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田舎暮らしの本 5月号

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田舎暮らしの本 5月号

3月1日(金)
890円(税込)

© TAKARAJIMASHA,Inc. All Rights Reserved.

走るために生まれた/自給自足を夢見て脱サラ農家37年(39)【千葉県八街市】

 中村顕治

 クリストファー・マクドゥーガル著『BORN TO RUN』という本を読んだ。著者は言う。人は走るために生まれ、走るために進化してきた。走ることは人間の本能、人間の身体はもともと走るようにできているのだ・・・と。読みながら僕は素直に同意した。で、この本に刺激され、今回のタイトルはとりあえず走ることにしてあるのだが、僕はもう少し話を広げたいと思う。走ることを含め、どんな方法でもいい、人は体を動かし続けること。人体にあまりラクチンさせず、ほどよい負荷をかけることで、年齢を問わず、男女に関係なく、「あっ、いいな!」という心の日常、生きていることの肯定感がもたらされる。精神が浮き上がる。それがまた、身体に良い効果をもたらすという好循環につながる。僕自身の具体的な日常を記しつつ、そうしたことも考えてみたい。と同時に、今回の記述の半分は「野菜だより」に割きたい。本格的な春を迎えるまでの、1月から3月にかけての3カ月、それは1年で最も重要な時である。きびしい寒さの中でさまざま工夫をこらし、苗を作るなどして始動を早めれば収穫時期の拡大となり、収量を増やせる。もちろん、自家製の苗はホームセンターなどで買うよりもはるか安上がりだから、経済的なメリットも大きい。それに何より、毎朝が霜か氷という気象条件の中で育苗するという作業は、じつに胸わくわくするものなのである。

 3月18日。雨の朝。気温も低い。その冷たい雨の中、アンズの花が満開となった。アンズの苗木は30年ほど前、8本植えた。総じて糖度の高い果樹がもてはやされる今、アンズは甘くない。でも僕は好きだ。そして何より花がいい。この写真の木は道路際に植えたのだが、道路にかぶさり、大型トラックに引っかかりそうなので、今日は脚立に乗って枝払いをやった。

 そして次はスナックエンドウの手入れだ。冬越しのレタスを育てたトンネルの周縁にこのつるなしエンドウをまいた。大量のレタスのそばでずっと肩身の狭い思いをしていたが、レタスの数がどんどん減って来たので今日は土寄せし、パイプを足してビニールの頭を高くしてやることにした。もう、けっこうな数の実が着いている。

 読売新聞が「箱根駅伝名伯楽」という連載を今やっている。そこで僕は、懐かしい方に出会った。駒澤大学監督、大八木弘明氏(64)。もちろん大八木氏は僕のことなど知らない。でも僕は40年以上昔のことをはっきりと覚えている。茨城県取手(とりで)市民マラソンでのこと。利根川そばの取手市は僕が最初の田舎暮らしを始めた場所で、年明けのレースには毎年参加していた。すっかり老人となって走力は衰えたが、30代の僕は経験・体力とも優れていて、この取手でも、その前に住んでいた我孫子(あびこ)でも、また妻の実家のある愛知県江南市でも、優勝か、悪くとも3位以内に決まって入っていた。ところがだ。ある年、取手市民マラソンにはとんでもない若者が現れた。決まって優勝という僕だったが、その年は2位に甘んじた。のみならず、まるで勝負にならず、大きく引き離されての2位だった。このスピード、フォーム、ただ者ではない・・・それが大八木さんだったのだ。福島県の高校を卒業し、取手市内にある小森印刷というところに入って競技を続け、さらに、憧れの箱根駅伝を走るため24歳で駒大に入学したという努力の人だ。その大八木さんがのちに監督として名門駅伝チームを率いるなんて・・・尊敬と驚きでもって新聞やテレビでその名前に触れるたび、はるかな昔を懐かしく思い出すのである。

 3月19日。寒い朝である。しかし空は明るい。ヒヨコの世話をし、洗濯機を回し、ランニングシューズを履く。ハンで押したような1日が今日も始まるのだ。商いとは、飽きないでやり続けるからアキナイだ、そう何かで読んだことがあるが、畑仕事とランニング、これが我がアキナイの双璧である。

 15分ほど普通の道路を走ってから、村人が墓地に行くために使っている坂道にいつも入って行く。このごろ自覚することがひとつある。わが走力は確実に衰えた。意思通りに足は動かない。ところが、墓地の坂道に入ると様子が違ってくるのだ。本当ならば平坦よりも坂道の方が足には負担がかかる。ところが、自覚する足の軽さで言うと平坦より坂道の方がラクなのだ。どうしてこうなるのか。自分の足を観察中だ。

 いつも静まり返ってぃる墓地がにぎわっていた。村の顔見知りはみんな軽トラだが、今日見るのは真っ赤な車、あるいは高級なEV車。ああそうか、お彼岸を前にした今日は日曜日。都会で働いている息子や娘が帰宅して一家での墓参なのだ。そういえば、昨日の読売新聞「死と生をみつめて」という連載記事に面白い調査結果が出ていた。「お寺と未来総合研究所」と野村證券による、20歳から79歳、1万人を対象とした調査によると、死んだらあの世に行くと考える人は前回調査よりも多く48%だったという。さらに、NHK放送文化研究所の調査では、あの世があると信じる人の割合は若年層ほど高かったという。記事の中では、10年前に弟を、続けて父を亡くした40代女性の言葉が引かれていた。「あの世があると思うほうが今いるこの世を生きやすい。父が亡くなった時、あちらで弟と会えているかなと思うことで気持ちが楽になった・・・」。

 僕はこれらとはだいぶ違う。味気ないと男と思われるかもしれないが、あの世はないと考える。人間に限らず生き物すべて、死んだら無となる・・・。僕は子供の頃から神社や寺に行っても格別な思いを発することがなかった。むしろ人工的な匂いさえ感じた。初詣というものにも行ったことがない。おみくじも引いたことがない。しかし、あの世なんてない、僕がそう思うのはひねくれたこの性格のせいだけではなく、どうやら日々の暮らしとの関わりだ。毎日土を見て、その上を歩いて、掘り返したりしながら暮らしているからではないか。土の中には多くの死骸が埋まってぃる。身近な昆虫類から、野生の狸やカラス、僕が飼っていた犬、猫、山羊、チャボ・・・。それだけではない。ついさっき通り抜けた墓地だって、100年前までは土葬だったから、村人はみな最後は土の中で眠り、いつしか土に同化したのだ。養老孟司先生は言っている。生と死の違いは何か。意識があるかないかである・・・と。意識がなくなり、脳も心臓も稼働を停止してしまえば人間は単なる物体である。もちろん、生前に交わした家族や友人との愛や言葉は生きている者の記憶には残る。が、あくまでそれは他者の意識による援用であって、亡くなった者の力はもはやどこにも及ばない。あの世はないのだ・・・。もしあるとすれば、亡くなった人がどれだけの力を自分以外の人間に及ぼしたか。亡くなった人のことをどれだけの数の人が、どれだけの時間、その記憶にとどめてくれているか・・・それが僕の考えるあの世というものだ。

 あの世はない・・・。あるのはこの世だけ。自分の意識でもって、ランニングする、畑で働く、ときに寒さで凍え、ときに暑さで溶けそうになる、そんな日々の時間だけが実存という名に値するというのが我が思想。生きているものすべて、いずれは死ぬ。だからこそ今は死ぬまで懸命に生きるのだ。どうせ死ぬなら幸福に死にたい。「幸福な死に方」とは何だろう。僕は考える。ありったけのエネルギーを注ぎ、目の前の時間と風景、それにがっちりコミットする。池の蛙と戯れ、庭のチャボたちと語らい、猫のブチと左右に並んで花を眺める・・・ことではあるまいかと。どれだけこの世を楽しんだか・・・僕にも過去、数々の失敗はあった、でもヤケにはならず、また立ち上がった、日々を楽しんだ。それが幸福な死に方とつながるのではあるまいか。田舎暮らし、百姓生活において、天候を始めとした辛さのファクターは常々あるのだが、僕はふわっと心をチェンジする、切り替えが早い(これだけが自慢できる取柄)。そして自分に向かってつぶやくのだ。楽しもうぜ、赤い花を、青い空を。朗らかに交わろうぜ、庭のチャボ、池の蛙、猫のブチ、そして堆肥の中から這い出すミミズやカブトムシの幼虫たち、ついでに毛虫とだって、軽やかに交わろうぜ・・・。まだ先のことはわからない。だが、これでもって幸福な死に方に一歩ずつ近づいているような気が、僕はしているのだが、さてどうなるか。

 3月20日。まだまだ朝の風は冷たい。しかし光はタップリだ。明るい光の中を走りながら、「スマホ脳」について考えた。2022年の岐阜大学入試の小論文が「スマホ脳」だったらしい。これに論考を加えたのが早稲田大学教授のドミニク・チェン氏。その記事を数日前、朝日新聞で読んだ。そして、この言葉が印象に残った。

 簡単に手に入る情報はたやすくこぼれ落ちていく。「それはつまり、自腹を切っていなかったっていうことなんですよね」。自腹を切るとは、お金をかけることに限らず、意識を集中させて向き合うことも含む。そうして時間をかけて得たものが自分のなかに残っていくのだという

 僕はスマホを持たないのでスマホ脳それ自体を云々することはできないが、「時間をかけて得たものが自分のなかに残っていく」という表現を、体力や行動力、骨や筋肉の強さに置き換えて考えることはできる。「人の体はその人が食べたもので出来ている」そんな表現があるが、同じことは、「人の体は、その人がどれだけ活動したか、どれだけの負荷をかけてきたか、それに比例する」と言えそうな気が、僕はしている。

 今日はポットまきのトウモロコシをハウスに移植する作業をやった。ポットの発芽率は90%。この苗トレーも別なハウスに入れてあったのだが、土の乾燥が早く、かつ、トウモロコシの苗はとりわけ乾燥に弱いので、ほぼ連日、夕刻には水やりした。すでに根っ子はポットの穴から下の土に伸びている。これ以上待たせるわけにはいかない。とりあえず今日は60本だけの移植とした。

 3月21日。曇天の朝である。今朝は気分を変えて自転車を走らせる。ランニングであれ自転車であれ、人間の、僕の、心を、ふわっとさせるのは、目の前の景色が動く、流れる、それゆえであろう。車や電車に乗っていても景色は流れていくが、違うのは、自分の足を動かしてか、そうでないか、だと思う。ドロップハンドルの自転車に初めて乗ったのは17歳だった。以後、会社員時代は通勤にも使い、自転車は今も我が精神の柔和材の役目を果たしてくれている。

 光なく、天気はイマイチ。発送荷物の仕事をはさんでブロッコリーとカリフラワーの分割作業をやる。ひとつのポットにまいた6粒平均の種。発芽不良のポットもあるが、平均して4ないし5の苗が5センチ前後に育っている。この段階で、ポットをひっくり返して見るとわかるが、苗たちは互いに土の中で根を絡み合わせ、なんとか生き延びようとしている。上から見るとなんでもなさそうだが、ポットの中では生存競争が繰り広げられているのだ。ポットをゆすり、苗を地面に横倒しにする。絡み合った根を傷つけないよう気を配り、用意した別なポットに1本植えにしてやる。午前と午後、通算4時間。トータル200本を移植した。

 最後は水やりだ。いつも、この小さな苗に水やりする時、僕の心にひそかな愛が芽生える。そして囁く。今夜はこの水で一息ついて、よく眠って・・・明日からはどんどん大きくなれよ。

 ランニングと関係するちょっと興味深い記事を今日の朝日新聞で読んだ。連載のテーマは「女性とアルコール依存症」。女性のアルコール依存症は増加しているらしい、その背景には「生きづらさ」がある、というのが連載記事の軸である。記事の冒頭、57歳の女性が登場する。子供が4人いる。夫は「家のことはおまえがやってくれ」と言い、長男が荒れて食器を割ったり暴言を吐いたりしても「自分でなんとかしろ」と取り合わなかった。そんな彼女にとって朝のジョギングがずっと心安らぐ時間だった。ところが・・・そのジョギングで一汗かいたところで自販機が目に入る。缶ビールのボタンを押す。乾いた喉にしみ入るようにビールが入り、「今日は育児も家事もがんばれそうだ」という気持ちになれた。その習慣がやがて昼のワインのボトル2本にまで拡大し、授業参観の帰り道では、人目を気にしながら紙パックの酒をストローで飲む・・・。

 僕は朝酒や昼酒ということを一度もしたことがない。365日、飲まない日はないのだが、酒はすべての仕事を終え、風呂に入って心身サッパリしてから飲むものだという頑固な思いがある。同時に、ジョグとアルコールは相反するものだ、共存するものではない、そういう頑迷な思いもある。365日欠かさず飲む僕だが、寒い季節ならばワインを大きなグラスに1杯、夏のビールは、通常は350ミリリットルで、たまに畑で溺れるくらいの汗をかいた日だけ500ミリリットルを飲む。それ以上飲もうという気にはならない。記事の女性がそうであるように、アルコール依存の前段には、苦しみや煩わしさからの逃避というファクターがある。僕の場合は逃避という要素は全くない。逆にご褒美だ、もしくは、1日のしめくくりの合図だ。世に風呂ギライという人がいると聞くと不思議な気がするのだが、酒と同様、僕は365日、必ず風呂に入る。その風呂と酒がセットになって、おお、今日もよく働いたなあ、ごくろうさん・・・僕に向かってワインやビールがそう言うのだ。

 ちなみに、今から40年前、僕は会社の昼休みに必ずランニングしていた。そのころの走力はキロ3分30秒。10キロ走って会社に戻ると始業15分前。急ぎ着替えて・・・それから口にするのは、もちろんビールなんかじゃなくて、1リットルの牛乳とサンドイッチだった。この上のすっかり傷んだ写真は当時のもの。場所は上野公園。不忍池は1周が1280メートルで、そこを5周するのがルーチンだった。

 3月22日。先週の天気予報とは大きく違い、パーフェクトな空模様である。こんな空の朝は条件反射的に、僕は洗濯機を回し、布団を干す。人生の幸福はすぐ足元にある・・・そんな詩的な表現があるが、たまりにたまった作業着を洗い、布団を干す、それで心地よい幸福感に満たされるのだから、なるほど、シアワセはすぐ足元か、あるいは目の前にあるものなんだね。

 荷造りを終えた午後4時半、スコップを手にしてハウスに向かう。全部で5か所に分散して植えたジャガイモ。そのうち、最も早く、1月13日に植えたものは順調な生育を見せ、草丈は40センチにまで達した。このまま問題なくいけば来月末には収穫が可能だろう。そのジャガイモに日没タイム、せっせと土寄せする。いつだったか、『田舎暮らしの本』に、「ジャガイモは土寄せすればするほど豊作」という記事があったね。その通りだ。サトイモ、サツマイモ・・・ほかのイモはどんどん深く下に潜る性質だが、ジャガイモは地中の浅いところで上に向かって肥大する。自分の頭上が浅いと、この肥大が鈍くなる。頭の上にいっぱい土がある、そうすると土の深さに応じてイモが大きくなるというわけだ。

 午後6時35分、すべての仕事を終え、真っ暗な中で腹筋をやる。これまた、ハンで押したような我が日暮れのルーチンなのだ。畑仕事を終え、郵便受けから夕刊を取り出す。軽トラのフロントガラスに夕刊を押し当て、両足を後方に伸ばし、腰を深く落としつつ念入りにストレッチしながら夕刊を読み終えるのだ。その次がこの腹筋。100回を規定とし、100回やり終えたら腹筋台の上で背筋を伸ばし、両手を広げ、大きく呼吸しながら夜空を仰ぐ。月が見えることがある。星が見えることがある。何も見えない日もある。その腹筋を終えて、風呂、晩酌・・・我が1日はじつに変化に乏しいなあ、人によってはちっとも面白くもない人生、そう思うかもしれない日々で単調な繰り返しというわけだ。でもアキナイ。

 「やせるゼリー」というのが健康被害を及ぼし問題になっているらしい。これを食べたらやせる・・・見事にやせたという女性がネット動画でそう語る。僕は初めて耳にしたが、「シンデレラ体重」という言葉があるらしい。だが・・・そのゼリーを買って食べるとすさまじい苦み。食欲は落ち、動悸、吐き気がする。購入者は確かにやせたが、それは食欲がなくなったせいであるとしたら、どうにも切ない話ではないか。この話を聞いて、僕は思ったのだ。まさしくこれは、一昨日引いたドミニク・チェン氏の「自腹を切っていない」に等しいのではないかと。ルッキズムを否定しつつも、メイクを凝らし、懸命にやせる努力をする女心の矛盾・・・そう指摘する女性学者の論考を最近読んだが、どうしたらやせられるか、単に体重を減らすのではなく、本当は筋肉をキープしたまま体重を減らす、めりはりのついた体形にする・・・でも思考がそこに到達せず、ただやせたい。自腹を切らず、ゼリーひとつですぐやせられるという考えに至るところが僕にはちょっと切ない。大いに食べるべし。そして大いに体を動かすべし。そしたらやせる。人体における単純明快なこの事実に思考が及ばないのは、もしかしたらスマホ脳のせいか。

 3月23日。昨日から一転、朝から雨である。朝食をとりながら見たテレビは野球で盛り上っていた。昨日、一昨日と、僕もテレビで試合を見てコーフンしたのだが、今日までそのコーフンを持ち越すことはない。雨の中、タマネギ畑に向かう。このタマネギに限らず、畑はずっと乾燥気味だったから、野菜たちは喜んでいるだろう。それにしても草はよく生える。今日で4回目か、いや5回目になるな草取りは。根にからみついている草は細心の注意での指先作業だ。

 次は場所を変えてゴボウとヤマイモの掘り取り。ここは本来はヤマイモ畑。ところが、近くにあったゴボウが僕の身長くらいまで大きくなって、ものすごい数の種をまき散らした。結果、ヤマイモとゴボウの混在する畑となったのだ。すぐ近くに叩き専用のスコップを置き、手にしたスコップにからみついた土をそれにぶつけて落としながらの掘削なのだ。単なる収穫ではなく、地中深く這っているヤブガラシの長い根も根絶しようと思う。7本のヤマイモ、3本のゴボウ。それを得るまでに1時間半を要した。80センチの深さまでスコップを打ち込んだ回数は・・・たぶん500回くらいにはなるだろう。ほぼ毎日、こうした作業を繰り返す。

 骨には、それを作る骨芽細胞と、それを壊す破骨細胞というのがある。すなわち、骨は常に、同時に、新しいものを作り、古いものを壊すという働きがある。5年すると人体の骨は全く新しいものに入れ替わっているそうだ。老人になると転倒しやすい、かつ骨折しやすいとよく耳にする。僕自身も若い頃に比べたら足の運びが頼りなくなった。しかし幸い、畑で大きな荷物を運んでいても転倒することはなく、骨折とはまだ無縁でいられる。その根源は上の写真のようなスコップ1本、人力作戦による労働のたまものであろうかと思う。

 頑丈な骨を作りたかったら・・・足の場合は歩くか走る。腕や背中の場合は重いものを持つ、力仕事をする。さらに、たっぷり光を浴びることも肝要。前からしばしば言うことだが、僕は太陽(紫外線)を悪者扱いする昨今の風潮が好きではない。そんな僕が、ほら見たことかと溜飲を下げる科学記事を夕刊で目にしたのは半月ほど前だった。ビタミンD不足は疾病にもつながる、高緯度に暮らす人と女性はつとめてビタミンDの含有量が多い魚やキノコを食べるべし、そう記事にはあった。わざわざ「高緯度に暮らす人」と断るのは、北国の冬は日照が少ないからだ。太陽からの紫外線はビタミンDを作ってくれる、それゆえだ。それで思い出すことがある。四国の室戸では「サラリーマン漁師」というのが活況を呈している。よそから移住してきた若い人たちが漁師になるのだが、特筆すべきは週休があり、なんと有給休暇も取れるというのだ。そこに20歳の新人漁師(女性)が登場した。彼女は漁船での仕事の手を休め、笑顔で言った。わたし、日焼けは全く気にしません・・・僕は思わずテレビに向かって拍手しそうになった。

 雨に打たれ、全身ずぶぬれだが、まだ風呂に飛び込むには早すぎる。道路沿いにあるビニールハウスの中をクリーンアップし、しばらく使わなかった接客用の椅子とテーブルを配置し直す。近く来客があるのだ。たぶん、この『田舎暮らしの本』を読んでくれている人だろう。50代で自給自足を目指しています、「中村さんのところで勉強させてください」という申し出があった。面接というのはおこがましいが、まずは一度お会いして話をしましょう、そう約束したのである。

 3月24日。昨夜来の雨は起きたら止んでいた。ほんの少し、空は明るい。今日の朝食はキャベツと菜の花とシイタケのシーチキン炒め。それを食べながら、「腸管免疫システムがうつ病発症に影響する」という昨日の朝日新聞の記事を想い出した。ジョンズ・ホプキンス大学教授・神谷篤氏らは、マウスに毎日、短時間攻撃するなどしてストレスを与えたら、T細胞の分化に関わる乳酸菌が減り、うつ状態になることを確かめた。また、同じタイプの乳酸菌の減少とヒトのうつ病患者の重症度が相関していることも確認したという。腸が脳の働きを含めた全身への影響力を持つということは、最近しきりと言われる。乳酸菌といえば、今はそれを含んだ飲料がいっぱい売られている。僕もときどき買って飲む。ただ、それで事足れりとするのは早計だと僕は思う。研究者によって調べれば調べるほど腸管の影響力が大きいことがわかっている。胃を経由した食物のただの通過点ではなく、もしかしたら腸は人体すべてをコントロールし、その「腸点」に立つ、まことに優秀な臓器なのではないか。腸という臓器は、多種多様な肉類、野菜類、果物類、魚類、さまざまな食物を受け入れて、人体に生かす、そういうメカニズムを始めから設定されているのではないか・・・。

 そう考える僕は、時間の許す限り品数の多いおかずを毎日作る。冷たい雨に打たれる。強烈な夏の光を浴びる。そんなストレスを跳ね返せるようにと思って手間を惜しまず作る。思えば、そうした重要な臓器の腸を便秘でもって、本来ならすぐに排出すべきもので滞留させてしまうのはいかにダメなことか。腸を健全に動かすためには一に運動、二に食事。そんな気が僕はするのである。そういえば、「タケダ漢方便秘薬」の広告に“しかんせい便秘かも”というフレーズがあった。腸の筋肉がゆるむ、すなわち弛緩することで、収縮と弛緩を繰り返す蠕動運動が十分に行われなくなる。そしてもうひとつ、僕が面白いなと思ったのは、運動不足によって腹筋が弱くなり、便を押し出す力が足りなくなることも便秘の一因だと。なるほどね。僕が毎夕腹筋運動をやるのは便秘を避けるためではないが、偶然それに役立っているのだ。

 きぬさやエンドウのビニールを開放することにした。ここは元は、春キャベツを少しでも早く収穫するためのハウスだった。ちょっと窮屈だが、キャベツの背後にこのエンドウをまいたのだ。そして順次キャベツを収穫するたび、息苦しかったよなあ・・・さあこれで楽になるぜ、そう語りかけながら、僕は草を取り、土寄せしてやった。そして今、草丈170センチ。頭の部分はビニールに接触しかけている。それでもって、一気に開放してやることにしたのだ。もうかなりの数の花を咲かせている。

 3月25日。雨の朝。気温9度。昨日が暖かかったから、この文字通りの氷雨はキビシイ。でも行こう、走りに行こう。精神を目覚めさせるために、朝食を美味しく食べるために、体を動かすのだ。

 朝食後、ビニールトンネルとビニールハウスの管理に忙しく走り回る。土の乾いているところはビニールをずらして雨を受けさせ、逆の場合は閉じてやる。この下の写真はハウスの中のソラマメ。露地のものもだいぶ花を咲かせてきたのだが、両者の違いは咲いている花の位置だ。ソラマメは下から花を咲かせながら自分の背丈を少しずつ伸ばしていく性質。露地ものの背丈は現在30センチほどだが、ハウスの中ではその倍くらいまでの背丈になっている。

 発送の荷造り作業で3時間、かなり濡れて体が冷えてきたが、もう少し頑張っておこうか。苗専門のハウスにもぐりこむ。残っていたブロッコリーとカリフラワーの分割移植を100ポットやり、そうだ、まだ小さいが、根は絡み合っているはずだからこいつも1本立ちにしてやろう。トマトとナスの分割を続けてやった。ここ2年くらいで苗の値段もずいぶん高くなった。高級品質をうたうものが次々に登場してきたせいでもあるが、ホームセンターでは200円、300円する。その出費を抑えるために、アナタにも自家製の苗を作ることをおすすめする。うまくやれば300円の種1袋でトマトなら10本、ナスなら30本の苗が出来る。作業のポイントは、種を落としたポットをビニールトンネルに並べ、さらにポットの上から防寒のビニールを掛けること。それでもって晴天が続くとかなりの温度上昇となり、土の乾燥も激しいから、毎夕、水やりを忘れないこと。そして、発芽を確認したら、蒸れを防ぐため、それまでベッタリ掛けていた防寒のビニールを円形パイプでもって持ち上げてやる。そして最後の要点は、晴天の日の日中はビニールを半開きにして外の風が通るようにしてやる、だんだんと外気にならしてやることだ。

 今朝テレビを見ていて、「大谷ロス」「WBCロス」という言葉があるのを僕は知った。男性何人かが、苦笑いしながら言っていた。あれだけ盛り上がって、熱くなって、いっぺんにそれがなくなって、その落差はどうしていいのかわからない、困っています・・・。僕も野球大好き。WBCの準決勝と決勝では大いに興奮した。小学生時代のこと・・・学校の昼休みに中国新聞を配達していたという話は前に書いた。その配達の途中、海岸で立ち止まり、足元の小石を拾い上げる。10メートルくらい先の、何もない海の中にバーチャルリアリティーの捕手を座らせる。そして僕はふりかぶる。2アウト満塁。ボールカウント2―3。ここで打者を押さえれば我が勝利。一発くらえば敗戦投手・・・そう、新聞配達の途中、夢の中で僕はピッチャーだったのだ。若い人にはおそらくなじみがない。藤田、稲尾、藤尾、豊田、中西、与那嶺、川上が活躍していた時代、僕は野球少年だったのだ。

 でも、今回のWBCは過熱しすぎだよと、ちょっとばかり腰が引けていた僕。そんなに熱くなると後が大変だよ、そう思って大騒ぎの様子をテレビで見ていたが、案の定だった。熱しやすく冷めやすい・・・これは野球に限らず、人生において忌むべきことではないかと僕は考える。まあ、野球観戦にとどまる話ならばいいんだが、人生、長く暮らす、生きる、そういう場面での熱しやすく冷めやすいは全く結実につながらない。ランニング歴、百姓歴とも53年。僕はじわじわと熱した、やがてかなり熱くなった、でもそう簡単には冷めないよ・・・。そんな僕には、やっぱりあの騒ぎは過剰だったよなあ、よくあそこまで盛り上がれるなあ、不思議・・・今ひそかに思うのだ。

 3月26日。3日続きの雨である。気温も低い。目覚めた時、布団の中でかなりの疲労感があった。疲労感には2種類ある。昨日激しく使った骨や筋肉が痛い、重いという、理由明瞭なケースと、あいまい不明瞭な、ただ全身がダルイだけの疲労感。その理由がはっきりしている場合は、がばっと布団をはねて起き上がれる、すぐ行動に移せる。さて朝いちばん、人参のケアをする。ずいぶん長く、時には激しく降った雨ゆえ、叩かれた葉が地面に接している。それをうまく土寄せして立たせてやる。1月15日にまいたこの人参。土寄せのついで、1本だけ、地中の姿をチェックしてみた。まだまだ細いが、赤い人参らしい姿になっている。雨が止み、20度近い晴天の日がこれから半月くらい続けば、お客さんにはポリッとかじれるサラダ人参として出せるだろう。

 全身泥水にまみれた。寒さをこらえて荷造りだ。少しばかりだが、そしてまだ小さいが、スナックエンドウを入れることにしよう。それと、アシタバにタラの芽。世間では、桜が咲いた、桜が咲いたと喜びの声にあふれているが、野菜や山菜の世界でも春はもう着実に始まっている。

 午後5時、荷造りを終え、カフェオレを一杯飲んでもうひと仕事する。ハウスの中にトウモロコシをまく。同じくハウスの中のイチゴの手入れをする。5時半だったか。抜き取った草を入れた大きな袋を抱いて歩いていて、体がふわっと浮き上がるというか、足元が揺れるというか、そんな感じになった。胃がカラッポになっているのも感じた。ああ、久しぶりのガス欠だなあ・・・ガス欠なんて言葉は最近あまり聞かないね。たぶん、レース沿道でのケアが行き届いているせいかな。長距離レースで体のエネルギーを使い果たし、血糖値が下がることを昔のマラソンランナーは「ガス欠」と称していた。でも今は、どこの大会でも沿道には水の他にスポーツードリンクが置いてある。走りながら片手で吸って飲むことができるゼリー状のものもある。だからレース途中でガス欠になるということは、おそらく今はない。今日、久しぶりに僕がガス欠になった理由は、雨の中でやることが多く、きちんとしたランチを食べるひまなく、昨日の残り物を少量、そそくさと口に入れただけで午後の仕事にとりかかったせいだ。加えて、ふだん以上に体を動かしたせいだ。

 ガス欠と書いてすぐに思い出すのは今から40年以上前の京都マラソンだ。それは瀬古利彦さんがマラソンデビュー初勝利というレースだった。その前日まで僕は出張で名古屋にいた。医学会総会が名古屋で行われ、販売部の同僚とともに赴き、僕は担当していた医学雑誌のバックナンバーを広げたコーナーでの立ち番という役目だった。レース前夜は名古屋のホテルに泊まり、翌日曜日、朝早くの新幹線で京都に向かった。京都駅の地下の喫茶店に入り、珈琲とサンドイッチを腹に入れ、レースに臨んだ。それがいけなかった。しっかりとしたものを食べるべきだった。スタート直前に高カロリーの物を口にしておくべきだった。しかし時すでに遅し。30キロ過ぎたあたりで僕はガス欠に見舞われたのだった。

 古い話をしたついでに、雑誌『ランナーズ』との出会いについても書いておこう。どこのレースだったかはもう記憶がない。スタート前、大きな台の上に並べられた『ランナーズ』という雑誌を僕は目にした。若い女性が売り子をやっていた。それがのちに大発展を遂げる『ランナーズ』の創始者・下条由紀子さんだった。いま調べてみたら創刊は昭和51年、僕が28歳の時。創刊号は32ページ、280円。僕は買った。以後毎号愛読した。オンラインでの情報がまだない時代だ、この雑誌による大会情報が走る者にとっては貴重だった。

 現在は大幅に役員の顔ぶれが変わったようだが、長く、編集長で社長が下条さん、夫の橋本さんが副社長でカメラの専門家であった。お二人とも僕と同年齢で、現役時代は想像を絶するほどの多忙な生活をなさっていたはずだから、今はゆったりとした日々を過ごしておられるかな・・・そう勝手に想像している。ご夫婦はそろって一度我が家を訪れたことがある。僕がニューヨークマラソンを走った直後だから、25年くらい前のことになるか。その時、『ランナーズ』への原稿連載を依頼された。連載を始めてすぐに、ちょっと笑えるエピソードがあったのを今も忘れない。そのころ僕は農業新聞に週1で随筆を書いていたのだが、執筆に使うのは古臭いワープロだった。それを印刷し、郵便で編集部に送付していた。そしたらある日、下条さんが電話で笑いながら言ったのだ。いまどきワープロだなんて古いなあ、もうパソコンの時代ですよ、中村さん、パソコン使えば万事、一発ですよ・・・。それから5年後。抱くと腰にズシリとくるようなでっかい箱型のSONYのパソコンを僕は買ったのだった。

 3月27日。夕刻にはまた雨が降り出し、空気も冷たくなったのだが、起きた時はいくらか明るい空だった。苗専用のハウスに向かう。ブロッコリー、カリフラワー、ナス、ゴーヤ、キュウリ、トマト、ピーマン、トウモロコシ。合計15のトレーがギュウ詰め状態で並んでいる。水は足りているか。土から浮き上がっているものはないか。もしそうならポットに軽く土を入れ足してやる。そのハウスの側面ビニールの近くにカボチャが植えてある。やはりポット育苗したものだが、一足早く定植となったのだ。そろそろツルを出そうという状態まで来ている。たぶん来月半ばくらいになると思うが、ツルが伸びたら側面ビニールを1メートルくらい持ち上げ、南面に向かって這わせるのだ。その計画ゆえ、ハウスに隣接する8×10メートルは空き地にしてある。一部にレタスとニンニクがあるが、カボチャがそこまで延びて来る頃にはどちらも収穫が終わっているはずだ。

 さて荷造りだ。ずっと首を長くして待っていたタケノコはついに期待外れだった。ずっと乾燥状態だったし、朝晩の気温も低いし、まあ仕方ないな。と思っていたが、別な仕事で竹林に入ったら、おお、1本だけ顔を出しているではないか。よっし、お客さんに入れてあげよう。軽く下茹でしてから箱に詰める。そして午後4時。荷造りを終えて、もうひと仕事しようと思っていたところで雨が落ちてきた。その小さな雨の中で桜が静かに咲く。うちの桜10本は、毎年、東京の桜から1週間ないし10日遅れで咲く。この桜がすべて花吹雪となって散ると、風景はひたすら若葉の方向に突き進む。冬の間は100メートル先までも見通せたのに、若葉満開となると視界はほぼゼロになる。

 それぞれの人生のさま。それは、その人が持つ遺伝子と、環境要因との複合によって決まる・・・76歳3カ月の僕にはそんな思いが今ある。環境要因とは、人がどこで生まれ、どんなふうに育ち、長じて、どんな会社に入り、どんな上役や上司と交わり、どんな友人を持ち、どんな人と一緒になって家庭を作ったか・・・そういうことだ。そろそろ今回のテーマをしめくくりたい。

 僕が初めて長い距離を走ったのは中学生になって最初の運動会だった。長いといってもグラウンド10周くらい、距離にすれば2000メートルほどだったか。面白いのは、他の競技はすべて学年単位だが、この「長距離走」だけは1年から3年までの自由参加だった。僕はそれに出たのだ。あの頃、徒競走での勝者はカッコよかったが、短距離での栄えある勝者も長い距離には尻込みしていた。また、いつまでも長い距離をトコトコ走るのはダサイという目もあったかと思う。そんな長距離に僕が出たのは、たぶん、どう頑張っても短距離では勝てないという劣等感を払拭したいという気持ちからではなかっただろうか。

 昭和34年、この運動会を見に母が学校まで来た。学校は高台にある。うちを出てからすぐに道はゆるやかながら上り坂となり、やがて100段あまりの石段を登らないと学校のグランドには到達しない。母は結核を発病してからすでに10年が経過していた。長い石段をせき込みながら登るのはきっと「せんな」かったことだろう・・・しかし、運動会が終わった夜、母は嬉しそうに僕に言ったのだった。だれだれさんと、だれだれさんがケンジの方に向かって、手を叩きながら、笑いながら言うちょったよ。「あの、こんびい子はどこの子かの、こんびいのによお走るの・・・」。「お母さんはそれで、みんなの後ろの方から言うたよ、うちの次男坊じゃぁ、お母さんはそう言うたよ」。久しぶりに見た母の笑顔だった。ふるさと祝島では辛いことを「せんない」と言う、小さいことを「こんびい」と言う。1年生で、こんびい僕は、先頭集団に加わることはもちろんできなかった。しかしビリでもなかった。真ん中くらいをキープして走り続けた。

 母はその翌年、僕が中2の秋に死んだ。母の容体が急変したのは「入船」の前日だった。ふるさと祝島には1000年余の歴史を持つ神社があり、4年ごとに行われる祭り「神舞」がある。京から豊後の国に帰る途中の船が祝島沖で難破する。祝島の人々はその救助に向かう。それをもって、豊後から返礼の使者が訪れるようになる。海岸に組んだ櫓の舞台で神楽がなされる。「入船」から「出船」まで、祭りは1週間続く。これが「神舞」。明日は入船。島にはもう祭り気分が溢れていた。その日、夕刻、姉も弟も、たぶん同級生とともにどこかに遊びに行っていたのだろう。家には僕だけだった。二階からドンドンという音が聞こえた。小さなうめき声が聞こえた。僕は二階に駆け上がった。母はバケツを抱くようにして・・・喀血していた。かあちゃん、しっかりしませえ・・・そう言いながら僕は背中をさすり続けた。でも、このまま母の背中をさすっていてもだめだ。すでに暗くなった道を僕は走った。医者に母の状態を告げた。駆けつけた医者は母の命が尽きかけていると僕に告げた。翌朝、郵便局が開くのを待って、僕は2通の電報を打った。1通は東京にいる兄に、もう1通は長崎にいる父に。電文はどちらも「ハハキトクスグカエレケンジ」だった。当時の電報は1文字10円。濁点の付いた文字は2字分に数える・・・僕は小学生ですでに電報の打ち方を知っていた。魚の問屋をやっていた父は、神戸の水産会社に漁師から仕入れた魚の分量と、いついつ船の手配をという依頼を電報で連絡していた。僕はそれを見て覚えたのだ。

 3月28日。なんという天気だ。光なく、空気はほとんど真冬のものだ。頭からスッポリかぶり、顔だけ出す毛糸の帽子で仕事に励む。ポットで育てたカボチャの苗があと10本ある。ビニールトンネルを仕立て、定植するのだ。でも、この寒さだからカボチャには迷惑な話かな。晴天を待ったほうがいいかな・・・そんなことを考えながら大量の草の撤去に邁進する。

 母が死んでから62年になる。僕はずっとのちになって、母に関するふたつの事実を知った。ひとつは、結核発病後、母はいったん島の外にある病院に入院した。しかし自分から退院を申し出たという。子供たちをほっておけないからと・・・。兄11歳、姉8歳、僕が3歳、弟は乳飲み子。姉と僕の間にはもうひとり女の子がいたが、幼い時に死んだ。もうひとつ知った事実は、自分の医療と兄の学費における二者択一の場面で、母は兄を優先したということ。兄は島の子としては優秀で、県立の進学校に入り、そのまま東京の私大に入った。どれくらいの学費であったか、僕にはわからない。しかし下宿代と合わせればけっして安い金額ではなかったろう。父はある時、母に言ったという。あいつを途中退学させようか。そうすれば、おまえの薬や注射代に十分カネを回せる・・・。しかし母は父の提案をきっぱり断った。父と母は28歳と19歳で知り合った。そして、駆け落ち同然で島を離れた。その駆け落ちの暮らしの中で母が身ごもったのが僕より8歳上の兄だった。ひとつの人生の皮肉ともいえようか。当時の島の子は中学を卒業するとみな都会に働きに出た。少ないながらも、都会での稼ぎを実家に送って父母や幼い弟妹の生活を支えた。我が家はその逆だった。高校から大学まで、父と母は勉強のできる兄に期待を寄せたのだ。母は自分の体を犠牲にしてでも兄を最後まで学校に行かせる道を選んだ。

 これまで僕は、何度か「医者と薬が好きではない」と書いてきた。なぜか。病気に苦しんだ母の姿がそう言わせるのである。42歳という短い生涯だった母は僕にとって反面教師だったのである。なんとしても病気にはなりたくない。その気持ちは年齢とともに募って来た。いつまでも小さい体の自分に劣等感を覚え、なんとか打ち破りたいという反発心みたいなものも芽生えてきた。父も母も小柄だった。その遺伝子を僕は受け継いでいる。そこに加え、前に書いたことだが、母が僕を妊娠し、生まれ、育ったあの時代はまさしく栄養不足の時代だった。背が低いだけでなく、肩幅が狭く、腰回りも細い。今でも僕は女物の洋服がちょうどいい。そこから少しでも脱却しよう・・・いつしかこれが我が人生のテーマとなった。高校時代、ボクシング好きの仲間とグローブをつけて打ち合い、大学で空手部に入り、20代半ばからマラソンに熱中する・・・その根源には母の哀しい一生があった。僕には母と向かい合って食事したという記憶がない。母が使う食器はいつも別にしてあった。仕事から戻った父は、その母の食器を煮沸消毒し、湯を沸かして母の体を拭いてやっていた。

 そんな母を懸命にかばったことが僕はある。母の結婚生活は、あの駆け落ちというスタートでほぼ決まったのではないか。姑、小姑の攻撃に常にさらされていた。父は9人きょうだいの長男。跡取りの長男を「たぶらかして」一度は実家を捨てさせた、小娘のくせに・・・そういうレッテルが張られ、常に監視と批判にさらされたのだと思う。そのストレスが結核という病気につながったのではないか・・・。父のすぐ上の姉がとりわけ母には強く当たった。どんな問題があったのか僕には記憶がない。ただ小姑の叱責に対し、膝を折り、背中を丸め、母は無言のままうなだれるだけだった。そこに僕は立ちはだかった。小姑と母の間に立ち、おそらく、小学生にしてはずいぶん生意気な言葉を父の姉に投げつけたに違いない。

 人生とは、遺伝子と生活環境の複合体である・・・。母の病気が僕の人生の半分を規定した。もう半分はサラリーマン生活での上司との折り合いの悪さ。それでもって僕は会社を辞めた、百姓になった。いずれも出発点はネガティブだが、それでよかったと今は思う。普通サイズの体の男の子だったら、僕は案外のんべんだらりと青春時代を過ごしていた。キビシイ上司との出会いがなかったら、僕は幸福感満ちる今の百姓生活を経験することはなかったかもしれない。

 午前中、顔まですっぽり包む毛糸の帽子で冷たい風をこらえていたのだが、午後3時だったか、突然空が青くなり、燦燦と光が注いできた。上の写真は35年前、我が手で植えられた桜の木だ。それが明るい光の中に浮かびがっている。人生、曇りのち晴れ、あるいは雨のち晴れ、それって悪くない。氷雨だろうが、切れそうに冷たい北風だろうが、まずは目の前のやるべきことに力を注ごう。そうすれば、格別どうということもない晴れた空が大きな喜びをもたらす。明日の朝も僕は走る。畑を終えたら腹筋をやる。風呂上がりのワインがほんわかといい気分にしてくれる。人生、世間の人が考えるより、ずっとシンプルである。

 

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中村顕治(なかむら・けんじ)

1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。

https://ameblo.jp/inakagurasi31nen/

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