両手ですくい取る。

 かくして出来た葉っぱと小枝の山がこの下の写真。ここに鶏糞と米ぬかを足す。ブルーシートで被う。夏までには立派な土に仕上がる。乱れ放題だった5×8メートルがこうしてスッキリとした新天地となった。

 ああ、この映画、ぜひとも観たいなあという一本が今ある。中国作品。脚本・監督リー・ルイジュン。『小さき麦の花』。毎週金曜日、朝日新聞の夕刊は映画の特集なのだが、その日、この映画を紹介していたのはずっとずっと昔から僕はファンである秋山登氏だった。ぜひとも観たい。そう思わせたのは薫り高いその批評の文章だった。秋山氏はこう書く。

美しい映画である。ここには、人間を称える愛の詩(うた)があり、人間を育む大地の詩がある。農家の四男のヨウティエと体に障がいがあり、持病もあるクイインが見合い結婚する。すでに中年の二人は、ていよく厄介払いされたのだ。村には空き家が目立ち、耕地は荒れていた。急速な経済成長は農民たちを南部の都市へと誘ったのだ。ロバ1頭が財産の新婚夫婦は空き家に居を構える。農地を耕し、小麦の種子を蒔き、野菜を育て・・・ところが、空き家を解体すれば奨励金が出ることになり、夫婦は追い立てを食う。彼らは自分たちの家を建てる。二人だけで。二人の身上は優しさだ。四季折々の農事が子細に描かれる。夫が妻に言う。「土は清らかだ。金持ちも貧乏人も区別しない」。映画は、暗に、語りかける。生きるとは、幸せとは何か。さらに私たちの文明の行方について。

 僕は今回冒頭で、土がもたらすものとして、浄化、安寧、希望という言葉を使った。ここに、映画の主人公が口にした「清らかさ」を加えることにしたい。世間での「泥くさい」という言葉の用法は時にネガティブだが、浄化、安寧、希望、清らかさとつなげてみれば、土がどれほどのものを我らに授けてくれるのか、じんわりわかってくるような気がすると思うが、アナタの受け止め方はいかがかな。

 3月2日。不安定な空模様の1日であった。激しい雨音で目が覚めたのは5時半。その雨はいったん上がり、日中数時間は明るい光が注いだ。これじゃハウスの中の野菜たちは暑かろう。掛けてあったビニールを外す。この上の写真は発芽8日目のカボチャ。定植するまであと2週間。定植はハウスの中で、伸びてきたツルはハウスの外に誘導する。初花が咲くのはたぶん5月初め。そして収穫は6月下旬。何はともあれ、丈夫な苗に育て上げることが肝要。次の写真のごとく、4月になるまではこのビニールを掛けたり外したりで忙しい。

 続けてキャベツの移植。種はトンネルにまいた。ずっと土を寄せたり草を取ったりの管理をしてきたが、今日、込み合っているところを間引き、ポットに植え替えてやることにした。そう、小さいけれど・・・僕の言う「希望」とはこの瞬間にあるのだ。毎日のように霜が降りて氷の張る気候の中で苗を作るのは手間がかかる、難しい。しかし今、カボチャは6月収穫の目途が立った。キャベツも梅雨入り前には収穫できるだろう。この達成感が、小さいけれど、確かな希望となる。世の出来事に、ほぼ全て、僕の心はコミットしない。キミは視野が狭いんだなあ・・・そう、たしかに視野狭窄。僕の目が向くのは、意識が及ぶのは、この小さなカボチャとキャベツの苗だけなのである。とかく世間は騒々しい。その騒々しさは、僕の想うところ、日々において、長い人生において、人々が盛り込もうとするもの、目指そうとするファクターが、多すぎる、大きすぎるがゆえではないか。その願いが果たせないと迷いや嫉妬や他者への怒りが生じる。土は、何か事あれば、まあまあまあと、人をなだめたり諫めたりしてくれる。ITだとかスマホだとかはそんなことはどうやらしてくれない。いま目の前にあるカボチャやキャベツの苗は、シンプルでちっぽけな、でもかなり純度の高い希望を僕に与えてくれている。

 そのキャベツ作業をしているところにけっこう激しい雨が落ちてきた。雨のち晴れ、そしてまた雨という1日は珍しい。気温も一気に下がってきた。もうアガリとするか。熱い風呂に入って酒飲むか・・・いや、いくらなんでも、まだ4時だもの。草取り用の袋3つを手にしてイチゴのハウスに向かう。イチゴハウスは4つあって、うち3つは全ての苗をほかの場所から移して植えた。そして、この下の写真のハウスだけは、去年のままで、込み合った弱小の苗を取り除くかたちで全体を整えた。花はだいぶ着いてきた。同時に草も茂ってきた。外は風、そして雨。ビニール越しにその雨と風の音を聴きながら草取りに励む。イチゴの苗を踏まないように、まず両足の位置を定め、左手を地面について体のバランスを整え、あとはひたすら右手を動かして草を抜く。イチゴ苗から離れて生えている草を抜くのはたやすいが、イチゴの下にもぐりこんでいる草には神経を使う。ここでもやはり僕の心に小さな希望が芽生える。今月末には4×12メートルが赤く染まるぞ・・・かような希望をもたらす大舞台はやはり黒い土である。抜いた草の大きいものにはかなりの土が付着している。それはあえてふるい落とさず、そのまま袋に詰める。袋の口を縛って転がしておけば新たな土がそこで生まれる。土という舞台はただの黒一色で、不動で、代わり映えせぬものに見えるが、真実、常に新たな命が注ぎ込まれ、流動している。福岡伸一先生の言われる「動的平衡」がここにも存在するわけである。

 そうそう、ひとつ書いておかねば。今日の新聞で見た『女性セブン』3月16日号の広告で、「シリーズ食糧危機『日本人7200万人が飢える日』“朝・昼・晩の食事は芋だけ”はすぐそこに!」というのが僕の目に入った。へえっー、どんな記事だろう。本屋で立ち読みしてみたいなあ。でもな、76歳のジイサンが女性セブンを立ち読みというのもちょっとはた目には気色悪いかな・・・。ここでは芋が粗食の代名詞として使われているようだが、また昔は「芋ねえちゃん」なんて呼び名もあったが、なんの、イモだって安くはないよ。特に冬のサツマイモは1本200円だ。それに、他に食べるものがなくなれば、争奪戦が始まって、たかがイモもきっと高値になる。イモ様様の時代がやって来る。で、僕のイモはどうか・・・ジャガイモは4つのビニールハウスで現在育成中。サツマイモは毎年秋のうちに品切れとなるが、今年は保温を工夫し、翌春まで在庫を保てるようにしてみようと考えている。

 3月3日。薄い氷が張る朝だった。ひところほどの寒さではないが、先週、何日かポカポカ陽気があったぶん、ぶり返した寒さは体に案外とこたえるものだ。ジャガイモが心配でハウスに入ってみる。最低気温マイナス4度という日があって、芽の先端が少しやられたが、今日は大丈夫なようだ。

 朝は寒かったが、時間とともに快晴の空が広がってきた。青い空を見上げたところで、解剖学者・養老孟司先生の言葉を僕は思い出す。先生は定年まで3年を残して退官する。その退官直後の春。

あの年の春は、背負っていたものが全部一緒に消えたって感じでしたね。退官翌日の4月1日。天気のいい日で、いやっていうほど空が明るく、「なんでこんなに青いのか。かみさんは、こんな空を見てきたのか」と思った。大学に行かなくていいことになった途端、空の青さが身にしみた。

 僕も同じことを経験した。百姓に転じてからの数年間はキビシイ毎日ではあったけれど、それでも、もう通勤電車に乗らずに暮らせると思うと頭上の空の青さと白い雲が不思議な味わいをもたらした。もう少し養老孟司先生について書く。読売新聞は「時代の証言者」において養老先生の人生ヒストリーを連載している。連載28回においては、『唯脳論』(1989年、青土社)での記述が引用されている。

都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない。都会では、人工物以外のものを見かけることは困難である。そこでは自然、すなわち植物や地面ですら、人為的に、すなわち脳によって、配置される。われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中に」住んでいたわけだが、現代人は脳の中に住む。

 そこでの暮らしがうまくいかなかったからとて、都会の悪口を言うのは僕の本意ではない。都会にだって良いところはいっぱいあるものね。若い人の多くが都会を目指す、それゆえに地方の過疎化はさらに進む。それだって、田舎にはない良いもの、良い所がいっぱいあるからだ。そして、養老先生の言う「脳の産物である都会」が自分の性に合い、成功も得られるとなれば部外者の僕がとやかく言うことではない。しかし、脳の産物である都会での暮らしに息苦しさを抱く人は必ず一定数いる。そういう人は思い切って「自然の洞窟」で暮らす道を選択するとよい。体にとってはハード。暑さ、寒さ、強風、強雨にも苦しめられる。でも、空に広がる青と白い雲は、そんなことを忘れさせる安らぎをくれる時が必ずある。

 3月4日。やはり今朝も空気はヒンヤリしているが、光はたっぷりである。ランニングしてからの朝食は大豆モヤシ。我が産物の中で、唯一、土とは無縁で生育するのはこのモヤシだ。太陽光発電経由で稼働するモヤシ製造機は豆の選別から始まり、温度管理、水の取り換えと、けっこう手間がかかる。でも苦労は報われる。茹でて、胡麻ドレッシングで食べると絶品なのである。さて、寒くとも、光があればビニールハウスの中には草が繁茂する。荷造り仕事を挟んで午前と午後、合わせて5時間、草取りに専念した。大根、わけぎ、イチゴ、ソラマメ。大根は去年11月末にビニールトンネルに種をまいたもの。まだ十分な大きさにはなっていないが、葉は柔らかく青々としているし、大根おろしにしても美味いだろう、そう思って今日からお客さんに送ることとする。その大根もだいぶ草に囲まれていたのでスッキリさせてやった。

 この下の写真のイチゴは一昨日とは別のハウスだ。ここの苗は全て他から移植した。移植から1カ月余りは乾燥防止のための水やりがけっこう手間だった。高畝にしているぶん、今でも乾燥は進むので、今日は半熟状態の堆肥を入れて保水の役目をさせることにした。草取りは手先だけの作業だが、かなりの時間を要する。でも、明るい光の中に咲くピンクの花々は僕の心を弾ませる。イチゴ栽培の第一の目的はもちろん甘い果実を食べることだが、群れ咲く花の風景に接することも大きな喜びだ。

 昨夜見たテレビのことを書いておく。NHKの「72時間」というドキュメント番組は前から好き。定点で72時間カメラを構え、ある場所にやってくる人々のそれぞれの人生をうまく描き出す。昨夜の舞台は大阪にある資格試験の受験予備校だった。へえ、そんな予備校があるんだ・・・見ている僕はまずは驚きから始まった。弁護士、司法書士、公認会計士、不動産鑑定士、中小企業診断士、国家公務員試験、社会福祉士・・・まあ、世の中にはずいぶんな数の資格があるものだな、ここでも僕は驚いた。その予備校での講座授業料は数十万円だという。しかも、資格によっては、合格率5%などという難関でもあるという。しかし、20歳そこそこの若い女性から、定年間近い男性まで、どの人も真剣に目を輝かせていた。背景には、やや不透明な将来への不安感があるようだった。資格があれば、いざとなったとき、きっと役に立つ・・・。

 ひるがえって、僕は、何ひとつ資格というものを持たない。唯一あるのは自動車の普通免許。しかし、こんなものは、いざという時、何の役にも立たないだろう。テレビが見せてくれた大阪の資格試験予備校には、ないものはないと言うくらいものすごい数の講座が用意されていたが、ちょっと笑った、百姓になるための講座というのはどうやらないらしい。ふと考える。もし「百姓経営士」なんていう資格があったら、その試験はどんな内容になるだろうか。まず体力測定かな。つぎに鍬やスコップや剪定ハサミの実技テストかな。さらには、いくつか種を見せて、これは何の種か、いつ、どんなまき方をするものかと問うテストかな・・・。もし僕が試験官だったなら、もう少しテスト項目を足す。何種類かの土を見せて、最も野菜栽培に向いているのはどれか。同じ野菜でも、豆類に向いているのは、大根やゴボウなどの根菜に向いているのは、ホウレンソウや小松菜に向いているのはどの土か・・・と問う。そして合格率は、司法書士や公認会計士並みに5%・・・かどうかは、へへっ、僕も知らないね。ただ言えるのは、百姓という資格は一発の筆記試験には向いていない。長い年月かけて実績と経験を手足を通して積み上げていくものだということ。

 3月5日。気温はさほど低くない。しかし光の全くない朝ゆえ肌はヒンヤリする。もって、1日の始まりは焚火である。しばし焚火の前でくつろいでからヤマイモ掘りに向かう。今日の現場は最難関だった。林とすぐ隣接しているゆえ雑木が生えている。竹も生えている。そいつをスコップで切り進みながら前進する。すこしでも無駄な動きはすまいと、スコップですくった土はすぐ近くにあるミョウガ畑に投げ込む。ミョウガは高く覆土してやるといいものが出来るからね。

 さて肝心のヤマイモ。何本も探り当てることは出来たが、思わぬ敵が現れた。粘土質。面白いことに、我が畑、さして広くもないのに土質が場所によって違うのだ。その違いのひとつが今日の粘土質。スコップが刺さりにくい。また普通の土なら、掘り出すと同時にほとんどの土はこぼれ落ちるが、粘土質はそうじゃない。ベタっとくっついたまま。イモの直径が5センチと仮定すると、ガッチリとイモに着いた粘土質は直径10センチにもなる。イモの質は粘土質の方が良さそうなのだが、でも掘り取りの労力は倍以上になる。

 今日は、荷造りしながら、包み紙の読売新聞でちょっと興味深い人生相談を目にしたので、それについて書いておこう。相談者は30代の主婦。子供ふたり。夫は単身赴任で平日は不在。在宅での仕事はしているが、特に忙しいわけでもなく、弁当作り、掃除、洗濯、送り迎えに炊事で1日が終わってしまい、これから先に希望が持てないと言う。

子供は可愛い。金銭的にも恵まれている。今が幸せの絶頂だと感謝しつつも、これから先、これ以上幸せになることがないだろうと思うと、生きるのがしんどいです。涙が出たり、頭痛がしたり。生きる楽しみがありません。

 僕がハッとしたのは「これ以上幸せになることはない」という言葉。この方、別に欲が深いわけではないのだろう。もっともっと幸せにと思っているわけではないのだろう。むしろ、客観的に自分の現在の幸福度が高いことを認識し、それゆえに、これ以上、この先、幸せになることはないのではないかと、悲しんでいる、涙を流している・・・。話をちょっとずらして、ちょうど今、メディアを騒がしくしているのが少子化だ。それに関係し、若い人たちへのアンケート調査というのをテレビで知って、僕はちょっとびっくりした。結婚したくない、結婚したとしても、子供は持ちたくない、そう答えた人がかなりのパーセンテージでいたというのだ。その理由は、育児は大変そうだから、お金がかかりそうだから、自分の時間がとれなさそうだから・・・。僕がびっくりしたのはその「先見性」だ。どんな醜男もどんなブスも(ごめんね、下品な言葉を使って。でもここでは重要なことなんだ・・・)、半世紀前は男も女も、熟慮なしにみな結婚した。そして、まあ、現実に直面して苦労はしたけどね。ただ、繰り返しになるが、将来の苦労を予見するということはほとんどなかった。僕自身もなかった。僕は結婚が早くて、サラリーマンとしての月給手取りは少なかったが、それゆえに、専業主婦である妻が作るおかずには頻繁にモヤシが登場したのだったが、それでも、結婚し、子供が生まれたら家計がどうなるかなんて予見することはなく、勢いだけで結婚してしまった。

 人生相談の女性。今が最高の幸せで、これ以上幸せになることはもうないだろうと思って悲しむ、涙を流す。ひとつカメラの位置を変えればこの心情は洒落たフレーズの詩にだってなりそうな気もするのだが、やっぱりちょっと違うかなあ。何ゆえだろうか・・・この「予見性」は。もしかしたら家事という単純作業が彼女の心を追い込んでいるか。でもなあ、僕も畑仕事9時間の他に、掃除、洗濯、炊事、布団干し・・・主婦に負けないくらいやっている。でも圧迫感はない。こんな暮らしが悲しくて、涙が出るなんてことは・・・まるでない。先日引用した解剖学者・養老孟司先生の言葉をここで思い出してみよう。

都会とは、要するに脳の産物である。われわれの遠い祖先は自然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中」に住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。

 ひょっとしたら、人生相談の女性は、「都会」という名の脳に支配されている、それゆえに彼女は困惑しているのではないか。読売新聞「時代の証言者」の連載はまだ継続していて、右の引用文から2日後、養老先生の言葉がもう一度僕の胸に響いたのだった。先生は定年の3年前、57歳で退官した。そしたら内科の教授が言ったそうだ。それでよく不安になりませんね・・・。

そこで、「先生はいつお亡くなりになりますか?」って聞いた。「分かるわけないでしょう」と言うから、つい、「それでよく不安になりませんね」と言い返しちゃった。先のことはやってみなけりゃ、わからない。不安があって当たり前です。ジャングルを歩いてごらんなさい。こっちに水はあるのか? 危険はないか? 身体の感覚をしっかり使えば不安は具体的になる。その感覚を使わず、頭でばかり考えるからわけのわからない不安になってしまう・・・。

 もしかしたら、あの女性は身体感覚を失ってぃる、頭でばかり考えている。だから、誰にでも不安はあるが、同じ不安でも彼女には具体性がなく、自分でもよくわからない不安にとらわれてしまっている。

 3月6日。昨夕からの雨は静かな雨だったが、時間が長かったぶん、まとまった降りとなった。起床時、雨はやんでいたが曇り空。しかしだんだんと明るくなってきた。ハウスに向かう。トレーに掛けてあるビニールカバーを外してやる。ここあるのはカボチャ、トウモロコシ、インゲン、カリフラワー、ブロッコリー。いずれも、ほんのわずか、土から顔を出している。

 そうだ、あの親子にも・・・。3日前、ヒヨコが4羽生まれた。場所は、サトイモやキクイモ、ヤーコンなどが袋に入れて積み上げてあるところ。母鳥はその袋の隙間に卵を産んだのだ。まだ庭に出すのは早い。だから水、野菜、パンを僕は毎日出前してやっている。しかし足りないものがあるなあ。土だ。高床式の物置であるゆえ親子の足元は材木なのだ。きっと土が恋しいだろう・・・スコップで4杯の土を運び込んでやると、案の定、母鳥は懸命に土を蹴り、コココッコと鳴いて子供を呼び、土の中の小さな虫の居所を教えていた。

 気温はさほど低くはないが、やはり夕暮れになると風はひんやりする。もうひと仕事したらアガリとしよう。今日もキャベツをポットに移植する。夕暮れの風の中で抱く明日への、これは小さな希望の手仕事である。そこでいささか唐突にも思い出した、24 TWENTY FOUR―今日1日に集中する力』という本の広告のことを。「自分自身で24時間をコントールする6つの教え」というリードの後にこの項目が並んでいる。

大切なのは今日1日に満足できたか否か。過去や後悔に囚われるより、幸せに近づく。

不安や苦しさは、目の前のことに集中すれば消えていく。

人生の満足度を高める秘訣は「自分で決定する」回数を増やすこと。

まずは「やることを1つにしぼる」。

「小さなことは気にしない」がコツ。

やる気がでない、集中力がもたないは、コップ1杯の水で解消できる。

 ほとんどの項目が僕自身にもたしかに当てはまる。やるべきことは自分で決定し、常に目の前のことに集中して暮らしている。ただ、やることを1つにしぼる、それと、コップ1杯の水で解消できる、これは当てはまらない。僕がルーチンとしてなすべき項目は日々30くらいある。1つにはしぼれない。小中学生の時代、担任の先生から決まって言われたことは、落ち着きがない、やることが雑、であったが、今は30という項目を手際よく確実にこなしていけるのが百姓としての身上だ。コップ1杯の水は、勝手にグラス1杯の晩酌ワインと置き換えて納得することとした。

 土と交わる・・・泥もぐれになる・・・(もぐれはふるさと祝島の言葉)。今日もそんな1日がやっと終わった。午後7時、浴室そばの床に着ているものを脱ぎ捨て、夕刊を手にして湯船に体を沈める。靴下や毛糸の帽子を含めた作業着を脱ぎ捨てる場所は決まっているが、そこにはいつしか土が貯まる。1週間に一度くらいは箒とチリ取りを使わねばならないくらいの土が貯まる。カネは貯まらない、でも土は貯まる。雑で、落ち着きのない、ツチノコみたいな子供だった男が、長じて、自分で選んだそれは土の道である。土とは、浄化と、安寧と、ささやかな希望を与えてくれる物質。だから生涯、添い遂げる。

 

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(28)気力・活力・体力
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(29)僕があなたに就農をすすめる理由
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(30)土食う客人
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(31)DIE WITH ZERO考
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(32)冬の愉しみ
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(33)焚火の効用
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(34)あかぎれと幸せ-年末年始の百姓ライフ
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(35)冬と楽観
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(36)庭先ニワトリ物語
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(37)自給自足は人生の媚薬
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中村顕治(なかむら・けんじ)

1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。

https://ameblo.jp/inakagurasi31nen/

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